写真2018.4.13.
徳村慎
メサイア・コンプレックス的な美術のやり方。救われたいから救う。美術によって救われたいから、美術によって救いたいのではないか。
そう気づいた時にハッとした。
あとは、教育って無くても良いんじゃないか?……とかも考えた。
基本的に漢字が読めるとかの教育が必要かも知れないが、それも、どうでも良いかも知れない。だって、この世は勘違いで出来てるし。
図書館とネットさえあれば学びたいことはドンドン学べる。そんな時代だと思う。
教育は美術も含めて、すべての教科が必要ない気がする。国語、数学、理科、社会、英語。翻訳する、ってボタンを押せば翻訳してくれる時代だ。じゃあ、何が必要なのか?
美術史、音楽史、文芸史、といったものは必要だ。だけど、たぶん図書館で学べるんだなぁ。
(僕の場合)絵というのは内向的で、写真は外向的だ。
ダダのアッサンブラージュに興味がある。ゴミを収集して、それがオブジェとなっていく。面白い。
ドラえもんを下手に描いた落書きを見た。あれがアートのように思えるのは僕がどうかしてしまったのか。
×バツ印を探すということを僕の友人がやっていた。小学生の頃のことだ。確かにバツ印というのは、原始的な落書きだ。そこから全てがはじまる気がする。
絵画から写真へ。外向とはなんであるか、を探りたくなった。夢日記から、アート表現セラピーの絵画、そして写真(外向)へ。探りたい。それでいい。
そしてモノクロこそがリアルである。カラーは嘘だと言いたいわけじゃない。けれども、リアルを追求するなら、モノクロだ。
明日も天気なのだろうか?
今からエレキギターでも弾こうかな?
最後まで
読んでいただきまして、
ありがとうございます。
ヽ(≧▽≦)ノ

