ドローイング2018.5.1.
徳村慎
どうも、絵や写真のアップが無いと、作品作れてない=生きていない、というような気分になる。
たったこれだけのこと。たったこれだけの人生におけるルーチンが出来てないだけで気持ち悪いというか。
アート表現セラピーのような感じなのかも知れない。
まあ、でも、僕も、色々とあって。精神的に参ってるのかも知れないけど。
こういう時は余計にドローイングが恋しくなるというか。
イメージは目玉焼きなのだが。それと古代の蝶。そんなのがパッと浮かんだのだ。
『手にとるように民俗学がわかる本』を3分の1ほど読んだ。プロローグとPART1を読んだだけだから、まだそれほど読んでいないようでもあるが、それだけで3分の1ということは、そこに紙面を割いている重要性があるということなのだ。……と思う。
この読書は、神を求める旅なのだ。しかし、神は居るのだろうか?……4年前は神を感じていた。たったの4年前なのだ。いつの間にか神が消えてしまった。居なくなったのだ。感じられなくなったのだ。ドローイングの瞬間だけ(あるいは彫刻の瞬間だけ)に神が宿る。神は細部に宿る、という言葉があるが。神は今という瞬間に宿るものではないか。
だから僕がやる音楽は即興なのかも知れない。
雨は神と繋がってる気になる時もあった。雨の録音なんかは、偶然と必然が混ざり合って良い。これなんかは、もっと集中すれば神と繋がれる変性意識になれるのではないか。
あと、気分が良いのは、ネットで楽器のことを調べてる時だ。これをすると心のもやが晴れてくる。楽器コレクターではなく楽器のプレイヤーでありたいとは思うが、どちらも同じようなものかも知れない。ネットサーフィンは他にも心理学哲学系とかスピリチュアル系とかもよく読む。これも気分が良くなることが多い。
『霊感体質かなみのけっこう不思議な日常』1~5巻を読んだ。まあ、霊感体質の女性のマンガなのだが。スピリチュアル系と言えなくもないというか。でも、独特の感性があって。神仏、妖怪、幽霊、精霊みたいなものまで集中すると見えるという。この雑多な宗教の世界観が面白い。いいなぁ、こんなふうに世界が見えたら面白いだろうなぁ、と思う。思う一方で、見えすぎるのは危険だなぁ、とも思う。
今、周りの人にスピリチュアル系の話が出来る人間が居ないので、誰かと話したいという思いが募っているが、そういう世界を共有するのは大丈夫なのだろうか?……とも思う。
そういや初音ミクの歌に「幸福なのは義務ですよ」というのがある。最後に「幸福じゃないならシネ」なんて言うけっこう怖い歌なのだ。不幸ぶることが幸福な人も居るだろうから、なんとも言えないけど。Mのフリをした人ってことなのかなぁ?……ゔーん。
まあ、幸福は義務のようになってる、っていうのは確かにそうだなぁ。
幸福であることで当たり前みたいな。僕は何が幸福だっただろう?
ここ最近では、美味しいものを食べたとか飲んだとか。俳句モドキを作ってる時とか。このドローイングを描いた時。ちょっと前だと写真を撮った時とか。やはり何かをしている瞬間なんだよねぇ。
つまり暇が不幸のはじまりなのだと思う。忙し過ぎるのも幸福ではないけれど。忙しさの中道の瞬間。
そんなことを考えるのは幸福になりたいと願うからだ。でも、よく考えてみりゃ、今だっていっぱい幸福が足元に落ちているのだ。
最後まで
読んでいただきまして、
ありがとうございます。
ヽ(≧▽≦)ノ
