『太平洋作戦』(1951)FLYING LEATHERNECKS
【アメリカ・99分】

監督: ニコラス・レイ

出演:ジョン・ウェイン、ロバート・ライアン、ドン・テイラー


 戦争映画の傑作とまで言われながらも、その一方で見る価値がない、とまでバッシングを受けている本作。

もちろん、本作のシークェンスの大半はドキュメンタリーフィルムの転用である。演出を介さない現実の映像が、

単純に、ある種スペクタクル的に羅列されたかのように見えるが、しかし、本作からその作家性を読み取ることもできるはずだ。


 私には、少なからず、スピルバーグ『プライベート・ライアン』への影響を感じられた。理不尽な命令に従わざるを得ない部下たちは、一見冷淡にその指揮をとる上司に不満を感じている。この明らかな共通点と、その上司の秘めたる感情を映し出す手紙、その他、もっと注意深く見てみれば両者の類似性は浮き彫りになるだろう。(それにスピルバーグ自身が言及してなかったっけ?出演者の名前が“ロバート・ライアン”だ、とかいう指摘もあったような??)


 本作は非常に未消化のまま終幕してしまう。この点が、この映画を「見る価値がない」と切り捨てることを許さない。一見、ジョン・ウエインとロバート・ライアンの2人の絆が深まり、両者ともに自分の希望する場所(一方は昇進、そして一方は家族である)を手にすることによって、物語として完結しているかのように思える。しかし、部下の理不尽な死に対するその他の兵士たちの不満は受け取り手を得られないまま放置されている。そして、その際のヒーローの腕には真っ白なギブスがはめられているのだ。クライマックスの場にふさわしいとは思えないこの「皮肉」は、この映画の現実性と虚構性との擦れ合いを、暗示的に示していないだろうか。そしてそれは、我々に感情的な何かを訴えては来ないだろうか。


 映画は観客にその解釈を委ねている。戦争映画は特に、その解釈によって批判を招きかねない。本作も、兵士のキャラクターがあまりに平面的であるなどといった、事実関係・歴史的背景に注視した指摘もなされている。映画そのものが「虚構」であるという事実がそこには関わってくる。経験不可能な出来事を、視覚的・聴覚的再現によって経験させる映画の、その影響力は計り知れない。だからこそ、プロパガンダ映画という類のものが量産されてきたわけであるが(今現在も、それは形を変えて行われている)、その同じ力を使って、「反戦」というメッセージを訴えることの必要性を、私は強く主張したい。



映画が、体験しがたいものを視覚化し再現することで観客に体験を促す装置であるならば、

演劇は、体験しがたいものをほとんど視覚化することなく、主にその身体性を用いた「現実感」による視覚的幻覚を促す、干渉的な人間性の表れなのではないか。


『けだもの組合』(1930)ANIMAL CRACKERS

【アメリカ・97分】



監督: ヴィクター・ヒアマン 

脚本: ピエール・コリングス 

脚色: モリー・リスキンド 

撮影: ピエール・コリングス 





『御冗談でショ』(1932)HORSE FEATHERS

【アメリカ・67分】



監督: ノーマン・Z・マクロード 

脚本: バート・カルマー、ハリー・ルビー、S・J・ペレルマン 

撮影: レイ・ジューン





『我輩はカモである』(1933)DUCK SOUP

【アメリカ・69分】 



監督: レオ・マッケリー 

脚本: バート・カルマー、ハリー・ルビー 

撮影: H・シャープ 

出演: グルーチョ・マルクス、チコ・マルクス、ハーポ・マルクス、ゼッポ・マルクス 





チコのピアノ、ハーポのハープ、グルーチョの気の利いた冗談にはさまれる独白あるいは観客への呼びかけ、そしてミュージカル的な演出、限定されたシチュエーション内部の人間が身体を大いに用いて演じる演技すらも、まるで舞台で演じられる演劇のようである。ここでは、スタジオ内に用意された巨大セットの手前に設置され、客席にいる観客の視線を特権的に代理してみせるカメラが、フレームによってステージを切り分けるのである。

しかし、それは時に、「観客の視線の代理」を超越し、我々を騙しさえもする。それは、カードゲームをしていたハーポが、アクションマッチによってなめらかに繋げられた続くショット内にて、隣の女性のハイヒールに履き替えている、そして女性のセリフ「私の靴がないわ!」において露わになる。そこで、明らかにカメラは一度停止し、設置場所を変え、役者は靴を履き替え、同じ演技を繰り返したのだ。これは、非常に奇妙な対立である。そしてそれが、コメディにおいて用いられたことが、非常に意味深なような気がする。