夢日記2018.11.16.
徳村 慎
徳村 慎
1
調理の夢、バスケットボールの夢。
2
植物を研究する。
1.5
運動会。眼鏡が壊れる。必死に直す。僕のパンツが脱げて尻が見えてしまう。
**解釈
なぜバスケットボール?
今まで面白いと思ったことがないのに。
調理の夢かぁ。最近は調理なんてやってないなぁ。調理をしろ、という神様のお告げか?(笑)
植物の研究は、やりたかったなぁ。もっと言うなら昆虫の研究をやれたら良かっただろうなぁ。ファーブルみたいに。ファーブルは、憧れるなぁ。
科学者は、数学が必要だと知って諦めたし、芸術の方が好きだったからなぁ。
でも、農業とかやれば良かったかも知れない。
おお。今日はタラレバの話だ。(笑)
でもなぁ。農業って難しいんだよねぇ。在庫抱えると腐らせるから廃棄に近くなるし。かといって実らないのも儲からない。これは難しいよ。
でも、美味しんぼを読んで日本とか世界規模の環境を考えると農業だよなぁ、と思ったりする。
もう日本政府が、これからは農業だ。人糞を有機肥料にしてサイクルを作った農業だ。なんて発表して、無理やりにでも農業国に戻らないかなぁ?(笑)
文句を言うやつは海外移住。(笑)
でも本当に農薬の問題とか、ヤバいよ。美味しんぼの100巻辺りから読むと考えさせられる。
農業が主体の国になったら、スマホを見る時間もほとんど無くなるかもなぁ。
死を考えて、働くんなら、本当にやりたいことやって死にたいもんなぁ。
なんかねぇ。自分に価値を見出せる人って今少ないんだろうねぇ。僕も美味しんぼを読んで、農業が良い、とか思うんだから。
→おいおい。マルチ・アーティストへの階段を上がるんじゃなかったのか?(笑)
最近、アートの力って何なのかを考えてしまったりするんだよねぇ。ものすごい根本的な問題だよねぇ。でも、坂本龍一が原発反対運動とかしてる映像を見て、芸術家は、そこまでやんなくても良いんじゃないか?……なんて正直思っちゃったりする。
いや、アートを突き詰めれば坂本龍一みたいに活動しちゃって当たり前なのかも知れないけど、僕はそこに何かしら違和感みたいなものを覚えて。たぶん、その違和感って芸術家は芸術によって訴えれば良いんじゃない?……って思うからなんだよねぇ。
その意味では、坂本龍一のZERO LANDMINE(地雷ゼロ運動の楽曲)とかは僕はCDで持ってて。あれは芸術としても良かったと思うんだよね。クォリティが高いし。
ああ、でも坂本龍一のドキュメンタリー映画codaで、(3.11.の宮城の)津波の被害を受けたピアノを弾いてるシーンは良かったなぁ。うん。あれは、芸術だよ。
食うために働いてる、というと、当たり前なんだけど。食うために芸術やってる、っていうと、なんだか違うんじゃないか、って思われがちだよね。
ああ、なんだ、食うための芸術だったのか、と。
でも、実際には、食うための芸術が食うためじゃない芸術より落ちるか、っていうと、そうじゃないよねぇ。寝食を忘れて打ち込むのも芸術だし、寝食が芸術を喰っちゃうといけないのも分かる。でも、食うための芸術は、いけないんですかねぇ?
……と那智黒石で食ってく身の僕は考えたりする。
うーん。難しい問題だなぁ。魚は魚の本分を生きろ、とは、ネットで見た正法眼蔵の言葉だ。
芸術で食ってく覚悟で、芸術をやらねば、芸術が出来ないのであれば、芸術で食ってくのが良いのだろう。
芸術で食っては、芸術にならぬ人であれば、芸術で食ってはいけないのだろう。
ちょっと悟りっぽい言葉だなぁ。(笑)
ちょっと仏教をもじっているので。
なんでこんな話題になったのか、を読み返すと、話題が飛びすぎてるなぁ。
アートの力って何だろうねぇ?
こう、見ていてなごむ、とか。見ていて、何かを感じるとか。相手があってこそのアートか。相手が無くてもアートなのか。環境を変化させるのがアートか。変化させなくてもアートなのか。
うーん。アートって何だろう?
考えるよりも作る方が早い気がするけどね。(笑)
考えるのは哲学者や美術評論家の仕事で、僕は作らなきゃいけないのだろう。
最後まで読んでいただきまして、
ありがとうございます。
(≧з≦)