小説『眠気とデカルト〜夏の火曜』 | まことアート・夢日記

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まことアート・夢日記、こと徳村慎/とくまこのブログ日記。
夢日記、メタ認知、俳句モドキ、詩、小説、音楽日記、ドローイング、デジタルペイント、コラージュ、写真など。2012.1.6.にブログをはじめる。統合失調症はもう20年ぐらい通院している。

小説『眠気とデカルト〜夏の火曜』
徳村慎


柔らかいソファに横になった。
身体は半ば沈み、半ば受け止められ、僕は左半身を下にして目を瞑る。
今読んだ本のデカルトの言葉が頭の中を回る。「我思うゆえに我あり」と。
老いた父に仕事を任せて、僕は寝る。
統合失調症だからなのか、土砂降りになったり晴れたりを繰り返す天気のせいなのか、眠い。
それでも、完全に眠れない。

ソファで横になり、眠れないまま、夢のようなイメージのようなものが浮かぶ。過去だ。僕は幼い。母親より背が低い視点の映像から僕が幼いのが分かる。
水族館の出入口がある。男の人が煙草を持っている。僕と母親は水族館に入ろうとしている。男の人は出てきて僕たちとすれ違う。煙草は僕の顔の高さで、僕は母親の後ろに隠れようとするが母親がギュッと手を握っていてうまく隠れられない。「煙草!……煙草!」僕は母親に言うが、母親は、「煙草ら無いやろ」と言ってそのまま進む。火のついた煙草が僕の顔面に迫る。僕は瞬間熱いと感じる。一瞬、頬に煙草が掠ったのかも知れない。

そして現実の僕はソファから飛び起きる。
「糞っ。糞っ」
こんな夢のようなイメージのようなものを見るのは、嫌だ。明らかに過去の出来事だ。当時が、8歳ぐらいの年齢だとすると32年前の出来事になる。つまり僕は40歳なのだ。10月末に誕生日を迎えて8ヶ月と少しの日にちが経った。つまり40歳の8月なのだ。

僕は、過去に助けてくれなかった母親を恨んだりしている訳じゃない。あれから32年経っている。年老いた母親が淹れてくれた冷えたお茶を水筒から出して飲む。そしてiPhoneXRのメモの中の夢日記に、煙草のことをフリックで書く。

夢日記を見てみると、その日の朝に見た夢は、アメリカ国旗の水着を着た犬みたいな名前の女性お笑い芸人が、アメリカの番組のタレントオーディションの舞台に出演しているものだった。どうせなら以前見たことのある天才子役の女子中学生に出てきて欲しかった。夢で見てしまうほど女性お笑い芸人に魅力があったのだろうか?……顔は美人とは程遠いものの可愛らしくて若い。しかし、アメリカ国旗の水着の身体は、少し醜いと思う。

それでも、醜いから嫌いかというと、そうでもないような気がする。僕自身、僕のことを信じられなくなって、かなりの年月が過ぎた。美醜の問題なら、携帯電話のコマーシャルの天才子役の女子中学生が圧倒的に美しい。でも、犬みたいな名前の女性お笑い芸人が悪いかというと、彼女になってくれるなら喜んで僕は付き合うだろう。まあ、40歳のオッサンが若い子と付き合えるはずもないのだが。

女性お笑い芸人の身体のことを少し醜いと書いたが、僕自身は、さらに醜い。腹は出てるし、眼鏡をかけてるし、頭髪も若い頃から比べると少なくなり眉から前髪までの間が広くなった。女性お笑い芸人は、20代で若い。僕は40歳だ。美醜の問題を論じられるほどに自分が美しくないことを自覚してしまっているのだ。

雨が降る。土砂降りだ。温暖化の進む地球が、僕の住む熊野の田舎にも影響を与えている。最近、雨が降るといえば、決まったように土砂降りになる。軽自動車で通勤する道の七色峡線は、崖崩れがあって、工事は午前九時半から午後五時までやっていた。午後五時までは、動けない。

仕事中にも関わらずこうして眠るのは、いかにもダメ人間みたいで嫌だったこともある。今は、ダメだということすら考えていない。

美人とはほど遠い女性お笑い芸人たちを見て、彼女になってくれないかと空想する。いろんな女性お笑い芸人で考えるのだが、最近は黒髪ロングの美人女性タレントのモノマネをする女性お笑い芸人も好きになりつつある。毎年夏の番組でマラソンをするのだが、その一人として選ばれた辺りから僕はだんだん好きになってしまったようだ。

こんなことを考えるのは、彼女も居ないし、結婚していないからだろう。Facebookで同級生が結婚しているのを読むと落ち込んでしまった。だから今Facebookはやらなくなった。

『新世界より』という小説を読んでいるのだが、超能力を身につけた未来人が出てくる。僕も超能力の空想をよくする。超能力で炭素の入ったものからダイヤモンドを生み出して、小さなダイヤモンドだと質屋に売ってしまうのだ。それでも儲けは十万円ほどになるだろう。それが毎日の仕事の儲けになるのだ。十日で百万円。二十日働けば二百万円か。大きなダイヤモンドだと一生暮らしていけるほどの値段で売れる。

空想の中で、兄や母や父とお金を分けあって暮らすのだ。そして、自由になるお金で芸術家としてデビューする。スピリチュアルな芸術でもいい。なんでも良いのだ。売れるならば。
身体の中の癌を正常な細胞に変える超能力も発揮する。巨大な新興宗教団体も僕を何日かレンタルしたいと契約してくる。

こういう空想をするのは仕事が辛いからなのだろうか。そう元カノに言われたことがあるのだ。今の仕事に満足していないから空想するのだ、と。
「我思うゆえに我あり」というデカルトの言葉がある。夢を見るのも空想するのも自分がいるから出来ることなのか。

フロイトならば「我なきところに思い、我あるところに思いなし」となる。そう『記号と言語』の先生が言った。たしかに夢は見たいと思って見るものじゃないから、我が意識を表すなら、我なき無意識が夢を見ているのだ。
いや、夢だけじゃない。
コーラが好きな僕が、コンビニで一番最初に選ぶのがコーラなのだ。これは意識にも上らないくらいのレベルで選んでいる。僕がコーラを好きになったのは、高校ぐらいの時からだと思う。なぜコーラが好きになったのだろう。そこにはコーラを好きだと思い込まされている何かがあるのではないか。

自転車で高校に通って、帰り道にコーラを飲むことがあった。カフェインなのか糖分が脳に巡るからなのか、疲れが少し取れるような気がしていた。それを繰り返すことでカフェインや糖分への依存が生まれるのだろう。つまりコーラ依存症なのかも知れない。これは、僕が意識して好きになった訳じゃないと思うのだ。無意識のうちに好きになってしまったのだ。きっと。

LINEのグループチャットで知り合った女性たちは、メンタルグルチャだったから「死にたい」って言う人が何人も居た。でも、聴いていると、自分まで死にたくなってくるような感じで、あまり精神衛生上良くないのだ。生まれてきて関心の範囲が極端に狭くて「死にたい」と言うばかりの人生なんて、つまらないだろう。でも、リストカットして生きてると感じる人もいるなんて世の中は広いのだ。その人たちの悲しみまでは背負えない。

なぜ美人な人や、健康的な人を避けねばならないのか。僕はB専(ブサイク専門)なのか。高校の時の彼女もブサイクな部類だった。そして、そこが好きだった理由だと思う。美人だったら僕なんか相手にしてくれないのだ。なぜ不健康な人が好きなのか。これも同じ理由だ。健康だったら僕なんか相手にしてくれないのだ。最初から目指すところが違うのだろう。それも無意識が好きな人を自分の都合で選んでいるのだと今、気づいた。

グルグルと巡る思い。
僕は眠り続ける。時々、起きてお茶を飲み、そして、また眠る。完全に眠っている訳ではない。仮眠のようなものだ。それでも時間が経ってくれる。ソファの上で、僕は考えるでもなしに考えている。

microKORG XL+が欲しいのは正直な気持ちなのかも知れない。しかし、本当に必要か?……と自分に訊ねると、必要ないという結論が出てくる。驚きだ。今年、2019年は、momotronDuoを買ったら、何も買わないと決めたら、本当に何も欲しくなくなった。これは、心理的なミニマリズムではないか?
これから楽器を使うなら、ミニキーボードのSA-46にmomotronDelayをかまして、KaossilatorにmomotronDuoをかまして、あとは、ボイスレコーダーのV-22でフィールドレコーディングやノイズやリズム系など、色んなことを流せば、完結してしまう。そう。今、僕は完結してしまったのだ。

じゃあ、何が足りない?
本を読むのは図書館で借りれば無料だし。
100円均一のメモパッドに100円均一のボールペンでドローイングは描けるし。それを写真に撮ればAmebaブログにアップ出来る。写真、コラージュも同じだ。最近、コラージュを作れるアプリがandroidスマホ用にも出ていると知って、安心した。これで乗り換えても安心なのだ。
最近の夢日記は、大学のような図書館のようなところも出てくるには出てくるが、断片的なスケッチのような夢が多い。日常を夢にしたようなものだ。
俳句モドキも、相変わらず進歩のないまま日常を詠んでいる。
こう書いてきて、再び思う。
何が足りないんだろう?

ソファで横になり、降ったりやんだりする雨の音を聴きながら、思いを巡らせる。「私は考える、ゆえに私は存在している」というのは、どういうことだろう?
ひょっとして、何が足りないのかを考えることは、無駄なのかも知れないなぁ、と思う。それでも、私を成り立たせているのが、実験音楽、ドローイング、夢日記、俳句モドキといったものなのだ、と思うと、ここは外せないな、とも思う。
すでに足りているのだ。知足(ちそく、たるをしる)だ。老子だったか、論語だったかは忘れたが。

蟻が食べ終わった弁当箱にたかっていた。
「うわ!」
僕はソファから飛び起きる。
弁当箱を持って水道で蟻を洗い落とした。こいつらは、どこまで流れていくんだろうか?
川まで流されるなら、魚の餌にでもなるのだろうか?
僕が転生して、この蟻に生まれ変わることもあるのだろうか?
水の中で溺れ死ぬのは苦しいだろうな。
火の中で死ぬのも苦しいだろうけど。
ムカデを焼いたことがある。苦しそうにもがくムカデ。あれに生まれ変わるのも嫌だな。

遍在転生観(へんざいてんしょうかん)というらしい。生きてて、次生まれ変わったら、過去だったり未来だったり、パラレルに生きてる人になったり。嫌いなあいつに生まれ変わる、なんてことも考えられるらしい。ウィキペディアで知った。

起きた僕に父から原型探しを頼まれて仕事をする。原型よりひと回り大きい箱も作った。今日は、1時間の仕事だったか。仕事が出来ただけマシだな、と思う。眠い日は、仕事が全く出来ないこともあるのだ。統合失調症だからか、気象病なのかは分からない。まあ、本当は、薬を飲むと機械操作や自動車の運転も禁じられている。無理に運転して通い、無理に機械で那智黒石の裏ズリをやったりバリ取りをやったりしているのだ。眠い日は、眠い日なりの過ごし方があるよ。と思う。

午後五時になる。結局この日は、1時間しか働けなかったので時給千円だけの儲けだった。まあ、それも、きっちり月末に支払われてくれればの話なのだが。車のエンジンをかけるとMr.BIGのベストアルバムのCDがかかった。明日は休みだ。

山道を抜けて街を抜け、国道に出ると花火大会で堤防に腰掛けないように堤防にオレンジ色の網が張られていた。今年の花火大会は、歩いて来られるだろうか?
年々暑くなるから、今年は身体の調子が悪くて無理かも知れないな、と思う。
夕方の車の流れの中で、統合失調症と付き合うのも、何年目だろうと考えた。19歳の頃には、発症していて、精神科に通いはじめたのが20歳ぐらいだったか。それとも21歳だったか。あの時期の記憶は曖昧だが、地獄からは抜けられたな、と思うのだった。
軽自動車で走っていく自分の心と国道を明るく夕陽が染めていた。


(了)


あとがき

その後、必死に働いたり、また眠気に襲われたりしながら、頑張っている。この小説のモデルとした日は特に眠気がすごかった日だった。
小説なのか日記なのか微妙なものが出来てしまった。。。反省。


最後まで、読んでいただきまして、
ありがとうございます。
(●´ー`●)