随想2018.8.29. | まことアート・夢日記

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まことアート・夢日記、こと徳村慎/とくまこのブログ日記。
夢日記、メタ認知、俳句モドキ、詩、小説、音楽日記、ドローイング、デジタルペイント、コラージュ、写真など。2012.1.6.にブログをはじめる。統合失調症はもう20年ぐらい通院している。

随想2018.8.29.
徳村慎


随想:『使う哲学』と鬱
徳村慎


『使う哲学』という図書館から借りた本でバタイユという哲学者を知った。

そしてバタイユのエロティシズムを調べてた。数年前なら、エロティシズムこそ悟りという結論で終わっていたと思う。

ネットで調べると、ニッチェというアーティストへと話は飛んだ。宗教のアートがエロティシズムなのだ、と。(その他には悲劇を人工的に作る、三島由紀夫)

そして、バタイユはエロティシズムから自由は生まれないとも書いてるらしい。

うーん。エロティシズムからなぜ自由は生まれないのか?
えーと、確か、キリスト教の反逆論としてのエロティシズムであるから、キリスト教のような巨大な力が無い時代に入ったら、エロティシズムに意味は無いのだ、というようなことが書いてあったと思う。

ニーチェは「神は死んだ」と言った。
フーコーという哲学者は「人間は波打ちぎわの砂の上に描いた顔のように、消滅するだろう」と書いているらしい。

今、エロティシズムは神への反逆では無くなった。そして人間の存在そのものも、何かの反逆では無くなったのか。

我々は地球上で交換可能な動物に過ぎないのかも知れない。つまり滅びてもいいという存在なのだ。

人間の文化は、後世に伝えるために在る。つまり文化的遺伝子が僕らの使命なのだ。しかし、子孫が滅びるとしたら、文化に意味はあるのだろうか?

僕は結婚していないし子供も居ないので、Amebaブログに自分の言葉を残してそれを文化的に子孫に伝えられればなんて思っていた。それが意味を成さないのなら、死を意識して生きるとは、どういうことになるのだろうか?

死を意識して生きる、というと、どうしても個人の趣味を頑張るという方向に議論は進みそうだ。しかし、人類全体が消滅するなら、どうなるのだろう?

ピラミッドなどの石像建造物ぐらいしか、残っていない未来。アートはやはり、石のもの(彫刻や装飾品)が良いのだろうか?

いやいや、石のものが残ったとしても、アートを理解できる進化した動物が現れない限り無意味な気もする。

そこで「人類はなぜ存在するのか?」なんてネットで調べても分からないんだよなぁ。宗教は救いを与えて、哲学は絶望を与えるように思う。

もっと言えば、哲学はドラッグみたいなもので身を滅ぼすけれど、理論を構築したり壊したりする快感がある。

鬱病と哲学は親和性が高い。
答えの出ないことを考えて脳を苦しめる。でも、苦しいことが楽しいのだから、哲学はマゾ的快楽かも知れない。

でも、考えていて鬱になるんだったら、快楽よりも苦痛が増大してしまっているのだろう。

禅とは行動のことだ。続ける行動こそが悟りである。続けられたらそれはアートと呼んでいいのだとも思う。

鬱病はアートなのか?(笑)

アートが地球の歴史から見て一過性のものに過ぎないのなら、なぜ僕は(もしくは人類は)アートを作り続けるのか。



随想:『まんがでわかるニーチェ』と消えた鬱
徳村慎

鬱が治った。というか、鬱の薬を飲まなくて良くなった。

農作業など外の仕事をやって、太陽の下で汗をかき、治ってしまったらしい。

『まんがでわかるニーチェ』この本も当たりだった。『使う哲学』以上に当たり。読み終わった時に、目の前のモヤが晴れるような感覚があったのだ。

どうしても、僕は、鬱について考えていた。というか生きるって何?……って考えてた。

他人から与えられた価値は弱い。自分で作った価値は強い。

その通り。これを読んだ時になるほどな!……と思った。自分で生み出した価値じゃないとダメなのだ。

他人から押し付けられた仕事も、他人が宣伝した物も、自分が見出した価値ではない。

Kaossilator、iPhoneとアプリGadget、アプリTNRi、3DSとDS-10PLUS、monotronDELAY、ポケットミク。
ここ数年買った楽器はどうもYouTubeの影響が強いようだ。その意味では自分が見出した価値ではない。

仕事は、やりたいことが出て来て那智黒石に11月に戻る予定だ。結局、やりたかったのは趣味としての農業だとも言える。そして趣味としての那智黒石絵画。これに取り組みたいのだ。

では、自分で見出した価値とはなんだ?
ジェットダイスケのガジェットオーケストラと、坂本龍一のアシンクをヒントに生み出したガジェット数台を使ってのアドリブソロ。いや、これも、見出した価値とは言えないかも知れない。

俳句モドキ。これは5.7.5.だろうが、自由律俳句だろうが、やってみる、というものだが、どうにも俳句は俳句で新たな価値、自分で見出した価値とは言えないんじゃないか?……とも思う。

じゃあ、那智黒石絵画以外アウトか。那智黒石絵画は、まだ確立出来ていない。それでも、徳村慎(Makoto.Tokumura)というサインを入れて、自分のものにしようと努力している。

自分のオリジナル(独自のもの)というのか。なかなか完成しない気もするが、そろそろ(10月で)40歳になるのだから、何かを確立したいと考えている。

見つけるのは容易ではないが、見つければ強みとなる。人生を勝ち取った者になれる。結局、富(お金)でも名誉でもなく(もちろん女でもなく。(笑))、価値は強みを見つけることなのだろう。

これまでのものは、強みではなく、強がりだった。これからは、強みを見つけたい。本当の自分の価値を手に入れたい。

……と、こういうことを書くのは何度目かになる気がする。果たして見つかるのか?

**補足2018.8.30.
俳句モドキなどは、そのままの名前で良いのだが、あと一歩の工夫が欲しいところ。名前が悪いのではなく、あくまでも内容の向上。

最後まで
読んでいただきまして、
ありがとうございます。
ヽ(≧▽≦)ノ