栃木:外国人の日光発見(英国大使館別荘とアーネスト・サトウ) | 趣味悠遊・古代を訪ねて

栃木:外国人の日光発見(英国大使館別荘とアーネスト・サトウ)

四季折々の自然は心を癒やし、人の記憶に残る。日光「いろは坂」を登れば中禅寺湖が待っている。勝道上人が中禅寺を建立して以来、山岳信仰の修験者が訪れる男体山のふもとの湖である(写真、男体山を背景に)。薫風とともに新緑とヤシオヤマツツジが絶妙な色彩を見せる中禅寺湖畔を歩く(写真)、今回の旅は「英国大使館別荘とアーネスト・サトウの足跡」である。明治中頃から昭和初期にかけ国際避暑地として栄えた中禅寺湖畔。欧米各国の外交官や大使館の別荘が立ち並び、多くの西洋人が訪れた。日光国立公園の自然に親しみ、国際的な避暑地として発展した。ここを最初に訪れた外国人の一人に幕末に英国の外交官として活躍し、明治維新に大きな影響を与えたアーネスト・サトウである(サトウは佐藤さんではなく Satowというスウエーデン系英国人名)。

サトウは、中禅寺湖をこよなく愛し、1896年(明治29年)に湖畔南岸に個人別荘を建てた。これが後に、英国大使館別荘となり、120年の時を経て、2016年、英国大使館別荘記念公園(写真)として開園された。隣にはイタリア大使館別荘も建ち並ぶ風光明媚な高台だ。お馴染みのCMで吉永小百合が眺める2階のベランダ(写真)、私共夫婦も同じベンチでコバルト色に輝く湖畔の風景を、かつてサトウが愛した中禅寺湖畔を望むかのように、しばしその趣にひたる。

尚、サトウは幕茉期に2度ほど、長崎のグラバー邸を訪れている。そこから長崎湾を一望する風景に強い憧れを抱いていた。ここでも中禅寺湖の風景の鑑賞に、こだわりを持っていたことが窺える。ベランダがそれである。ベランダから一望する中禅寺湖の眺望は、椅子から腰かけるよう際に最も美しく風景が観られるように設計されている(写真)。

さて、このサトウの山荘が完成した頃に最初に迎えられたゲストはイザベラ・ハード(英国女性冒険家)である。彼女は日本に5度来日し。日光には3度訪れている。このサトウ山荘に1ケ月あまり滞在し、この時友人に宛てた手紙に、山荘から眺める風景の素晴らしさをつづっている。

「日光がどうして世界的な観光地“NIKKO”になったのか」参照ください。

https://ameblo.jp/kadoyas02/entry-12150546229.html

またサトウは湖畔に船を浮かべ四季折々の紅葉は特にお気に入りであった。また当時、持ち込まれたヨット、わずか9隻だが波乱に満ちたヨットレースが行われた(1899年)との記録が、このレースに参戦し、一喜一憂するメアリー・ダヌタン公使夫人の手紙も残されているという。これは当時の避暑地中禅寺湖を語る一コマである。その後ヨットレースは本格的になり、男体山ヨットクラブも誕生し、湖畔にはイギリス、イタリア、ロシア、ベルギー大使館館等、最盛期には約30ケ国の大使館別荘が並び、ヨットレースは外交団が中禅寺湖で最も楽しみとした行事であった。まさに、ヨーロッパ的風景地に彩どりを添え、その賑わいは昭和初期まで続いた(写真、復興された男体山ヨットレースブ)。

さて言うまでもなくアーネスト・サトウ(1843~1929年)は英国人で Ernest Mason SatowSatowはスウエーデン系英国人にゆかりのある人名で佐藤さんではない。サトウは明治という新たな時代を築いた立役者の一人である。イギリス通訳生として(1862年)横浜で赴任し、その6日後に生麦事件に遭遇し、その後の薩摩戦争(1863年)、下関戦争(1863年)、兵庫開港(1865年、通訳官に昇進)、大政奉還(1867年)、戊辰戦争(1867年)等の幕末維新期の動乱をつぶさに体験している。そして新たな時代の幕開けを見届けたサトウは1868年(明治2年)に英国に帰国、この6年間の体験は日本の近代化に大きく貢献することになる。その後1895年(明治28年)に駐日公使として再度来日し、前述のごとく憧れの中禅寺湖に山荘を創立した。まさに国際観光地として日光の地形形成史にも足跡を残した人物である。

司馬遼太郎も「これは文学的な、あるいは文化的な人物ではないのだが、政治的な人物として最も評価すべきは、やはり幕末に来たアーネスト・サトウでしょうね」とドナルド・キーン氏に対談で語っているという。

尚、前述のグラバー邸のトーマス・ブレーク・グラバーともサトウとは旧知の仲である。晩年になるとグラバーも故郷のスコットランド風景に似た中禅寺湖畔に別荘を構え安らぎの場としている。またグラバーは鱒釣りをするのが何よりの楽しみで、彼が釣り場として好んでいた湯川は、日本で最初にカリマス(ブルック・トラウト)が放流されたと伝えられる川でもある。グラバーのカワマスの放流は、中禅寺湖をフライフイッシングの聖地として、さらに日本のリゾート発祥の地へと、発展させる契機ともなっている。

このようにいち早く日光の価値に気づいたのは外交官や旅行者等の蒼い眼の外国人であった。アーネスト・サトウやイザベラ・ハードを初めとして彼らは歴史と文化を称賛し、美しい自然に感動し、日光を広く世界に知らしめたのである。いま内外から多くの参拝客を迎える世界遺産「日光社寺」と共に国際観光地として更なる充実をと期待するのである。

 尚、サトウには武田久吉という次男がいた。久吉は父の登山と植物への情熱を受け継ぎ、英国留学ののち、植物博士となり、日本山岳会の創立者の一人となった。サトウ(63歳)と久吉(23歳)が中禅寺湖からの白根山の遠望を見てどのような会話をしていたのであろうか。