図書館読書日記2019.8.25. | まことアート・夢日記

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まことアート・夢日記、こと徳村慎/とくまこのブログ日記。
夢日記、メタ認知、俳句モドキ、詩、小説、音楽日記、ドローイング、デジタルペイント、コラージュ、写真など。2012.1.6.にブログをはじめる。統合失調症はもう20年ぐらい通院している。

図書館読書日記2019.8.25.
徳村慎


昨日は、小説『舟を編む』を読んで、短い読書日記だった。TVを観ながらダラダラと本を読んでいた。このダラダラがダメなんじゃないか。同時に幾つものことをやると、薄っぺらい人生しか生きられないのではないか?

仕事の休憩中に読んでしまう他人のブログ、ネット記事、Twitterなど。。。必要な時間だろうか?
もちろん、こちらから定期的に見に行って楽しいブログもあるから、一概に悪いとは言えないけど。。。

情報の選択が求められる。
ミニマリストの本『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』を読んで情報の選択と時間の確保が大切だと気づかされた。

身についていない本は売ると決めて、段ボールにまとめていると、僕はいかに無駄な物を抱えていたかが分かる。というか成りたいものがたくさんあり過ぎた。マルチな芸術家、宗教(哲学)家、科学者。。。力を分散したからそのどれもが中途半端だ。

1つのことに情熱を傾けられる人が羨ましい。
中学、高校時代の僕は美術しか無かった。そして、その美術も決して上手くはなかった。

批評家には成りたくなかった。自らの力で何かを創り出す人になりたかった。芸術、宗教(哲学)、科学のどれでも良かった。というか、全てに成りたかった。しかし、頭の良くない僕には限界があるのだ。

本当に高校時代の僕は、美術しか無かっただろうか?……分散された世界を面白がって生きていたのではないか?

幼稚園の頃は絵しか無かったと思う。
でも次に思い浮かぶのは、絵を描くことと図鑑。その頃すでに美術と科学に興味があったのか。
小学や中学では、自分が絵に向いてると思っていた。けど、本当は下手だったんだ。
その頃から妖怪、オカルトに興味があったから、宗教へと進んでいく。
フィールドノートをつけていたのは高校から大学、大学を中退してからの統合失調症で苦しんだ時期。
小説にハマったのは、フィールドノートが科学から哲学へと移行してしまった時期じゃないか?
最初から分散されていたのだ。

分散されている人間が、自分の核となるものを考えるなら、時間の徹底した管理が必要じゃないか。

『舟を編む』の登場人物たちが、ほとんど辞典のことしか考えていないように。

『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』の著者は教養学部が出身らしい。分散された人間を出版社の編集の仕事で完成させたと言えるんじゃないかな?
編集っていろんな物事に興味があった方が出来そうな仕事だし。

僕はどうだ?
(仕事一筋に取り組めたら幸せになれるのになぁ。)

ラジオで『西の魔女が死んだ』の作者が対談してた。『西の魔女が死んだ』を読みたくなった。


『舟を編む』3/7
役にも立たないプライドばかり肥大してっから、俺は「なりふりかまわず」ってのができないのかもしれないけどな。

……西岡の言葉。辞書編集部で、西岡以外は、精鋭揃いだ。僕は、西岡に近いんじゃないか、と思う。
いや、これでも、那智黒石の彫刻は、キッチリやってるつもりだが。それでも、父の真剣な仕事と比べるとかなりの割合で何かが違う気がする。

だけどもし俺に、まじめにとっての辞書にあたるようなものがあったら。西岡はつい、そう夢想してしまうのだった。きっと、いまとはまったく異なる形の世界が目に映るのだろう。胸苦しいほどの輝きを帯びた世界が。

……馬締にとっての辞書。熱中出来る対象があるのは、良いことだ。仕事にしろ、趣味にしろ。
何にしろ、熱中出来る時と出来ない時があるから、つらい。高校の美術部よりも熱中出来るものがあるか?……やっぱり読書か。
なんだか、読書っていうと受け身だなぁ、と思ってしまう。それに高校時代だって読書はしていたから、やっぱり違うような気もする。

……結局、時間をかけて1つのことに取り組むのが、良いのだと思う。1ヶ月かけて油画を制作したり。鉛筆画の肖像画を描いたり。そういう取り組みが必要なのではないか。
今は、短時間で出来ることに偏ってしまっていて、ダメなんだと思う。今は、5〜10分ぐらいで1枚のドローイングを完成させている。それが悪い訳じゃないけど、熱量が違うと思う。
人生かけて何かをやる、というのが出来たら一番良いだろう。
それを言うと、確かにドローイングの1枚は短時間だけど、人生かけて描いてきた気もするけどなぁ。。。

だれかの情熱に情熱で応えること。

自分のなかの情熱から目をそらすのはやめだ。

……西岡の行動が次第に熱くなってくる。面白い。

……『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』では、時間をゆったり過ごすことが贅沢なんだ、みたいなことを書いてあったと思う。ミニマリストになることによって、1つ1つに時間をかけられる、みたいだ。

……僕もピアノに挑戦したり、ドローイング(というか鉛筆画に近いかな?)で芦田愛菜ちゃんの肖像に挑戦したり、ゆったりと日曜を過ごしている。

ネット記事(Twitter)
ポジティブなフィリピンの先生が

火曜日に「もう20%は金曜日だから大丈夫!」

木曜日に「もうほとんど金曜日と言っていいよね!」

金曜日に「ついに完全な金曜が来たね!」

と言っていて、見習おうと思いました。


……こりゃ見習わないとな!

水曜と日曜が休みの僕だけど、やはり週末は特別な気分だったりする。



フィリピンでも、早起き、ヨガ、ランニング続けてます。

でも習慣は途切れないことが重要なんではなく。

途切れ途切れの点線だけど、遠いところからみたら一本の長い線に見える。それが習慣なんだと思います。

……なるほど!    点線が線に見えれば習慣だよねぇ。僕のドローイングも習慣と呼べるかも。。。


『西洋哲学史  古代より中世へ』1/5

3章読了。

……ある、と、ない、についての考察。

ないものは存在し得ない。という点は非常に分かりやすい。


アニメ『千と千尋の神隠し』を観る。(TV日記を無くして読書日記と合体させる。)


カオナシって何だったんだろう?……とか、何で千尋は、両親が豚の中に居ないと分かったのだろう?……とか思いました。それは、謎のままの方がファンタジーとして面白味が増すように思えるけど。。。


誰もがカオナシで、物欲とかがあって。ミニマリストだけは、そこから遠くに居るんじゃないか、と思う。


最後まで、読んでいただきまして、、、

ありがとうございます。

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