9月5日といえば、11年前の今日、畑山隆則(横浜光)が崔龍洙(韓国)を2-0の判定で破り、WBA世界S・フェザー級王座を獲得した日です。
93年6月に1RKO勝ちでデビューを飾った畑山は、連戦連勝を重ね、同年の全日本J・ライト級新人王を獲得(MVPを受賞)。”将来の世界王者候補”として一躍脚光を浴びると、94年9月には”拳聖”ピストン堀口の孫として注目を浴びた堀口昌彰(ピストン堀口、現在は同ジム会長)と対戦。格上の難敵を4RTKOで下し、評価を高めた新鋭・畑山はその後も破竹の勢いで白星を積み重ねた。特に印象深いのは、95年7月の朴宰佑(韓国)戦。2R開始同時にコーナーを勢いよく飛び出した畑山は、ロープ際で閃光の左フックを炸裂させ、朴をなぎ倒したシーンには戦慄が走ったものでした。
こうして10連続KO勝利をマークし、15戦全勝(13KO)の戦績を築き上げた畑山は、96年3月に満を持してOPBF東洋太平洋J・ライト級王座決定戦に出場。崔重七(韓国)を一蹴して獲得した王座は、その後3度防衛。機は熟した。強気な言動と大きな可能性を感じさせるパフォーマンスでボクシングファンのハートを掴んだ青森出身の新進気鋭のファイターは、いよいよ一世一代の大勝負を迎えた。
時は97年10月5日、両国国技館。WBA世界J・ライト級11位・畑山が世界初挑戦が挑んだのは、同級チャンピオン崔龍洙。それまで4度対戦した日本人選手は全て軍門に下っており、まさに日本ボクシング界にとっての天敵だ。崔の武器は、スタミナとタフネス、勝利に対する執念と不屈の精神力。だがスピードや運動能力、ボクシングセンスでは畑山が断然上回る。戦前の予想では、進境著しい畑山有利とする声が多かった。
スピードに勝る畑山は中盤まで試合を優位に進めた。場内の観客も新王者誕生の予感を覚えていたにに違いない。しかし、スロースターターの崔はゾンビのような男だ。中盤以降は重厚なプレスをかけながら、畑山のボディに鈍いパンチを打ち込み、俊才のスタミナを削り取っていった。筆者の主観では畑山がわずかにポイントでリードして迎えた最終12R。”虎の目”を持つ崔は鬼の形相で畑山に迫った。勝負どころであることを理解しながらも、畑山の身体が反応してくれない。これこそ修羅場を潜ってきたという経験値の差なのか。結果は1-1のスプリットドロー。勝ちでもなければ負けでもない。白黒がつかないという結果は、畑山にとって最も空虚感に苛まれるものだった。
半年後、親友・コウジ有沢(草加有沢)との「史上最高の日本タイトルマッチ」を制し、鮮烈なるリスタートを切った畑山は、次戦で決着戦に挑む。所は同じ両国国技館。減量も佳境に入った試合直前、畑山は突拍子もない行動に打って出る。何と深夜番組に出演したのだ。その破天荒な言行には賛否両論が渦巻いたが、畑山にとっては退路を封じるための一つの手段だったのだろう。もちろんリング上の畑山に浮ついた様子は微塵もない。両者は再び意地と意地をぶつけ合い、一進一退の打ち合いを展開。甲乙つけ難い試合の結末は、またしても判定に委ねられる。山口リングアナのアナウンスに固唾を飲む場内。まず畑山の名が読み上げられ、歓声に沸いたが、続くジャッジの採点はドロー。一転して静まり返る。これで畑山の敗北は消えた。だが勝ち以外の結果では、11ヵ月間の努力は水泡に帰す。大多数がそれを理解していた。そして運命の三人目、しばしの沈黙の後、コールされた名は畑山。目の周りが紫色に変色するほどのダメージの代償として世界のベルトを譲り受けた勝者は、人目も憚らず嗚咽にむせびながら、父親的存在の柳和龍トレーナーと喜びを分かち合った。
リング上に祝福のシャンパンの飛沫が飛び散ったあの日から11年ですか。自分の記憶が正しければ、1998年9月5日は確か土曜日。ちょうどこの文章を打っている時間、死闘が繰り広げられていたんですね。そういえば畑山・柳トレーナーの関係と、榎・木内トレーナーのそれがどことなくカブるのは自分だけ?榎にとって、今度の細野戦は、畑山にとってのコウジ有沢戦のような位置づけ。きっと「史上最高の日本タイトルマッチ」と同じく噛み合った試合になると思います。そして後世に「史上最高の東洋太平洋タイトルマッチ」と語り継がれる一戦になることを期待してやみません。
(※)敬称は略させていただきました