感想『現代思想の名著30』Ⅱ ⑦ 2021.1.24. | まことアート・夢日記

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夢日記、メタ認知、俳句モドキ、詩、小説、音楽日記、ドローイング、デジタルペイント、コラージュ、写真など。2012.1.6.にブログをはじめる。統合失調症はもう20年ぐらい通院している。

感想:『現代思想の名著30』Ⅱ ⑦ 2021.1.24.
徳村慎


Ⅱ 構造主義
⑦  ラカン『エクリ』

うーんと。言葉は、言葉の領域を出ないのかなぁ?、、、というのが僕の感想だなぁ。

エディプス・コンプレックスで、父と母と息子の関係が述べられる。
息子は父を倒して母を手に入れる、というギリシャ神話が元になった話だが、、、

レヴィ=ストロースが解き明かしたように、近親相姦は、未開の地でもうまく避けられている、という話だ。。。

僕が昔観たテレビでは、未開の地での風習をやっていた。
1人目の子供は結婚前に女性と叔父さんの間で作られて、2人目は、結婚してから正式な夫との間に作られるというのがあった。
この風習をスタジオで観ていた芸能人が、性の文化の継承は大事なんだ、みたいに言っていた。

この風習は、近親相姦に当たるんじゃないか、と思うので、レヴィ=ストロースの言っていたことは、実は当てはまらないと思うのだが。。。

だとすると、性欲というのは、男性は若い女性を求める、というだけの話なのかもしれない。

言葉の上での哲学と、実際の(人類の)行動との間に隔(へだ)たりがあるように思うのだ。

それでも、言葉によって解き明かすという行為そのものが否定されるわけではないかもしれない。

引用
「想像界/象徴界/現実界」の三区分は、後期フロイトの「自我/超自我/エス」にほぼ対応している----「エスEs」は、英語の<it>に相当するドイツ語の代名詞<es>を名詞化した言葉で、無意識の匿名的な次元を指す。
引用終わり

うーーん。
ラカンの考える三区分は、記号論の発展したもの、と考えられる。

リンゴという「言葉」で思い出すリンゴの「像」と現実の「リンゴ」

自我/超自我/エスというフロイトの区分に関しては、、、3つに分けられていることから三位一体とか、そういうものの本質的な関連を感じる。3という数字に特別な意味を持たせるための仕組みというか。やはりキリスト教からは抜け出せなかったんじゃないか、なんて思う。

アドラー心理学では、無意識は自我の領域では捉えられないという話を、否定する。
無意識も自分なのだ、という。
(目的論で、人間は動く。。。)

フロイトが神経症でユングが精神病(統合失調症)を自ら克服する過程でそれぞれの心理学を発展させたらしい。そして、フロイトは神経症の患者を、ユングは統合失調症の患者を診(み)ていたが、アドラーは、普通の人の悩みを聴いていたらしい。

無意識はあくまでも言葉であるとした上でも、無意識があった方が説明しやすいことはある。

それでも、統合失調症は、ドーパミンが多い人がなる病気というのが分かっている。

引用
「現実界」との遭遇の失敗で「象徴界」が機能不全になり、「大文字の他者」の位置が空位になると、幻覚や妄想が"現実"の知覚として主体の身体につきまとうことになる。それが、統合失調症やパラノイア(妄想症)などの「精神病」である。
引用終わり

幻覚・妄想といった統合失調症の陽性症状は、確かに、頭の中の声などを現実としてとらえていることだ。

現実界と現実は違うらしい。。。

引用
私たちが日々経験している「現実」は、想像や象徴を含んでいるので「現実界」そのものではなく、むしろ私たちが「現実界」に直接接することがないよう、フィルターの役割を果たしている。
引用終わり

幻覚・妄想、思い込み、などなどを含む現実で生きていることは、それで良いんじゃないか、と思えてきた。

スピリチュアルを自分なりに探求しても良いんじゃないか、と思う。
人の意見ばかりを聴くスピリチュアルではなく、自分なりのスピリチュアルの探求。。。

言語支配ではなく、直感のおもむくまま、生きるのが良いんじゃないか。

統合失調症の僕は、ラカンの思想を取り入れつつも、自分は自分でしかないから自分が生きるしかないんだなぁ、と思えてしまう。

昔、文芸学科の先輩が言葉のために生きるのだという意味のことを言っていたが、、、やはり言葉は生きるための道具なんだと思いたい。

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最後まで、読んでいただきまして、、、
ありがとうございます😊😃😆