徳村慎
2019.8.13.
『釣りキチ三平』釣犬ハチ公編
半分、釣犬ハチ公のところを読了する。
ハチ公が居たからこそ釣りが出来た盲目の少年。ハチ公が居なくても釣りが出来るようになるのかな……?
僕にはその辺が良く分からない。やはりハチ公のような賢い犬が必要な気もする。そのハチ公は、寿命が短いのだ。。。と思うと、悲しい話なのだ。
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桔梗紫(ききょうむらさき)という鯉を釣る。
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『方丈記』パラパラ読む。
ネットでも調べたけど、平安時代のミニマリスト。
ソロー『森の生活』とも比較されている。
歌を詠んでも琵琶を弾いても、なお感興があふれて尽きない時には、何度も松風の音に合わせて箏の琴で「秋風楽」を弾いた。あるいは、谷川の流れる音に合わせて琵琶の秘曲「流泉」を奏でる。私の腕前はつたないが、人に聞かせて喜ばせようとするつもりはないから、だれにも遠慮はいらない。独り楽器を奏し、独り歌って、自分で自分の心を風雅の世界に遊ばせるだけだ。
僕の持ってる楽器で言えば、琵琶はギター(あるいはウクレレ)で、琴はキーボードかなぁ。
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『西洋哲学史 近代から現代へ』
2章
実体とは「存在するために、他のなにも必要としない」ものである。厳密な意味での実体は、したがって、神以外にありえない。
実体……これって地球上の全ての生き物が太陽光を必要としている時点で、生き物ではないよなぁ。
鉱物はどうか?……重力とか引力とかが無いと成り立たないのかなぁ?……だとすると、星や鉱物ではないのかもなぁ。。。
やはり実体=神か。
というか、神は存在するのか?
11章には、マルクスの言葉から説明されている。
貨幣は、商品の神であることで現世の神となる。天上の神は、地上では卑賤なすがたであらわれるのである。
ミニマリストや断捨離や『方丈記』や『森の生活』や、『年収90万円で東京ハッピーライフ』や、、、。それらは、貨幣という神に反抗する新たな価値なのかも知れない。
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『毎日1分の片づけ習慣』
最初はパラパラ読んでたけど、読了。
本の最後は、片付けからディスプレイに話が移ったなぁ。そうだよなぁ。ジャンルごとに全て分ければすぐに取り出せるもんなぁ。
2019.8.14.
『西洋哲学史 近代から現代へ』2章読了。
1633年のガリレイの受難を伝え聞いて、デカルトが『宇宙論』の出版をさしひかえた。
4章。存在するものはすべて差異を持ち、それぞれに個体である。ライプニッツ。
うーん。差異を持っていて、個性があるのかなぁ?
個性ってなんだ?
足の長さとか顔の作りとかは、たしかに違うかも知れない。そこが個性か。なんか違うなぁ。。。
そんな違いは、個性と呼べるのだろうか?
あくまでも差異の話だもんなぁ。
違ってて当たり前だよ、という話は、もっともだけど。
思考回路も違ってて当たり前で、それは脳の差異なのかな?
ただ差異はプラスの方向なのかどうか分からないから、どうなのだろう?
身体的な差異だと、10歳の僕と20歳の僕と30歳の僕と40歳の僕って違うよね。。。
2週間で身体の水分は入れ替わってしまう、という話なので、40歳の自分も刻々と違う人間になっていってるのだろう。
そうだとすれば、なぜ、自分は自分なんだと認識出来るんだろう?
脳内の知識も(TV、ラジオ、ネット、本なんかの情報で)刻一刻と別のものになっていく。
昔好きだった人も、今は別人になっていて当然なのだ。っていうか逆も言える。昔、僕のことを好きだった人も、今は好きじゃないだろうな、と。
我思うゆえに我あり、って今だけ、今限定の思考だなぁ。我という存在が死んでしまったらどうなるのだろうか?
真っ暗な中にいて、何も無い、怖い、そんなのがずっと続くんだろうか?
それとも何も感じなくなって終わりだろうか?
転生への期待は打ち砕かれて、人は死んだら燃やされて灰や骨になって終わりだろうか?
人生死ぬまでの暇つぶし、なのだろうか?
漫画『ヒミズ』では、そんなの最底辺の人間の考えだ、って言ってたけど。うーん。何も残らないなら、なぜ僕はシンセを弾いたりしてるんだろう?
楽しいから?……そうだ。楽しいからだ。楽しいというのは暇つぶしと変わらない気がする。ここだ。ここに戻ってきた。これを考え続けると、鬱になるかも知れない。中年期の危機だ。
中年期の危機では、今までは才能だと思ってたことが、運だったのだと認識するらしい。確かに、運で生きてきた。才能なんてものは無い。哲学をやればやるほど、人間とか人類の無力さを思い知る。思い知るんだけど、(本を読むことを)やめられない。
特に読書日記が、断片的な感想を細かく書くようになってから、ますます哲学(考えること)が進む。今まで散漫だったものが言葉になっていく。
哲学の本を読むことが好きなんじゃなくて哲学することが好きなのだ。
小説は9月のノルマの本まで読んだ。(1ヶ月に1冊小説を読むのが目標)
じゃあ、次は何を借りるべきか。
『西洋哲学史 古代から中世へ』
『西洋哲学史 近代から現代へ』の2冊を読み終えていないけれど、新たに哲学の本を借りるべきか。それとも小説を借りるべきか。2冊を読み終えるまでは何も借りないべきか。
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ネット記事
超宗派を掲げる仏教と、本当の仏教問題。
どんな飲み物も提供できるフリードリンク(超宗派)の方が汎用性は高い。なのにそこで本当の飲み物はコーヒー(○○宗派)である、と言ってしまうのは、どうなのか。水(ブッダの言葉)であるというのは構わないという話。
それを考えると以前図書館で借りた『哲学の本』という本は良かった。哲学について網羅していた。西洋哲学、(仏教を含めた)東洋哲学、いろんな角度からの哲学。
まあ、哲学なんてものは、暇だから読める本かも知れないけど。忙しい人は哲学なんか読まなくても生きていられる。というか生きるのに忙しくて哲学出来ないと思う。
あとは『いま世界の哲学者が考えていること』という本も良かった。あくまでも今の哲学のみだったが、面白く読んだ。テロも含めた宗教紛争、寿命が延びる話、AIとロボットの発達、遺伝子工学を人間に応用する話……など。
『道元』という本も面白かった。人間の生きる時間は今しかないのだ、という話とか。固定観念を外せ、という話とか。
超宗派から超哲学へ。それが現在の哲学ではないか。
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最後まで、読んでいただきまして、、、
ありがとうございます。
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