仏壇と一緒 | 子宮筋腫をとったらば

子宮筋腫をとったらば

2015年12月に開腹で子宮の全摘をした、45歳・既婚・子ナシの備忘録。

環境の変化に伴い今まで離れていた仏壇を引き取りました。

中の人たちは祖父、祖母、伯母と祖母の弟の4人。

 

祖父は私が子供の時に亡くなっていて、

その仏壇を祖母と伯母が守っていました。

途中で身体が弱くずっと独り身だった大叔父も亡くなり、

その位牌がやってきたけれど流石に他人の祖父と同じ仏壇に

ふたりきりで納めることに躊躇いがあったらしく。

隣に桐の小ぶりな飾り棚のようなもので並んでいました。

これも小さな仏壇には現在祖母と伯母も合流して満員御礼状態。

 

引っ越してきて家の中を整える最中、

当然仏壇の置き場を検討するわけですが。

自分の宗教関係の常識がとんでもなく薄いことに気づきました。

生まれ育った家庭にも仏壇はなかった。

お盆やお彼岸もお墓参りをするだけで、

それに付随する各種イベントを体験したことは皆無。

 

小さな家なのでもちろん仏間なんてたいそうなものはない。

じゃあどこに落ち着いてもらうのがいいのかな?

今までに見たお仏壇のある風景を思い出すと。

迫力のある仏間の大きなお仏壇。

うん伝統的でクラシカルでいいけど残念ながら参考にはならない。

モダンなお仏壇を居間に置いているお宅もあったな。

あれもほとけさまがいつも寂しくなくていい感じ。

つらつら思い返すに居間や客間に

お仏壇を置いているおうちも結構多いような?

じゃなくて。

居間や客間にないと他人である私の眼には触れないということか。

そりゃそうですよね、当たり前ですね。

 

祖母は自分の寝室に仏壇を置いていて、私も何となくそうしたい。

いつどなたが「お参りしたい」とおっしゃってくださってもいいように、

寝室に緊張感を持たせるのはずぼらな私には必要かも。

ところがたった4畳の私の部屋に仏壇を置ける場所は、

背の低い小さな棚の上のみ。

ここに仏壇と大叔父のいる小さな棚とのふたつは載らない。

さあどうしよう?

 

ずぼらを発揮して先人の遺志をさくっとスルーして、

仏壇に大叔父もお引っ越ししてもらおうかなと思ってみたものの。

当の仏壇は本当に極小でお位牌が4つは入らなくないけれど、

いかにもみちみちのきゅうきゅうで流石の私も

「これじゃあんまりですよねー」と二の足を踏むほど。

かといって仏壇をリニューアルする気はあんまりない。

 

困ったなと思っていたところで夫が、

「これはダメ?」

と大叔父の位牌の入っていた棚の引き出しをするっと抜きました。

それを立てると位牌も写真も小さな香炉もおりんも全部納まる。

そもそもこの棚がものすごくかわいらしくて。

左半分がオープンで、縁や梅の透かしのある側面もおしゃれ。

もう片方はけんどん箱のような蓋がついてその下に引き出し。

左に位牌などを並べてあって右にはお線香など諸々を収めて、

用途と違うのだけれどとてもしっくりして便利だったのです。

その引き出しも取っ手は黒い鉄の円形がぴったり張り付いていて、

使うときは下半分が手前に曲がる仕様。

それを天にして置くとアクセントとして締まるし、

サイズも置きたい場所に計ったようにちょうどいい。

 

あーこれはいい、個人的にはスッキリしてむしろ前よりありです。

でも、位牌を引き出しの中身に入れちゃうのってどうなの?

きちんとした宗教観に則って考えたら、

めちゃくちゃ怒られる様式でしょうねこれは……。

まあでも信心の薄い一家ではあるし仏壇の中の人たちは

そんなに怒らないような気がする。

中の人たちと一番近い親族であるところの母に「どう思う?」と

見せてみたら。

「あらーいいじゃない、納まりもいいし。

一平くんが考えたの?やるわねー、いいセンスよ」

母の宗教倫理もライトで助かりました。

 

仏壇と私の関係は朝起きたらふたつの香炉にお香を上げること。

あれば季節の花を切って小さな花入れに飾ったり、

好きだったお菓子をあげることくらい。

香炉の灰の中に香席で使った香木を埋めておくといいと

先生から教わったことを実行してみたら、

時々部屋にほっと伽羅が香ったりして陶然とします。

たまにはちゃんと香をたてたりも。

 

伯母の納骨の時にお墓に入れるのが本当は嫌でした。

なぜ離れていなければならないのか意味が分からなかった。

今でも後のない私たちだからもう墓じまいして、

お骨たちと暮らしてもいいんじゃないのかなーと思っています。

「お参りしたい」という母の気持ちを尊重してお墓はまだそのまま

だけれど、本音では一緒にいないのがすごくイヤ。

そんな気持ちの数年を経て、ようやく仏壇だけでも身近になって。

供養は残された人のためのものだなと、つくづく思います。

 

地面の下の骨壺の中の人たちは今の私を知らない。

「水仙が咲いたよ」と言っても「お雛様出したよ」と言っても届かない。

それなのに毎朝お線香を上げる自分の心理を少し遠くから、

不思議なものを見るような気持ちで眺めることがあります。

生前にできることは尽くしたと思えるようになってきていても、

祖母が他界してもうじき7年、伯母がいなくなって6年。

しみじみと寂しいです。

 


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