星の軌跡 Sylvie Guillem シルヴィ・ギエム Ⅲ | 華月洞からのたより

華月洞からのたより

ひとこと多い華月(かげつ)のこだわり

ギエムの魅力とは何なのだろう。
ダンスは「見る」芸術だから、「見てのとおり」といってしまえばそれっきりなのだが。


「恵まれた」という表現が、薄っぺらく感じてしまうほど「バレリーナの理想形」を具現化した身体。
細く長い手足。特に足はトウで立つと膝が引っ込み、高い甲にかけて美しい弓なりの曲線を描く「黄金の足」である。

「「理想形」が、高い身体能力を備え、超絶技巧をいとも簡単そうに披露したらどうなるのだろう?」
・・・ギエムを見たい、という興味、「入門」のきっかけはそこだろう。

 
 
有名な「6時のポーズ」は保守的な層からは「品がない」と批判された。
「ギエムでなくとも、バレリーナならあのポーズは出来るが、足を上げる高さを競っているわけでも、能力の極限を見せることイコール芸術的表現でもない。だから
出来てもやらないのだ」
確かにそうだろう。このポーズが出来るのはギエムだけではない。
しかしギエムほど、このポーズが美しく映えるダンサーは少ないのではないか。


そのうえギエムはつま先が身体の輪郭をなぞるようなスローモーションでも、かなり早いテンポの曲に合わせても、このポーズを振付の一部に難なく溶け込ませることが出来る。
長身、長い足は、それだけで大雑把に見えがちで美しく見せるため渾身の注意力が必要なはずだが、流れる所作には一瞬たりとも勢いまかせの荒っぽさはない。彼女は自分の身体を完璧なコントロール下に置く。

それを可能にしているのはギエムの音感だ。

ギエムはの音取りは速い。
楽器の演奏者を思い浮かべてほしい。

音が発音される前に、音を生じさせる動作がある。
ピアニストなら鍵盤を打つ→ハンマーが弦を叩いて音が生じる
ヴァイオリニストなど弦楽器奏者なら、弓で弦をひく(こする)→音が生じる
管楽器なら楽器に息を吹き込んで音が生じるし、
楽器でなくとも、人は歌い出す前に息を吸い込む。
ギエムの初動はまさにそのタイミング、奏者のタイミングなのだ。
「音を聞いて動く」のでも「音に合わせて動く」のでもない。
それは数字に出来ないほどの差、出来てもコンマ1~2秒の差だろうが、音が発せられた瞬間ギエムの四肢はあるべき場所にすでにある。
彼女の踊りの「キレ」は、この音感と素早く正確に動ける身体能力の両方がなくては成立しえない。


優雅さを保ちながら素早く正確に動く「動」も凄いが、「静」も凄い。
「眠れる森の美女」のオーロラ姫が踊る「ローズアダージオ」
オーロラ姫がトウで立ってアラベスクの姿勢を保ちながら、4人の求婚者に順番に手をあずけ、その手を一瞬放して高く上げる振付がある。
求婚者の手をつかむオーロラ姫の手や腕はぷるぷる震え、慎重にタイミングを計って一瞬手を上げると、次に控えている求婚者が間髪入れずその手を受け止めるのが普通だ。

ギエムは違った。
求婚者の手をなんの躊躇もなく放すと、「い~ち」とたっぷり1秒あまり高く手を
上げ、それを全く同じように4回繰り返したのだ。
「人間がサポートなしに、この姿勢を保てるのか」私は彼女の完璧な静止に、
ポカンと口を開けたまま拍手したのを覚えている。
ギエムの筋肉の強靭さ、バランス感覚はやはり並外れたものだった。


この所作も例によって「品がない」と批判する向きもあった。
観客が「大丈夫かな」と固唾をのんで見守る中、危なっかしくも必死に手を放す
オーロラ姫の可憐さ、それを求婚者たちが「受け止めるよ」と手を差し伸べる
包容力を見せるのが振付の意図であって「サポートなしでも、ほれ、このとおり」
とテクニックを見せつけるギエムは「品がない」と。
危なっかしくバランスを取っても、涼しい顔してバランスを取っても、そのこと自体がダンサーやキャラクターの「品位」に直結するのかは疑問だし、だいたい「品位」とは醸し出すものであって、出来る=見せつけてる→品がない、という論法には無理がある。


実際に劇場で見たギエムのオーロラ姫は、天真爛漫な明るさに輝き、気品と繊細さを備えていた。ローズアダージオの脅威のバランスも優雅であり、物語世界を逸脱してテクニックを見せつけるものではなかった。むしろ「サポートされる意味ってなに?」と、どこかあっけらかんとした全能感さえ感じさせて、それはまだ苦しみも嘆きも悲しみも知らない快活な16歳の少女、オーロラ姫ならではの全能感であった。
あきらかにギエムが演じたい「16歳のオーロラ姫」に輝きを添える一コマとして、
物語世界に溶け込んでいたのだ。



・・・・ギエムは充分に知的だった。
身体能力も超絶技巧も、それ自体を「売り」にすることはなかった。
他のダンサーと同様、自分の持つ能力で「何を表現するか」「何が表現できるか」
が最大の関心事であり、最終的な課題であった。
作品世界や演じるキャラクターをより明確にするために、より輝かせたり、陰影のある彫りの深いものにするため、彼女は自らの身体能力を惜しみなく使い、時には躊躇なく封印した。
彼女の「演じる」という欲求、女優としての感性は、「伝統的にこう踊るもの」という振付家の指示を拒み、それがたとえ童話から題材をとられたキャラクターだとしても、人物としての整合性を求めた。

それこそが、ギエムの作品に対する誠実さだったように思う。

・・・・・
古典の既視感は人を安心させる。
美しい架空の王朝絵巻、物語世界にバレエの古典作品は立脚している。
しかし、その物語世界からは逸脱してしまうものは、舞台で破棄されて当然のものなのか。
ギエムがコンテンポラリーに情熱を注いだのは、古典で表現されない世界にも
ダンサーとして光をあてたかった、あてるべきだと考えていたからだろうし
「現代に活きる人間」としての自分と向き合いたかったからではないだろうか。
「ダンス」というより「見たこともない身体表現」といったほうが当たっているような
作品にも、ギエムはチャレンジした。
豪華なセットもなく、美しい衣装も身に付けず、時にはあえてみすぼらしい姿で
規制の「美」とは逆行する動きを展開する。
身体そのものが何を語るのか、作品から何を感じるのか・・・舞台から投げかけ
られる「問い」に観客がとまどうことも多かった。

「日本人はコンテンポラリー作品も、受け入れてくれる」と
ギエムは語っているが、それは欧米人に比べて日本人がDNA的に「禅文化」に
代表される「問いかけの文化(芸術表現)」に慣れているからだ、と私は思うのだが。

私自身、コンテンポラリーダンスの「よい観客」ではなかったことは明白だ。
それでも戸惑いながら見入ってしまうギエムのカリスマ性は圧巻だった。