図書館読書日記2019.8.7.-3
徳村慎
2019.8.7.つづき
『谷川俊太郎詩集』
私は捨てられた皿だ
満たされぬことを知りながら
なお待つ形のまま……
そしてもし世界の中で
私も役目をもつているとしたら
そのように佇むことが私に課せられている
満たされぬことを知りながらなお待つ形で佇むことが、私に課せられているのか……?
役目って何だろうなぁ?
眠い時は眠り、詩を読む時には読む。そういうものなのかなぁ?
捨てられた皿のようだ、とするのなら、眠っても満たされず、詩を読んでも満たされないような状況なのかなぁ?
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公に頁で、ほめる、たたえる、と読むらしい。
ほめる、とフリックで入れても出てこない。(笑)
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狎れる(なれる)、、、これも読めないなぁ。
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今に陽が照り出しても
地が見え空が見え
その外には何も見えないのだから
そしてまた夜になつても
昼のかくしていたものが見え
それでもまだ僕には何も見えない
何も見えない。見えたと思っても見えていないものなのだろう。それとも見えないと思うから見えないものなのだろうか?
非二元のような感じだなぁ。
遠くて近くて見えてるけど見えない。(笑)
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『西洋哲学史 近代から現代へ』
まだデカルトのところを読んでいる。
面白い。しかし、デカルトが神を考えていたとは。うーむ。「私が考えるゆえに私が存在する」とは、精神と肉体の二元論らしい。そして精神は、神から来ている永遠のものらしい。
精神とは脳の生み出したものである、と考える時代に入るのは、どの辺りからなのか?
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デカルトを読み終えて、飛ばし読みで第9章を読んでみる。
第9章自我のゆくえ
私はただ私に対して存在し、しかも私に対して必然的に存在する
マイモン、フィヒテ、シェリング
というものだ。デカルトの私という主題が解決されていないのだと気づいた。カントの言ってることには限界がある。私を知覚するために私が存在していなければならない。それを自我だの何だのかんだの言ってるけど、私とは何か?……という視点が徹底されていないのだ。それでは神によって与えられたのが精神と言っているのと、そう変わりがない。デカルトの偉大さは、そこにあるのか、と驚いた。
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第3章経験論の形成
では、ロックがデカルトの生得的な知を否定している。ここは、偉大だと思う。経験によって獲得する知が正解だろう。ただし、経験は、両親や教師によって与えられるものなので、実際には、本物の知は、誰によって獲得出来るのか、というのは教育論で考えなければならないだろう。
(第3章読了)
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『必ずわかる! ○○主義事典』
をパラパラと読んでいた。
アートの話。古典主義が古典を美としたのに対して、ロマン派がそれまでの美を打ち破った。自分で美を見つけるのがロマン派。つまりロマン派以降を形作ったのが、自分で美を見つけるということ。
アメリカで抽象表現主義、ミニマリズム、ポップアートといったモダンアートの歴史も新たな美の発見の歴史。
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最後まで、読んでいただきまして、、、
ありがとうございます。
(●´ー`●)