次週4コマですが
「何のこれしき!戦国篇」
「義経」登場!
えっ!戦国なのか?
第1章
「ぼくら」の時代
Chapter5
さらば「ぼくら」の日々⑤
さて、「伊賀の影丸」に夢中の私は「週刊少年サンデー(小学館)」の購読を固く決意したという話…続けます。
この際、長年の愛読誌、月刊誌「ぼくら(講談社)」購読の断念。
思えば、ちょっとした勘違いで始まった「ぼくら」の購読。
「ライナーくん」を中心にいろいろな想い出が…。
残る「少年画報(少年画報社)」。
しかしどうあっても気になるのが「少年(光文社)」。
1961年夏
既に「白土三平」の「サスケ」の連載は始まってます。
これは気になって仕方ありません。
更に「少年画報」は盟友「フミトくん」との絆
「赤胴鈴之助」が読めなくなるのはつらい…。
かと言って、月刊誌2冊、週刊誌1冊は到底無理…。
そこまでわがままは言えません。
究極の選択…「少年画報」か「少年」か?
う~ん…どうする?
二人の女性に同時に言い寄られる気分…
「どっちが好き?」とか訊かれても…ああ!
経験ないんでわかりません…って
何、言ってんだかわからないくらい迷ってたんですね。
ん?
もうこうなったら、神様か天神様の言う通り…。
「どちどち、どちらが…」っておまじない頼み?
そんな矢先、迷える子羊の目の前に舞い降りたのは…
まさに神の福音とも言うべき、ある「システム」の存在。
誰からの情報だったかは記憶にありません。
少し面倒な話なので、辛抱強くお読みください。
当時…
ですからこの1960年頃ですね…
片隅とは言え、名古屋も都会ですから徒歩圏内に新刊の書店はありました。
私が毎月雑誌を買いに行く「尾関書店」もそう…。
一方、その新刊書店と同数、あるいは場所によってはそれ以上の貸本店がありました。
もちろん例の貸本漫画と言われる単行本もあった訳ですが、いわゆる月刊雑誌も貸し出しの対象でした。
何度か利用した経験もありました。
雑誌だと一冊、10円だか20円…
最終ページの貸出票に…
そうですね、だいたい3~5日後の返却期日のハンコ推してもらいます。
で、遅れると延滞金が発生するという仕組み。
その選択肢は初めからあったのですが…
仮に「少年サンデー」と「少年画報」を購読。
「少年」を貸本屋さんで借りて読むとします。
ま、それなりにわずかでも費用はかさみますが…。
では、この際、月刊誌購読は断念し、「少年サンデー」を1誌購読し、「少年画報」「少年」を貸本で…。
めでたし!めでたし!…と言いたいのですが…
これにはネックがあるのです…
私には許容できないネックが…。
小さな町の貸本屋です…同じ雑誌を何冊も用意していません。
つまり、借りに出かけて目的の雑誌があるとは限りません。
僅かな経験ですが、以前に出かけて行ってお目当ての雑誌があったためしがありませんでした。
家庭の電話の普及率も低く、予約制度などありませんし…。
要するに…いつ戻って来るかわからない雑誌をあてもなく待つ訳ですね。
人気の雑誌なんて月遅れが当たり前だったかも知れません。
人気があるなら何冊も用意すればいいのに…と思うんですが…
そこが小さな貸本屋です。
さあ、そこで神の福音とも言うべき「システム」の登場です。
簡単に言えば「回覧方式貸本システム」。
これは普通の貸本屋さんとは別の運営だったと思います。
これも記憶はやや曖昧なのですが…
まず月額の会費を決めます。
それは3冊だったり5冊だったりで値段は変わります。
例えば月3冊の契約だと、会費は新刊月刊誌の1冊分くらいだったと思います。
そして読みたい雑誌を3冊選びます。
仮に少年漫画雑誌を2冊…
後は「オール読物」といった小説誌あるいは総合雑誌との組み合わせも可…。
これを毎月新刊発行後、
おじさんがバイクか自転車で、一冊ずつ自宅まで届けてくれます。
ま、言うならば、元祖「サブスク」ですね。
そして何日後かにそれを回収、次の本を置いてゆくとシステム。
これが1週間というサイクルではなかった気がするので、3日あるいは5日って感じだったと思います。
別冊ふろくもちゃんと付いてきます。
要は回収日までにちゃんと読み終えること…それだけですね。
まるで私のためにあるような「システム」。
ま、そういう訳で…
私は「ぼくら」とはさよなら。
「少年画報」と「少年」を読み続けることになるのです。
そしてこの夏
「週刊少年サンデー」…多分「30号」より、いよいよ購読開始!
現在に至る「小学館」の漫画雑誌との長い長い付き合いが始まります。
以下次週!
~ドラマ黄金時代の女神たち
第5章
風吹ジュン
その1
♪愛がはじまる時
いよいよ「風吹ジュン」…
そしてこの後の「桃井かおり」。
思い入れの度合いが強くて、やや肩に力が入ります。
前のめりにならぬよう…心して書き進めます。
そうですね…「風吹ジュン」が世に出たのは
まず、フォトグラフィック・モデルとして…。
スカウトされたのが1971年、18才と言うんですから、当時としても遅い方かも知れません。
さて、ここでさっそく少し時間を遡っての余談を…
1964年の「東京オリンピック」。
大きな話題をさらったのは、金メダルを獲った「女子バレーボールチーム」。
この中心が、監督「大松博文」始め、「日紡貝塚チーム」の面々。
「東洋の魔女」と呼ばれました。
おとうさん!おぼえてますか?
「俺についてこい!」
「男・大松監督」のお言葉。
ああ…! あれから幾星霜
ついぞ、この言葉にする機会は私にはありませんでした…。
「小林旭」…
♪ついて来るかい
何となく、こっちの方が…とは思ったものの…
それもなし…う~ん
ああ…この曲、珍しく「遠藤実」が作詞もしたやつ(1970)。
♪こまっちゃうナ(山本リンダ)もそうか…(1966)
ええい!「それがどうした!」情報です。
さて…
この「日紡」…この年、既に社名を「大日本紡績(株)」から「ニチボー(株)」に変更。
えー…
何かつまんない話ですけど、今しばらくご辛抱を。
やがて1969年です。
この「ニチボー」が化学繊維メーカー「日本レーヨン(株)」と合併。
総合繊維メーカー「ユニチカ(株)」が誕生します。
翌1970年、力を入れた主力商品のひとつ女性水着の販促のため「水着キャンペーンガール」を選定し
毎年、美女たちが新作の水着で様々な媒体に登場することになります。
あの力強く、逞しい「東洋の魔女」のイメージを払拭するためでもないんでしょうが…
おっちゃん、よう知りません…。
ともかく…
「風吹ジュン」は1974年
この「キャンペーンモデル」に抜擢されます。
おお!ようやく主役登場!
う、長かった・・・。
この年、同時に「ユニチカ」グループ全体の自社宣伝の目的で、「ユニチカマスコットガール」も選定、その両輪でキャンペーンを繰り広げていくことになります。
「風吹ジュン」はその「マスコットガール」も兼務。
つまり彼女は何代目かの「スイムウェアキャンペーンガール」であり、同時に初代の「ユニチカマスコットガール」でもあった訳です。
公称157cmという身長。
この当時でもモデルとしては小柄な方だったと思います。
それを差し引いても、余りあるヴィジュアル的なインパクトがあった…
ということですね。
余談ついでに、まずこの「ユニチカスイムウェアキャンペーンガール」
歴代の何人か挙げておきます…
「キャロリン・ハイガー(1987)」!
この名前でわかりますか?おとうさん!
誰あろう「川崎麻世」の現?元?夫人「カイヤ」ですね。
「夏川結衣(1991)」…おっちゃん、昔から好きでんねん!
「内田有紀(1992)」
「本上まなみ(1995)」
「米倉涼子(1996)」等々。
「ユニチカマスコットガール」の方は
2代目が「手塚理美(1975~)」…「不揃いの林檎たち」ですね。
3代目が「紺野美沙子(1979~)」等々。
2000年以後はこの二つ、統合されます。
この統合後で言えば…
「忽那汐里(2008~)」が有名でしょうか?
この「ユニチカ」のキャンペーン
初期の頃の仕掛人のひとりが…
知る人ぞ知る、写真家「デイヴィッド・ハミルトン」
粒子の粗い画像と言うか…いわゆるソフトフォーカスで主に少女たちを撮ったフォトグラファー。
印象派のように淡い色彩で描かれる、妖精のような少女たち。
「わし、16才以上のおなごは断じて撮らんもんね。」
と口走る…とんでもない超ロリコンおやじ。
そう言いながら、1974年、当時30半ばのあの「デヴィ夫人」のヌード、撮ってんですけどね…
あ~あ。
むろん、キャンペーン時「風吹ジュン」だって18才、過ぎてました。
とにかく…あれこれダラダラ書きましたが…
「ねえ、誰?
あの、むっちゃんこかわいいコ。」
この「ユニチカ」のキャンペーンによって
「風吹ジュン」の名は全国に知れ渡った訳ですね…やれやれ。
この話題沸騰の美少女
その人気に所属事務所はどう対処したのか?
まずレコードデビュー!
この際、歌唱力など度外視…
私…下手とは敢えて言いません!
もう単純、人気の美少女が唄えば、話題となり、取り敢えずレコードは売れる!
これはもう、わが「吉永小百合」を始め60年代の若い女優さんはみんな、レコード、出してましたから…
否応なくって感じで…。
「私、歌はちょっと…自信ないから…。」
「そんなの関係ねェってば!」
…ってな感じでしょうね。
例えば…
「カムカムエヴリバディ」で少し取り上げた「松原智恵子」。
彼女が唄ってるの聴いたことある人、まずいないでしょうね。
デビュー曲の♪泣いてもいいかしら
私、1コーラスなら唄えます…
唄わんでよし!
ともかく、正直、プロレベルだったのは「倍賞千恵子」くらい…?
まあ、そういう感じで「風吹ジュン」はレコード出します。
1974年です。
実を言えば、その少し前(1973年)、歌唱力を度外視したアイドルがヒット曲を連発します。
ああ…こういう言い方は失礼かも。
「たくろうさん!」少しだけごめんなさい!
ドラマ「時間ですよ(TBS)」の劇中歌♪赤い風船でデビューした
「浅田美代子」。
当時、「聴くに堪えんわ!」などと、さんざんバッシングされるのですが
やはり売れちゃう訳です。
正直、私、嫌いじゃなかったです…彼女の歌。
何か…唯一無二の得も言われぬ「魅力」がありましたから。
癖になりそう…って感じ?
「音符通りに唄うて、何がおもろいねん!
おんどれ!歌唱力がなんぼのもんじゃい!」…ってね。
♪わたしの宵待草(詞・小谷夏(久世光彦)+曲・都倉俊一)
♪ひとつ忘れましょう あなたを忘れましょう
ひとつぶ涙が 頬をつたう前に~
この朧で儚げな昭和の抒情
よろしおすなあ…
あと…
♪少女恋唄(詞・松本隆+曲・三木たかし)とか
絶対「浅田美代子」じゃないと唄えない世界観。
ついでに…私の「ミヨちゃん」ベストソング。
最後のシングルだった
♪この胸にこの髪に
「橋本淳」+「中村泰士」
「浅田美代子」の魅力がほとばしる名曲。
あの彼女に敢えて不釣り合いと思えるような
♪女の意地…とか唄わせてしまう作詞「橋本淳」の巧妙さ。
速攻、唄えます…
だから、唄わんでよし!
えー…
「風吹ジュン」でした!
話を戻します。
この成功例を事務所は心強く思った筈です。
「柳の下にまだ確実にドジョウはいるずら!」と。
そして「風吹ジュン」のレコードデビューです。
デビューシングルは
♪愛がはじまる時
詞が「有馬三恵子」、曲は「平尾昌晃」
ご両人ともヒットメーカーですけど、珍しい組み合わせ。
舌っ足らずなんだか、ぶっりっこなんだか…。
はじまっちゃったんですね…これが。
思わず傍らで支えたくなるような…
どっか空気が漏れていそうな、痛々しいブレス。
まあ、これが幼気(いたいけ)でかわいかったりして…
何故かほっとけない…う~ん。
あの「風吹ジュン」がぎこちなく右見たり左見たり
健気にフリつけながら唄うんですから…。
売れちゃうんですね…これが。
こういうレコード、誰が買うんでしょう?…はい、私です!
歌番組にもどんどん出ちゃいます!
約1年間でオリジナルアルバム3枚ですもん!
しかも「握手券」、なしで。
事務所の目算はズバリ!
ひょっとして…
ご本人にとっては触れてほしくない黒歴史かも…とは思うのですが。
まあ、こうした過程を経、そんな経験も糧として
名女優「風吹ジュン」が生まれていく訳です。
何か長々と「ユニチカ」あたりで尺を取りましたが…
次週より数々のドラマに入ってまいります。