読書日記2018.7.8.
徳村慎
『嫌われる勇気』を読み返し終わった。
今、漫画版で話題の『君たちはどう生きるか』の原作を買って読み始めた。また平行して『幸せになる勇気』も読み返している。
僕が仕事で直面している問題としての、本当に家業しか生きる道は無いのかどうか?……という疑問が湧いて、でも、その疑問をいまさら変えられないと思い続けていた。
『嫌われる勇気』では、多少不満があっても現状に満足していた方が楽だから、新たな自分を選ばないのだという。
確かにそうだ。
でも、僕は家業が嫌いなのか仕事が嫌いなのか、はたまた、なんなのか?……という疑問があって。
『嫌われる勇気』のような勇気があって変わったのか?……というと、なんらかの満足を得たいから、仕事を変わるのかも知れず。そして、外の仕事が出来なければ家業に戻るかも知れないという、なんとも勇気が足りないような感じでもある。
『嫌われる勇気』は今まで哲学的に悩んできて、やっと出会えた本って感じがする。生き方で悩んでる自分の姿が見抜かれてる感じなのだ。
小説や絵画や音楽を作るのが好きなのに、商売にしたいと思わなかったのは何故なのか。それは小説や絵画がダメだ、と出版社や画廊や展覧会やコンクールなどなどでダメ出しされることで自信を失うことが怖いのだ。
けれど、今日は『日曜美術館』というTV番組で、ルソーという日曜画家のことをやっていた。42歳だったと思う。若い頃から画家になりたくて絵画を描き始めた頃がその頃。本当に勇気をくれる画家の生き方だ。
僕も10月が来れば、なんと40歳だ。僕は美術の大学を中退して、夢半ばで絵画を諦め、家業の那智黒石工芸という美術をやることになった。屈折している。美術を諦めつつも、美術から離れられない。
カミングアウトしてしまうと、僕は精神科にかかっている。統合失調症という病気だ。若い頃は幻聴が聴こえたものだ。
しかし、『嫌われる勇気』に言わせれば、過去のトラウマなんてものは存在しないらしい。精神病だから仕事が出来ないのではなく、仕事が出来ない言い訳として精神病を持ち出している、ということになる。これをアドラー心理学では目的論と呼ぶ。
そして、僕は最近、鬱病も併発してしまい、鬱の薬も飲んでいる。僕のネガティブな考え方が最近、笑えるほどに酷くて。午前中にやる気が起きなくなってしまったのだ。好きなはずの那智黒石工芸(美術)ですら出来なくなったのだから、他の仕事など出来る訳がない、とも思う。けれども、一度外に出なくちゃ、美術にやる気が出なくなったのか、どんな仕事にもやる気が出ないのかも分からない。
そして外の仕事をやろう、と決めた時に、芦田愛菜ちゃんの夢を3回も見た。たぶん夢の中の芦田愛菜ちゃんは僕自身で僕の彼女(遠距離恋愛の恋人)でもあるのだと思う。輝ける存在になりたい。そういう夢だったのだろう。
夢といえば、大学を中退する時には精神状態がボロボロで、悪魔を孕んだ女の悪夢を見て大阪から熊野の実家に逃げ帰ったのだ。
ユング心理学で言えば、アニマの形態が変わったということなのか。
精神病だからとか、仕事じゃないから、芸術が出来ない、なんてことは目的論の言い訳だ。出来ない時の言い訳を用意してショックを軽くしてるだけなのだ。
出来る限り、全てに挑戦して、それでダメならしょうがないじゃないか。親兄弟に泣きを入れて家業に戻ることになっても仕方ない。けれど、やる前からダメと決めつけるのは無しだな。
正直、不安だ。でも、当たって砕けろ。
僕の尊敬する彼女が言っていた。「5年後も変わらないよ」と。達観だなぁ。5年後も仕事が出来ず、趣味も仕事には変わらず、病気と向き合いつつ、暮らしているんだろうかねぇ?
「5年後も変わらないよ」というのは、本当に勇気をくれる言葉だった。どーせ変わらないんだから妙な期待はしなくてもいいけど、やるだけやってみれば?……的な意味にも取れる。40歳目前にして中二病の僕。「5年後も変わらないよ」って本当に良い言葉だと思う。未来を不安に思ったり過去を不満に思ったりするのは、やめよう。まあ、そう考えてやめられるぐらいなら、鬱の薬飲んでねーよ、とも思うのだが。まあ、まあ、今現在をやりこなそう。
楽しみな世界が広がるのかも知れない。
最後まで
読んでいただきまして、
ありがとうございます。
ヽ(≧▽≦)ノ
