図書館読書日記2019.6.5.
徳村慎
2週間図書館に行かなかったのは、なかなか読書が進まなかったからだ。
といっても、買った本のコナン・ドイル『失われた世界』を読み終えたり。
図書館で借りた、山頭火の本を読み終えたり。
『僕といっしょ』という古谷実の漫画も読み終えたり。
『釣りキチ三平』の鮎漁の話(茜屋流鮎漁師)を読み終えたりもしていた。
山頭火は、読んでて鬱が入ってくるような内容でマイッタ。その割に、山頭火の俳句は、明るいような気持ちの良い俳句で。鬱な日記と、素晴らしい俳句というギャップがありつつ、その2つは見事に表裏一体であり、やはり鬱のような影もあるからこその俳句であるのだな、と思った。
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今回再び借りた本
『現代アート事典』
『道元』
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結局、3冊借りてて、その内の1冊を返して、2冊を借りてきた。
『現代アート事典』は、学生の頃にこんな本があったら、理解する能力があったら、と思った本だ。僕は、絵画だけに、こだわりすぎた。こだわりすぎて、絵画が描けなくなった。今見ると、学生の頃の絵は下手すぎる。下手も下手も、ド下手クソ。なんと、こんな絵しか描けなかったのか、と非常に自分が恥ずかしくなる。
今だって、下手なんだろう。写真があって、絵画があって、コラージュがあって、と幅が広がっただけなのだ。もっと言えば、僕の音楽は、あれは、アートなのだ。うーん。だから、音楽というよりも美術に近いのかも知れない。ド下手と言えば俳句モドキは、数だけこなして、全く上手くなる気配さえない。これで良いのか?……まあ、人生楽しけりゃ良いんだけど。
人生楽しけりゃいい、とは、快楽主義者の言葉だ。
僕は、快楽主義者だった。しかし、40歳で鬱を経験して、人生全部がのしかかっての芸術は作れないんじゃないか?……という疑問というか問題というのかにぶち当たった。
そこで、哲学に居場所を求めるのだが、『道元』は、読んだ時は理解しているつもりなのだが、本を閉じた途端に、『道元』の言っていることには、たどり着けないんじゃないか?……というこれまた問題にぶち当たる。
だいたい、道元さんの言葉は修行するお坊さんに対して書いている言葉なのだ。それを体得しようなんてのは、虫が良すぎるかも知れない。
それでも、解説する言葉の中に、つながり、というのがある。現実が空となり、その空がさらに現実に帰るのだけど、繋がってるのが違うのだと。
つながり。売ろうと思っていた本の『社会学講義』を段ボールから取り出した。つながりが重要だとするなら、社会学ではないか。いや、生態学かも知れないが。とにかく、つながりを勉強し直すべきなのだと思った。
最近は、LINEで、繋がっている仲間が居て、いろいろ教えてもらってるんだけど。漫画の手塚治虫『火の鳥』の黎明編(1巻)を読み返したいと思った。神話の世界と古事記、日本書紀に記されなかった、ウエツフミ(上記)とか。あとは卑弥呼の居たのは、四国じゃないか、とか。ワクワクする話を教えてもらった。
やはり、天皇の起源となる天津神の国譲りは、大陸系の人物、あるいは種族ではないか、とか。黎明編でも、似たようなことは書いてあった。
『道元』に話を戻すと、道元は、哲学の最後の砦のような気がする。これが分かれば、あとには、悟りと修行の世界しかないのではないか、と。
自分の身体が悟りによって世界に広がる。という言葉。身体の拡大。結局、色即是空、空即是色。これが分かれば良いという問題に立ち返るが、そこを、重要な問いにまで高めたのは、道元ならでは、だと思う。
『正法眼蔵入門』で書かれていたことを再確認したというか。一番最後には、『正法眼蔵』を自分で読むしかないのかも知れないが。
量子力学に近いものを感じたりする。自己と他という2元論から、自己と他の境界が曖昧になっていくような。
最近、この『正法眼蔵』のことを大学のK先輩が言っていた気がするのだ。記憶違いでそう思うのかも知れないし、本当に言っていたのかも知れない。もし本当だとすると、20年も前にK先輩は、『正法眼蔵』にたどり着いていたことになる。20年だ!……僕は20年も、アレコレと探し求めて、やっと『正法眼蔵入門』を読み終えて『道元』に取りかかっているところ。
『道元』は、単なる記号論の世界ではない。記号論とも似ているが、記号論(とか言語というもの)は、あくまでも指月であるのだ。(悟りを月とすると、言語は月を指し示す指である。)
欲があるから、人間は次々と欲しくなる。手に入れると次のものが欲しくなるのだ。本だって楽器だってそうだ。だからこそ、断捨離に(出来ないからこそ)憧れる。ミニマリストとか、すごいと思う。僕なんか無駄に囲まれて生きている。だから時々、夢想する。ウクレレ1つだけの世界。本は図書館で借りる本のみ。人間の文化的な生活というのは、どういうものかは、分からないが、もうスマホ無しでは生きられない。SNSで、こうして、自分を発表出来る時代だ。
逆に言えば、スマホ以外全て捨ててしまっても、案外生きていけるのかも知れない。
DAISOの100円均一の紙と鉛筆で、僕は絵を描く。その意味は何だ?
これを自分に問わねばならない。
最後まで、読んでいただきまして、、、
ありがとうございます。
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