耄碌妄想日記 日曜版 №102 | 楓坂四駒堂

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耄碌妄想ラブラブ日記

 曜版No.102でおます!

 

当ブログは

曜日 午前0時

週2回更新です。

 

 

 

♪僕はまだ君を

愛しているん~だろう…

そんなことふと

思いながら…~

 

※詞・伊勢正三

 

 

1977年、「イルカ」6枚目のシングル。

♪雨の物語

 

♪なごり雪と同じ「伊勢正三」の作品。

「中森明菜」もカバーしてました。。

 

えー…語彙不足で表現が難しいのですが

「伊勢正三」ならではの…

何ちゅうか…本中華…ふっるっ!

爽やかな「女々しさ」に彩られたリリシズム?

 

 

♪僕はまだ君を

愛しているんだろう…などと

まるで他人事のように…

 

ふんとにもう!DASH!

 

♪なごり雪 ♪海岸通り♪22才の別れ

 

あと一歩、踏み出せなかったが故の

心のこり…未練…

 

きれいごととして

心に封じ込めるしかなかった恋心

 

それでも封じ込められず…

 

そんな優柔不断さが

そういうもんだわな…と

どこか心地よく響いて…音譜

 

これが「伊勢正三」の魅力?

 

好きでした…。ラブラブ

 

 

 

 

 

 

 

 

よ~く知られた名作…

 

見事なサゲがあるのに

それをもう一度

落とすなんて…

何と無謀なことを

始めてしまったのか…絶望

 

あ~あ

 

精進します。

 

 

 

 

 

第2章

「豊饒の海へ」

 

Chapter3

年誌は荒野をめざす

 

「ボーイズライフ」から

 「ビッグコミック」

 

 「ビッグコミック」

 1968年…閏年の2月29日…私大が終わり、国公立受験の直前!

 何、やってまんねん!絶望

 

 「尾関書店」で手に取った「伊坂芳太良」のモダンクラシックな表紙も眩しい、平綴じの新雑誌。

 見覚えある5人の漫画家の自画像が散りばめられた…

 「ビッグコミック(小学館)」創刊号!クラッカー

 

 思えばあれから…えー…ご、56年!…うへぇ!絶望

 今も手元に最新号「何がめでたい!」と憤慨しておられる「草笛光子」のお顔。

 

 途中、「オリジナル」とのダブル体制…後、10年単位で「スピリッツ」に浮気はしたものの、今はこうして元の鞘 ラブラブ

 相方との付き合いより、ほんの少し長いし…

 このまま添い遂げるんだろうなぁ…。

 

 記憶に残る作品を数えだしたらキリがないのですが…

 まあ…取り敢えず、書庫と言うか物置の「ビッグコミック」エリアを漁って…

 

 たしか「八代亜紀」の表紙ってあったよなぁ…と不意に想い出し…

 ああ!…「桃井さんちのかおりちゃん」も…。

 「小百合さま」…記憶がないんですけど…

 やはり「日暮修一」はうまかった…とか、いろいろ感慨に耽りつつ…。

 

 えー…創刊号の話を始めます。

 この「ビッグコミック」創刊時におけるエピソードについては、「滝田誠一郎」著「ビッグコミック創刊物語 ナマズの意地(プレジデント社)」など、いくつかこの書籍で紹介されていますので、ご興味があれば是非!

 

 私は当時の一読者…只の漫画好きとしてのうす~い想い出を…。

 

 さて…戦後…いくつもの月刊少年漫画雑誌が出揃った時期…

 「小学館」はそうした出版社とは一線を画し、メインはあくまでも学習雑誌本

 うちは教育出版社やねん!漫画本なんぞ、出せるかい!

 …と考えていたかどうかは知りませんが…汗

 ともかく漫画雑誌出版に関しては後発。

 

 満を持して…なのか、ある種の焦りなのか…?

 1959年の「週刊少年サンデー」創刊によって本格参入。

 以後、同時創刊の「週刊少年マガジン(講談社)」と並んで、週刊誌時代をリードしていった訳ですね。

 

 えー…ここで「ビッグコミック」の創刊に至るまでの「キーパーソン」…

 「小西湧之助」に触れておきます。

 これはあくまでも漫画雑誌を読む中で得た、一読者としての薄い知識によるもので、評伝などとは程遠いもの…。

 したがって、私の勝手な想像も含みます。

 

 まず…何や知らんけど、「小学館」の雑誌で、いろいろ「編集長」として名前が出てくるおっさんやなぁ…という程度。

 74年には「FMレコパル」なんていう音楽情報誌を立ち上げたりしています。

 

 で、時系列に沿って振り返ってみると…。

 既に触れましたが…

 1963年…十代の少年を対象とした総合雑誌「ボーイズライフ」が創刊。

 その創刊編集長がこの「小西湧之助」

 

 特に当初は、漫画枠はわずかひとつ。

 その執筆を依頼したのが他の誰でもなく「白土三平」

 「三平劇場」全5作

 その後も再掲載されています。

 

 この「白土三平」愛…ドキドキ

 更に顕著になったのが、「週刊少年サンデー」の編集長だったのが1965~67年

 

 

 就任早々?1965年21号「カムイ外伝(白土三平)の連載開始。

 この時「ガロ(青林堂)」においては「カムイ伝1部」を絶賛連載中。

 

 「白土三平」としては、この「カムイ伝」執筆を継続するための、「赤目プロ」量産体制の一環。

 同時期に「週刊少年マガジン」では「ワタリ」を連載(1965~66)

 

 「小学館」の…と言うより「小西湧之助」「白土三平」へのラブコール…ラブラブ

 想いは更にエスカレートしていき……

 なんと!「カムイ伝」獲得のため、1967年雑誌「ガロの買収を画策しますが、あえなく失敗に終わります…「青林堂(長井勝一)揺るがず!ということですね。

 こんなことではへこたれない「白土三平」への執着…

 

 ともかくこの年から「小学館」「ゴールデンコミックス」として単行本「カムイ伝」の刊行開始。

 私、ようやくおちついて、待望の「カムイ伝」を手に…ラブラブガロ連載開始からは3年たってました。

 

 それはともかく…

 今も語り草になっている「サンデー」編集長に就任していきなりの武勇伝?

 巨匠「手塚治虫」をめぐる前代未聞の出来事。

 この件、このコラムでも前に触れたかな…?

 

 当時、ライバル誌「週刊少年マガジン」で連載が始まったばかりの「W3」

 そもそもが「手塚治虫」「マガジン」との間に生まれた齟齬が要因だとは思うのですが…

 この「W3」「サンデー」への電撃移籍を仕掛けたのが「小西湧之助」

 「手塚治虫」「講談社」の確執はしばらく続くことになります。

 

 一方、超人気作「オバケのQ太郎」の連載が終了(1966年末)

 そして翌1967年より「パーマン」の連載開始。

 この切り替えは、アニメ放映を背景にした、テレビ局・スポンサーなど諸々の大人の事情・都合だった訳で…。

 そこらあたりは営業マター、「小西編集長」の意向が強く働いたとは思えませんが…。

 

 只、この「パーマン」「藤子不二雄」合作の時代から、徐々に別名義(「F」「A」)に移っていくターニングポイントになった作品。

 現在においてこの「パーマン」「藤子・F・不二雄」の作品となってますね。

 

 漫画編集者として、この二人の今後に関して、何らかの助言をしたことは考えられますが…どうかなぁ…。

 ともかく、剛腕…時代を創った編集者のひとり。

 

  そして時は、青年誌の時代…

 私がここまで取り上げたような雑誌が次々と生まれていきます。

 

 ここに参入すべく、周到な準備がなされた筈…。

 社運を賭けた新雑誌の創刊。

 当然、そのプロジェクトの中心には「小西湧之助」がいた筈。

 出すからには、トップにならければ意味はない。メラメラ

 先行他誌の分析も怠らず…?

 

 取り敢えず量より質…

 絞りに絞り込んだ執筆陣…それは圧倒的な布陣でなければならない!

 誰もが認めるトップランナーを…

 

 

 長くなりそうなんで、以下次週です!