徳村慎
Ⅲ ポスト構造主義
(13) リオタール『ポストモダンの条件』
*2021.4.8.に病院の待合で、この章を読んだ。。。
何度か読み返してから、書こうと思う。
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科学の"物語"に対する不信感が広がり、もはや特権的性格を保持できなくなったのが、「ポストモダン」である。
科学的な「知」が発展するに従って、その内容はごく少数の専門家のサークルでだけ共有されるものであり続けることはできず、ある程度情報化し、消費者である一般市民に伝播し、受け入れられる必要がある。
不可全な情報に基づいて、限定的な仕方で自己を正当化する新しいタイプの知の物語を、リオタールは「パラロジー」と呼ぶ。
「パラロジー」を特徴とするポストモダン的な知においては、アクセントは「合意」から「相違・対立」へとシフトする。
現代における知の情報化は、資本主義システムの進化のために推進されていることは否定できないが、「情報」を通して言語ゲームが多様化・拡大していくことで、"新たな大きな物語"が脱正当化される可能性も広がるかもしれない。
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資本主義システムの推進。。。
役立つことが良いこととされること、が資本主義システムの推進なのかなぁ?
うーん。
役に立たないことを楽しむのが趣味の世界かもしれない。そして趣味こそが大事なのだとしたら。。。
いや、趣味も消費社会を作っているのだ、とすると、、、やはり資本主義システムの中にいるわけか。
でも、まあ、ここで言う資本主義システムの推進、は、科学者や政治家(からさらに下って一般人)なんかの知的な行動なのだろうから、僕の感じている資本主義社会とは違うものだろうけれど。
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最近の僕の行動は、自分の消費だけでなく、家族の消費を助けることが多くなってきたように思う。
おごったり、貸したりすることは、消費社会を回すのに大事かもしれない。
そして消費することで、経済の回転がはじまるのかもしれない。
僕の趣味の根本を言えば、、、
紙とペンさえあれば楽しめる。
それだけでも、紙やペンを作る会社があって、それを販売してくれる小売店があって手に入れられる。
会社では、紙やペンを作るのに電気が必要で、電気を作る会社があり、火力発電なら、化石燃料を燃やさないといけない。すると化石燃料を採掘したり、運んだりすることが必要になる。
という、当たり前の社会のことが、実感してくるのが大人になってからの話だったという、なんとも、勉強のできなかった僕らしい人生だなぁ、と思う。
引きこもりの人でも社会とつながっている。食べ物を食べて電気や水道を使っているのだ。
紙箱と割り箸と輪ゴムさえあれば、楽器(1弦琴)は作れるなぁ。。。究極の弦楽器かもしれない。。。
紙とペンと1弦琴で、出来る芸術(ドローイング、文芸、音楽)みたいな究極の生活をしても、消費社会の中にいるのだなぁ。。。
消費社会への反逆。
『方丈記』のような生活に憧れるのだけど、そのミニマリストぶりは、今の僕の生活からすると真逆かもしれない。
では、消費社会への反逆は不可能なのか?
(身体性の芸術である)ダンスなんかは、反逆と言えるのだろうか?
ストリートの芸術であるヒップホップはどうだろうか?、、、などと思うのだが。
『書を捨てよ、街に出よう』などと言ってみると、身体性の拡大のように聴こえる。
今、現代の日本社会の課題としては、失われた身体性をどう取り戻すか?、、、というものだろうか?
それとも、それは、スポーツのできなくなった若くない自分だから考えることなのだろうか?
バンクシーの壁画はストリートアートだなぁ。。。
あれは身体性の拡張かもしれないなぁ。。。
最後まで、読んでいただきまして、、、
ありがとうございます😊😃😆