夢日記〜家庭科
徳村慎
家庭科の裁縫道具を使って女子とその父親が商売を始める。
後半は家庭科の調理実習で商売しようとする女子になる。
**解釈
調理実習で商売する女子は実際にあった話だ。昔、その女子の黒い噂話を聞いた。今も生きているだろうか?
家庭科の裁縫道具を使って女子とその父親が商売を始める。
後半は家庭科の調理実習で商売しようとする女子になる。
**解釈
調理実習で商売する女子は実際にあった話だ。昔、その女子の黒い噂話を聞いた。今も生きているだろうか?
中学校の時の担任の先生が、卒業の時に「死ぬなよ」と言った。何が死ぬなよ、なんだ?……とみんな口々に言ってた。あの頃は本当に分からなかった。
今は、鬱も経験すると、死ぬな、の意味が少しは分かる。輝いている時期を過ぎても死ぬな、ってことなんじゃないかなぁ、と思う。15歳ぐらいの輝きは、やはり尊い。初々しさがある。僕は、今、輝きを失っているのか、どうかは分からないが。死ぬなよ。それは、今の自分に言いたい言葉だったりする。
考えてみれば不思議なのだ。
15歳の頃の言葉が今響くのだから。
なぜか米津玄師のLemonが頭を離れない。あの日の悲しみさえ。うーん。あの日の悲しみってのは、恋愛じゃなく、僕にとっては統合失調症との戦いだったと思う。詐病だ、と元カノに言われて、それを信じて薬飲まなくて悪くなったり。
ああ、今、Lemonをもう一度聴いた。元カノたちが幸福になるならいいなぁ、とそんな気持ちになれる、良い曲だなぁ。今も私の光、かぁ。そんなことを想ってみたいもんですなぁ。この暗さが、とても良いんだねぇ。
僕は歌詞に自分の心が響くなんてことは、そんなに無かったんだけど。Lemonは、響くねぇ。でも、もう少し自分よりに歌詞を変えてみたら、どうなるだろう?
僕自身が詩を書くべきだ。
誰かの歌詞ではなく。
そうすべきなのだ。
うーん。僕は弱いぞ。強いから自分自身が詩を書くんじゃないぞ。たまたま僕の感情を詩(とか歌詞とか)に見つけられないから。自分で詩を書くだけなんだぞ。
自分が特別だ、と思ってるんじゃなくて。自分は外に出てしまっている、とは感じるようになってる。ものすごくアウトサイダー・アートに憧れる。外から、内を見て、内の人間の持つ純粋な芸術に、ひれ伏すような気持ちになって。それでも、僕は僕で。外の人間ならではの食い破り方を考えるだけ。でも、本当のアウトサイダーは、食い破り方なんて考えないだろうな、とは思う。だから内に居て。外にいつのまにか出ていて。それでも、内の感覚が残るから、食い破ろうとしている。
つまりは、クラシック的な教育だとか、アウトサイダー・アートの中間に居る僕は、ものすごく疎外感があったりして。その疎外感をくすぐるようなLemonは気持ち良いのだ。
死ぬなよ、かぁ。
疎外感はオリジナリティかも知れないけど。死に直結するような不気味さもあるなぁ。もしも、本物のアウトサイダーだったら、疎外感さえ感じていないだろうに。アウトサイダー・アートは、生だと思う。死ではなく生。中間に位置する人間は死が予感出来る。これが答えなのかも知れない。アウトサイダー・アートには強みがある。生への執着のような、アートへの執着だ。
今の僕に強みがあるだろうか?
どこにも属さないのは強みだろうか?
それを強みに変えなきゃ、ダメなんじゃないか?
いろんな疑問が頭を駆け巡る。
夢日記という名前だが、この話は、絵画論であり、芸術論であり、人生論であり。結局は、僕は何を求めてるんだろう?
別に偉くならなくても良いんだよ、と教えてくれる授業があっても良かったのに。というか、15歳の僕に、それを言い聞かせたところで理解出来なかっただろうけれど。25年ぐらい経ったんだなぁ。子供が出来てたら、何かを教えられただろうか?……いや、何も教えられない気がするんだよなぁ。偉くなくてもいい、って子供に教えるのは違うと思うんだよねぇ。
でも、今でも、空想で厨二病みたいなライブをしている。空想でだけど。もしもピアノが上手ければ、1曲めはクラシックみたいな曲を弾いて。2曲めではガジェット楽器で電子音楽をやって。みたいな。大人になっても厨二病だよ。キラキラし続けているよ。そう言ってやろうか。あの頃の15歳に。そりゃ、病気や仕事や失恋とかさ。経験することは増えたけど。でも、変わらねーよ。安心しろ、と。まあ、芸術も下手なままだけどな、と。言ってやろうか。
最後まで、読んでいただきまして、
ありがとうございます。
ヽ(≧▽≦)ノ