徳村慎
Ⅰ 現象学・実存主義
③サルトル『存在と無』
自分は何者なのか?
たどると「無」になるという。
例えば、僕の場合、音楽を演奏・録音するのが好きだ。休みの日なんかは、その趣味で半日を過ごすこともある。
音楽をやるきっかけは、、、大学1年の時に、デジタルシンセRoland XP-10を買ったのがきっかけだと思う。あとはシーケンサーYAMAHA QY8を買ったことか。
けれど、その前には、合唱部に入っていて。
合唱部に入ったのは、中学の時に歌が好きだったからだ。
そこからさらに、リコーダーが嫌いだった小学生の自分になる。けれど、リコーダーも克服して面白くなったのは、中学からかなぁ?
中学の時に、叔母さんにラジオを買ってもらったから、その時からラジオを聴くようになった。
幼稚園の頃は、エレクトーンを習って泣いている兄を見て、「慎もエレクトーン習わんか?」と言った母に「嫌」と答えた。
音楽が楽しいものだと知ったのは、中学からだと思う。けれども、それは、何がきっかけだったのかは、分からない。
自分の声が、ベルカント唱法に適していると知った喜びは、中学1年の時だったように思う。
その辺りで何が起きたかを説明出来ない。
もともとアドリブで楽器を触るのが好きだったのだ。リコーダーや鍵盤ハーモニカを中学の辺りで触りはじめたんだと思う。
全てが一致して、急に伸びることがあるのかもしれない。ラジオを聴き、リコーダーを触り、歌い。。。
25歳ぐらいでエレアコギターを買ったのも大きい転換期だった。生楽器に向かい合った感じ。弦楽器の面白さ。20歳ぐらいで買ったエレキベースとは違った面白さ。そしてギターの次にウクレレを買うことになる。ウクレレは、風呂上がりでも触ることが出来る弦楽器だった。
42歳か。
きっかけはどうであれ、音楽は続いている。
きっかけは、やはり分からないのだなぁ。。。
兄のギターを触ったこともあったと思うし、鍵盤に対する憧れは、ずっとあった。
でも、きっかけが何かは分からなくても良いのだろう。
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他者のまなざしを意識する、というのは、『嫌われる勇気』で読んだことだ。だから、すんなり頭に入った。他者がいるから、生きていられる。他者貢献というのは、『嫌われる勇気』の言葉だ。
他者の所有というのは、恋が終わったから、良く分かる。無条件で愛し愛される関係。それにも終わりがあるのだと思う。
恋愛のように人間を愛するから、愛されるかどうかが重要になるわけで。人間じゃなく物(人形であったり、石であったり、楽器であったり)ならば、僕からの愛は一方的になり、必ず愛は成就する。
だから、楽器を買うのだし、指人形を買おうかな?、、、なんて思っている。
恋が終わっても、何かに愛を注ぐことは可能だ。
TVの中のアイドルを愛しても良い。
ただ、これらの愛は、人との恋愛ではない。見返りなんてものは無いのだ。
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サルトルの行動は、ついには政治運動への関与になったらしい。今よりももっと良い社会を作ろうとする行動は素晴らしい。。。
しかし、僕みたいな頭の悪い、というか好きなものに偏りがある人間は、政治については、とやかく言わないのが良い。
と、いうよりも、政治について僕は何も知らない。。。
山本太郎が消費税を無くすための運動をしている時には、深く頷(うなず)いたものだが、僕のその興味が続くことが無かった。
いや、今でも、消費税が無くなればなぁ、と思うけど、なかなか難しいだろうと思う。
政治は、難しいのだ。
誰か、政治を分かりやすく説明してくれ。
バラエティ番組で政治を取り上げて欲しい。。。
→TVタックルみたいな感じになってしまうのかな?
うーん。。。
政治がどうの、というより、世界的な問題だと思う。。。とあるブログに書いてあった、羽毛の問題や食肉の問題。動物を食べないというのも、ひとつの選択なんだなぁ、と思う。
でも僕は肉が好きなので、食べないようにはならないか。未来は、大豆を加工した肉を食べることになるのかなぁ?
とにかく社会的な問題は、どうやって個人が解決するのか?、、、となると、サルトルの行動が政治運動になるのも無理はないけど。もっと言えば、政治よりも個人が選択する時代なのかもしれない。
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最後まで、読んでいただきまして、、、
ありがとうございます😊😃😆