徳村慎
一番心に残ったところ。
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僧が馬祖にたずねる。「和尚はなんのために即心即仏と説かれるのでしょうか」
「子どもを泣きやませるためさ」
「泣きやんだときは、どうされますか」
「非心非仏だな」
「そのどっちでもないものには、どうされますか」
「不是物(ふぜもつ)とでもいってやろう」
「もし悟ったひとが来たら、どうされますか」
「とりあえず大いなる道を体得させてやるか」
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問う。「どういうふうになれば、道に達したといえるのでしょうか」
馬祖はいう。「自分はもともと自分である。善や悪にこだわらなければ、とうに道を修めている。禅をおこない、悪をしりぞけ、空をわきまえ、定(じょう)におもむくというのは無用な作為だ。外にむかって道を探そうものなら、探せば探すほど道から遠ざかってしまう。この世を心でとらえてはならん。心をはたらかせることが苦しみの原因だ。心をはたらかせなければ、あらゆる苦しみとおさらばできよう」
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これを読んだり、ブログの記事を読んだりして、僕は、壁に悩んでいる自分が小さく思えた。
即心即仏、あるいは即心是仏は分かりやすい。アニミズムや神秘主義は、だいたいのところ、即心即仏だったりすると思えるからだ。
では、非心非仏とは?
こころにあらず、ほとけにあらず。
つまりは、求めてもいけないのだ、ということか。自分が仏なのだから。
泣いている=悟りを求めている
とすると、泣きやんだ=求めてる状態が当たり前になった、ということかも。出家したてのころと、出家してからの気持ちの持ちようなのか?
求道者は、道を振り返っては、ならない。
果たして正しい道なのか?……というのは余計な考えだ。
ただひたすらに歩む。ただひたすらに自分と向き合う。そして揺らぎそうな時は、仏を考えないのも手なんじゃないか?
そんな行動を続けていると、自分と仏が一体となっているものなのだ、ということなのではないか?
でも、どっちでもないもの、には不是物なのか。
物ではない。空の理念か。
まあ、悟ることは、まだまだ出来ないと思うので、大いなる道は、何かは分からないままだけど。
自分はもともと自分なのか。なるほど。
心を働かせなければ、あらゆる苦しみとおさらば出来る。ふむふむ。なるほど。
忙しさに気がまぎれているだけとも言える。けれども、忙しい時は、何も考えずに済む。
哲学(の本)は考え過ぎるところを治してくれる薬のような存在だ。つまり哲学の本に書いてあることは多かれ少なかれ普段から感じていることなのだ。
その思いを文章化してくれる哲学は、やっぱり偉い。
最後まで読んでいただきまして、
最後まで読んでいただきまして、
ありがとうございます。
(≧з≦)
