徳村慎
2019.8.7.
『行け! 稲中卓球部』
前世が見える女子。良いキャラは、ヨーロッパの詩人、貴族の娘なんかなのに、、、ドリアン、バッタ、モグラ、復讐心に燃える羊。(笑)
僕もどうせ、前世ロクなもんじゃないな。パンダかな?(笑)
うーん。蠅とか蟻だったりして。
TVで観たが、、、蟻は、年老いた者が外に出てエサを集めるらしい。
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ネット
ヴェルナール・ウェルベル『蟻』『蟻の時代』『蟻の革命』という3部作。面白そう。だが、図書館には無いらしい。
昨日、食べ終わった弁当箱に蟻が、たかっていた。それと、『新世界より』のバケネズミが蟻っぽいのだ。
バケネズミは図書館(ミノシロモドキという生物に擬態したもの)で知識を得る。そして社会を手に入れる。バケネズミが手に入れる社会とは、過去の人間の狂気でさえ手に入れてしまうことなのだ。しかし、呪力を持った人間が正しい社会を築いているかというと、かなり怪しい。結局、『新世界より』の中で正しい社会は出てこないのかも知れない。
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ネット
ブログを読んでいて、気になる本のタイトルがあった。『ずっとやりたかったことをやりなさい。』という本だ。芸術というのは、やりたかったことを、やり続けるのが強みなのではないか?
……とは思うものの、僕のやりたかったことって何だろう?
音楽への憧れ、美術への興味。
美術の大学を中退して、那智黒石の仕事を選んだこと。一時期アメブロで小説を書いてたこと。
なんの取り柄もなく生きてきたなぁ、と思う。
やりたかったことと、やれることは違う。
それでも、幸せに生きるなら、やりたかったことをやる、ということなのかも知れない。
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『新世界より』下巻4/5。
オオオニイソメに乾さんが殺される。
サイコ・バスター(バイオハザードのマークの物体、十字架にも似ている)を手に入れる。
この小説を読んでいて、僕が書きたい小説は、どんなものだろう?……と考える。
現実と妄想、夢の世界を描くのが良いのではないか?……那智黒石を作る僕の日常。本を読んで、デカルト「我思う、ゆえに我あり」を考えたりする。
そんな小説を書くのはどうか?
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私小説を書き始めたが、上手くいかない。
何が言いたいのか結論が分からない。
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『新世界より』下巻読了。
早希が一人で奇狼丸と覚と合流。
サイコ・バスターが砕けた時に、早希は炭疽菌を燃やしてしまう。それで、覚と悪鬼は助かった。
悪鬼に奇狼丸を殺させて、奇狼丸が包帯を取り、バケネズミであることを悪鬼に知らせる。そうすると愧死機構で悪鬼が死ぬ。
それからは街を救い、捕まったスクィーラーの無限地獄の刑から逃れさせるために殺す。
実はバケネズミたちの遺伝子は人間から来ていた。呪力を持たない人間がバケネズミに変えられたのだ。
そして早希と覚の間に子供が出来る。
H.G.ウェルズの『タイムマシン』のような最後だったなぁ。機械を操る労働者と遊んで暮らす資本家が2つの人間に進化させていたっけ。
労働者はバケネズミであり、資本家は呪力を持つ人間である。冒険物語として『新世界より』は面白かった。そして、そこに込められた意味は深い。
さてさて。明日(か明後日辺り)は仕事の帰りに図書館に行くことになるのかな?
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『もっと知りたいモネ』
パラパラめくって読む。
晩年のモネは主題を描かないことからジャクソン・ポロックのような抽象表現主義と似ていると死後に評されたらしい。
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『谷川俊太郎詩集』2/7。
私は見るのをやめる/その時突然私は生き始める
観察者であることをやめると、そこから人生がはじまる。そうであれば、体験者となるのだろうか?
観察者は、冷たく人生について考える。あるいは、地球について。自然について。
体験者は人生、地球、自然の一部となる。
漫画『僕といっしょ』で、はやく宇宙人やってこないかなー?……僕たち特待生なのになー。と言っているのをなぜか思い出す。
価値観は、いきなりガラッと変わる可能性がある。
観察者から体験者へ。
しかし、幽霊に会った体験も、何年も経てば観察者のような視点に変わるなぁ。
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うつろいやすいものは姿なのだ
だが姿を信じそして姿を愛することが喜びだ
ゆりやんれとりぃばぁが夢に出てきた。
うーん。なぜだろう?
美しいものが夢に出てくるなら、それは分かる。美への憧れとか。芦田愛菜ちゃんが出てこないのは僕の能力の限界というやつなのか。芦田愛菜ちゃんは、3度ほど夢に出てきている。
アニマが理想像から現実の像になってきているということか。それでは、芦田愛菜ちゃんが遠ざかっているということになるなぁ。うーん。
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空が急に空虚になる
書かれた文字は眩しすぎる
私は小手をかざす
すると遠い山山ばかりがはつきりする
人生ってそんなものだよねぇ。
39歳の頃、空虚だったよ。本の意味が読めなかった時期もあったなぁ。あれは、いつの頃のことだろう? 芸術の偉大さが遠くにあって、僕の人生はちっぽけだなぁ、と感じることがあるよねぇ。これは、40歳の今の方が感じるかも。
(でも、この詩の続き。)
私は歩いてゆく
世界が私をみつめている
私は死の方へ目をそらす
というのは、もう少し生きてみないと分からないかもなぁ。
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街で買うと/孤独がお釣に来る
それを何に費おうかと/あてどなく歩き廻る
図書館の本を読むことは、孤独の費やし方だなぁ。
以下、この詩の続き。
だが明日が私をいじめる気配がある
明日が来るのが怖いのか。明日死んでしまうかも知れないという思うからか?……それとも?
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私は踊る
世界が玩具の楽器になる
まるでフィールドレコーディングだな。
踊るのか指揮しているのか、よく分からないけど、面白い。この前眠れなかった時に、虫や蛙の声に合わせて指揮してみたんだよね。そうすると、あべこべに指揮に合わせて虫や蛙の声が歌っているように聴こえた。
(この詩の前)
私は哲学の透明度を計る
谷川俊太郎の詩は、確かに哲学だなぁ、と思う。
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私の言葉は小鳥の声と変わらない
これもフィールドレコーディングの時に楽器を触っている感じに近い。小鳥の声と等価なのだ。
芸術は、ただ流されて作るものなのだ。芸術は、ただの流れである。そうなると、カボチャを作るのも芸術だし、扇風機のスイッチを入れることも芸術だし、道を歩くことも芸術になる。あるいは人生を生きることも芸術だ。
かつての仲間たちで芸術をやり続けている者が残されているだろうか?……みんな人生という芸術を生きているに違いないか。
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私は心の秩序を見ようとして
人の森で迷子になった
読書は時折、迷子になるものだ。小説は、心を表すものだから小説と心理学は近い。近いけれど、小説は力業でもある。心理をねじ伏せるような。でも、それで納得する。迷子になることが心地良いのだ。
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私は生に用事がないので
いつも歌ってばかりいる
これは、人生をお金儲けに費やす人とは真逆ということではないのか?
いや、生というのは積極的に子孫を残すことか?
とにかくエネルギッシュなことから遠ざかり、歌ってるのかも知れない。
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私が生きたら
物語が終わらなくなつてしまった
非二元に近い気がする。非二元の世界から、ストーリーの世界に戻って来て、ストーリーが終わらないと考えると面白い。詩(人生)は、終わらない。その意味ではワンネスのような何かなのだが。詩(人生)が終わらないから、終わらせたいという希望。そんなふうに感じた。
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-2につづく
(●´ー`●)