ご訪問、感謝
ゴールデンウィーク
如何お過ごしでしょうか?
「楓坂四駒堂」
日曜版No.42 です。
当ブログは
日曜・木曜
午前零時更新です。
そういう訳で
「こんばんは」だか「おはよう」だか…
いずれにせよ
よろしく哀愁!
今回は第5週なんで
爺ィによる爺ィたちの4コマ
「3G」です。
では!
この夏に向けて
どうかみなさま
くれぐれも
ご注意を!
次回4コマ
「桃太郎黒伝説」
鬼退治オペーレーション
着々と進行中?
第2章
「豊饒の海へ」
青年誌は荒野をめざす
1「ぐら・こん」の頃 Ⅶ
まず…前回の「青柳裕介」についての補足を…
彼はほとんど地元「高知」に根を張って漫画を描き続けた訳ですが…
その彼の作品に惚れ込んで、アシスタントに志願した若者たち…。
ともかく場所が「高知」です。
編集部に紹介されて…という訳にはいきません。
その情熱に突き動かされるように…四国へ渡った若者たち。
そんなカリスマ性が「青柳裕介」にはあった気がします。
私の好きな漫画家の一人…「嶺岸信明」。
こういう普通にうまい漫画を描く人、実はたまらなく好きなんですね。
「麻雀放浪記」等、麻雀劇画の第一人者。
彼は宮城県出身…高卒後、「青柳裕介」に魅了され、「高知」に押し掛けたそうです。
絵柄、似てませんけどね…。
もう一人…
「小池一夫」原作「(週刊ヤングジャンプ)」の「マッド★ブル34」の「井上紀良」。
彼は滋賀県出身だそうですが、熱い想いを持って「高知」に渡ります
「青柳裕介」の漫画にはそんな漫画青年たちを魅了する…
「何か」を秘めていました。
高知在住だったアシスタント
「和気一作」や「間宮聖士」
彼らにとっても「青柳裕介」の存在は夢に導く、大きな郷土の星だったと思います。
アシスタントの多くはその後、上京し漫画家として活躍しますが…
ともかく、地方在住のまま、メジャーな漫画雑誌で十分仕事ができる…
それを証明した最初の人気作家だったと思います。
ほんと!しつこいですが…「青柳裕介」
「COM」登場以来、唯一無二、その作品はもちろん、何か不思議な魅力を持った漫画家でした。
さて…当時「ぐら・こん」の「まんが予備校」
既に、アシスタントとして漫画家を目指していた応募者も多かった印象があります。
「石井いさみ」のところにいた「あだち充」。
以前にも書きましたが、私は彼のアシスタントぶりを実際にこの目で見ています。
その他、「板井れんたろう」のアシスタントだった「吾妻ひでお」等々。
ともかく「神様・手塚治虫」が主宰する漫画雑誌です。
業界の注目度も高く、デビューへの近道であったことは事実です。
こうした漫画家予備軍のための、当時のもうひとつの登竜門…。
「小学館」が「新人漫画家」発掘のための「ビッグコミック賞」を設けたのが1968年。
※1978年からは「小学館新人コミック大賞」に。
「まんが予備校」と「ビッグコミック賞」
チャンスはより多く…と、当然、両方に応募した人も多かった筈…。
ほんの一部を紹介します。
みなさんが何よりも強い志で漫画を描いていた青雲の時代です。
前回、「まんが予備校新人賞」の入選作で紹介した「日野日出志(星野安司)」
1969年の「第2回ビッグコミック賞」で佳作2席。
1970年12月号で「ジュン子・恐喝」が入選作となった「諸星大二郎(諸星義影)」は1974年の「第12回ビッグコミック賞」で佳作に…。
「やまだ紫」は1972年「第9回ビッグコミック賞」で佳作3席。
ちなみにこの時の佳作1席が「御厨さと美」。
「ぐら・こん」にも投稿歴のある「三丁目の夕日」の「西岸良平」
1972年「第8回」の佳作1席。
「ビッグコミック賞」…他には「弘兼憲史」「谷口ジロー」「田中雅紀」「山口勝義」「笠原俊夫」らの名前がありますが…
かなりの難関、彼らはやがて夢を叶えた人たちですね。
そんな時代の彼らの熱い作品をリアルタイムで読めたことは幸せでした。
今「会長島耕作」なんて読むと、感慨深いです。
「ビッグコミック賞」…この間(10年)「大賞」はたった2名。
おとうさん!憶えてますか?
1970年の第4回「戸峰美太郎・神鷺」
隔週ペースで量産していくには、少し無理な作風でしたね…。
どちらか言えば「COM」「ガロ」向き?であったが故の受賞…
そんな気もします。
そして1974年第14回「夢屋日の市・らんぷの下」
「夢屋日の市」…現「一ノ関圭」ですね。
まあ…あれです…当時、東京藝大油絵科在学中
当時から絶句する画の上手さ…。
こうした「新人賞」…
それはけっして今も変わることはないであろう
漫画家を志す若者の熱い熱い想い…。
「ぐら・こん」の時代…現在ほど「新人賞」のない時代。
だから余計にそう感じるのかも知れませんが
何か必死さが伝わるような応募作品が多かったように感じるのは、気のせいでしょうか?
次週…やはり「COM」を象徴するような作家
「宮谷一彦」の想い出を…。
「くちづけ篇」
その10
♪足音だけが~ ついて来るのよ
ヨコハマ~
ブルーライト・ヨコ~ハマ~
やさしい~「くちづけ」 もう一度~
(※曲・筒美京平)
「橋本淳」と言えば、やはり…ね?
1968年リリース…「いしだあゆみ」26枚目のシングル
♪ブルーライトヨコハマ
強引な言い方をすれば…現在の「ヨコハマ」のイメージを決定づけた曲…
要するにカタカナ表記の「ヨコハマ」です。
そもそも「横浜」=国際港という認識はあったのですが
この曲がもたらしたヨコハマ像は印象的でした。
特に地方に住む人間にとっては…
なんや知らんけど、さすがおしゃれだがね…
名古屋の築港とは全然違うわ、こりゃ!
それ以前の港「横浜」を象徴する曲と言えば…
更に古い話で恐縮ですが…
1922年…大正11年!
「野口雨情」の作詞した♪赤い靴
赤い靴をはいていた女の子…
横浜の埠頭(はとば)から汽船に乗って
異人さんにつれられて行っちゃうんですね…。
埠頭=波止場…と言えばやはり「横浜」。
続いて1937年…これだって昭和12年!
♪窓をあければ 港が見える
メリケン波止場の 灯が見える…
「メリケン波止場」…アメリケン波止場ですね
「神戸」にもメリケン波止場はありましたが、こちらは「横浜」の大桟橋
作曲の「服部良一」が作詞家「藤浦洸」と組んで、日本のブルースを創るべく…
このメリケン波止場を望む「本牧」「山下公園」をイメージした曲。
当初は♪本牧ブルース…地名が全国区でないということで
♪別れのブルースに…唄ったのは「淡谷のり子」
ちなみに「本牧」を全国区にしたのは、やはり「ザ・ゴールデンカップス」。
こちらの♪本牧ブルースは1969年リリース。
ともかく♪赤い靴にしろ♪別れのブルースにしろ
ひたすら、ただただ暗い…。
女の子、眼の色まで変わっちゃうんですから…
ちなみにちなみに
♪暗い港のブルースという曲があります。
「なかにし礼」の作詞、「キングトーンズ」がリリースしたのは1971年。
68年の♪グッド・ナイト・ベイビーの大ヒットに次ぐスマッシュヒット。
…余談でした。
時間軸を戻します…
戦後です…やや港町「横浜」のイメージを明るくした曲。
♪あなたと二人で来た丘は
港の見える丘~
(中 略)
♪チラリホラリと花片(はなびら)
あなたと私に 降りかかる
春の午後でした~
今も色褪せない、たまらなくリリカルな抒情歌謡
1947年のリリース…私、まだ生まれてまへん!
♪港の見える丘
唄ったのは「平野愛子」。
ご存じのように「港の見える丘公園」命名の元になった曲ですね。
作詞作曲は「東辰三」…
彼のご子息が名作詞家の「山上路夫」…
これを知った時…ああ!やっぱりなァ…とか思いましたね。
環境が才能を育てるって…。
さて…本題に戻ってまいりました。
そうした様々な港・「横浜」のイメージが抱かれる中…
1968年の暮に登場したのが
この♪ブルーライトヨコハマ
私感ですが…詞・曲だけではないこの曲のアレンジの妙。
もちろん「筒美京平」ですけどね…
聴けば聴くほど思い知る、このイントロの凄さ…
始まった瞬間、極めてシンプルなのに、何故か浮き立つような心地よさ。
編曲の重要さを初めて思い知った曲でした。
何かキャバレーの名前みたいやおまへんか…?
初め、迂闊にもそんな感じもありましたけど
でも…やはり「横浜」ってブルーライトがきれいに違いない…
これは「横浜」でなく「ヨコハマ」でいいんでないかい?
うるうる輝くの「いしだあゆみ」の瞳を見ながらそう感じました。
たわいない恋人同士のじゃれ合いソング。
でもこんなふうに「ヨコハマ」のブルーライトに包まれた埠頭の近くを
誰かとじゃれ合って歩いてみたいもんじゃ!
そう思って聴いてたおとうさん、お母さん、憶えていますか?
好きな人のタバコの香りなら
嫌でも何でもない…!
思いっきり、副流煙、吸うたりますがな!
…そんな時代でした…そ、そうなのか?
♪歩いても~ 歩いても~
小舟のよぉ~に~
わた~しは ゆれ~て~
ゆれて あなたの腕の中~
「ゆれる」…この曲を包みこむ、恋する女の子の浮きたつ恋心を象徴する言の葉。
この詞と曲の一部の隙もないフィット感。
学生時代、一方は「ピアノ」を、一方は「ウッドベース」を弾き
一緒にジャズを奏でていた、この二人ならではコンビネーションのなせる技。
音楽は心地良さが一番…
大仰に構えたバラードより…こういう何でもない…実は何でもなくはないのですが…
普段着の心にフラットに入り込む…そんなのが名曲だと思いませんか?
流行歌の神髄ですね。
「いしだあゆみ」…
これが26枚目って書きましたけど…
それまではヒットメーカー「いずみたく」に多くの曲の提供を受けていました。
「詞」も「山上路夫」「永六輔」「岩谷時子」「藤田敏雄」らそうそうたる顔ぶれ。
やはり、相性ってあるんでしょうね。
なかなかヒットに恵まれません。
女優から歌手にシフトした頃なので、焦りはあったと思います。
レコード会社を移籍(ビクター→日本コロンビア)、当然、プロデューサーも変わり
ここで「橋本淳」「筒美京平」コンビと出逢います。
その1曲目が♪太陽は泣いている…久々のスマッシュヒット
そして3曲目がこの♪ブルーライトヨコハマ
一躍、トップスターに躍り出た訳です。
どうでもいいですが、以降「紅白」は都合10回出場…。
そして…心置きなく、女優に戻っていきました。
♪街の灯りが とてもきれいね
ヨコハマ~
ブルーライトヨコ~ハマ
あな~たと~二~人 幸せよ~
何なとしとくんなはれ!
お気張りやすぅ!
次週も「橋本淳」、「くちづけソング」を