第百七十三寺・妙福寺 | 百社詣で・百寺詣で

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疫病退散を祈り巡る続百社百寺
旧き街道を訪ね、昔日の旅を想う

 

 東急池上線洗足池駅を下りると、目の前を中原街道が走り、これを渡れば洗足池。右側の道を数分行けば日蓮宗・妙福寺。

 この寺は元々寛永六年(1629)に寂した持法院日慈が日本橋馬喰町に創建した寺である。明暦の大火(1657)で堂宇は灰燼に帰し、浅草永住町で再建。大正十二年(1923)には関東大震災で焼失し、昭和二年(1927)に当地の御松庵と合併して移転した。

 この御松庵という草案は、弘安五年(1282)に日蓮上人が身延山から常陸国の湯治に向かう途中、日蓮に帰依していた池上宗仲の館(池上本門寺)に立ち寄る道中、この千束池で休憩し、老松に法衣をかけて池の水で手足を洗った。これがいわゆる「袈裟掛の松」である。

 

袈裟掛の松

 

 日蓮が手を洗ったそのとき、水中から七面天女が現れる。天女は身延七面山の湖にいて、日蓮が身延山にいる間は守護をしていた。日蓮が旅立ったあともこれについて道中を保護してきたのだった。日蓮はそれを聞き読経をすると、七面天女は消え去ってしまった。

 そのような伝説の残る場所なのである。千束池は日蓮がて足を洗ったことにより、洗足池と呼ぶようになった。また、袈裟掛の松を守るために七面天女を安置した護松堂が建てられ、人々は御松庵と呼ぶようになったという。ちなみに今の松は三代目とのこと。

 

 

 庵というにふさわしい、こじんまりとした本堂が池畔の疎林の中に佇む。妙福寺の境内自体が池の端の木々の中に自然に配置されているようで、寺域という空気感は薄い。野の仏なども点在している。

 

 

 その中のひとつに馬頭観世音供養塔がある。これは天保十一年(1840)に馬込村千束の馬医師や飼い主によって建てられた。観世音像の下は角柱となっており、東西南北それぞれの方向に地名が記されている。「北堀之内碑文谷道」、「東江戸中延」、「南池上大師道」、「西丸子稲毛」。当時設置された場所からは移されているのだが、交通の要衝だったことがわかり興味深い。

 

 

 もうひとつ、お寺近くに貼られていたのがこれ。

 

 

「御会式」の告知ポスター、なのだろう。昨今何かとキャラを作りたがる風潮がある。良いものもあれば、良くないものもある。このキャラ「イケノアカリ」はケレン味も嫌味も媚びなく、さらっとしていて心地いい。お寺や神社がいかめしい顔ばかりしていても、あまりいい感じはしない。くだける部分も必要だ。その塩梅もなかなか難しいのだが。

[東京都大田区南千束2-2-7]