ドローイング2018.4.5. | まことアート・夢日記

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まことアート・夢日記、こと徳村慎/とくまこのブログ日記。
夢日記、メタ認知、俳句モドキ、詩、小説、音楽日記、ドローイング、デジタルペイント、コラージュ、写真など。2012.1.6.にブログをはじめる。統合失調症はもう20年ぐらい通院している。




ドローイング2018.4.5.
徳村慎


車庫の片付けをやっている。
ゴミがアートのように見えるのだ。不思議な感覚。

芸術大学を中退した頃は自分の描くアートがゴミに見えたものだが。真逆なんだよね。この感覚に大学の時になりたかったなぁ。まあ、あの頃は精神的にも参ってたし、肉体的にも病気になったし。仕方ないのかも知れないが。それにしても、車庫から昔(中学~高校)の作品が出て来たが、全部下手くそだなぁ、と思った。(笑)
良く芸術大学になんか行ったもんだよなぁ、と思うほどに下手くそ。
60歳ぐらいになって、今のアメブロを見返したら、やっぱり下手だと思うのかなぁ?(笑)
「なんだ、この文章、全然分かってねぇじゃん」と思うのかな?(笑)

今回の絵はスマホのアプリでのドローイングなので、デジタル・アートだ、と言うことも出来るが。(笑)
まあ、ドローイングでいいかと。(笑)
一応、花を描いているんだけど。花に見えなくても良いかな、と。(笑)
なんだか、素粒子がビュンビュン飛び交うようにも見えるなぁ。

最初の話題に戻ると、
ゴミがアートに見えるのは、良い傾向だと思う。それを本当にアートにフィードバックすれば良いんだから。

小説の京極堂シリーズにも漁師の小屋の中にコレクションしてあるオブジェを見た男が言うのだ。これらは、バラバラになると意味が無いのです、と。

確かに、ゴミというのは大量にあった方が意味を成しやすい。ラウシェンバーグのアッサンブラージュのように。あるいは、ガムテープモンスターという題の現代アートとか。
人間もゴミに埋もれて暮らしているようなものなのだ。普段使っていない物はゴミ同然なのだ。魂が抜けているのだ。車だって走らない時はゴミのようなものだ。愛着があって、しっかり手入れされたもの以外はゴミかも知れない。
彼女に生ゴミとして僕が捨てられる日が来ると悲しい。(笑)

車庫を片付け終わってみると、何も無い空間の美しさに惹かれる。こんなに美しかったのか、と。

そろそろFacebookを再始動しようかな、と思っている。兄とのジュエリーブランドT-BRO'Sは終わりにして、これからはMakoto.Tokumuraを僕のブランドにします。名前そのまんまやんけ!という感じやけど、これしか思い浮かばん。
ドローイングではMakoto.Tokumuraって使ってきたけど、那智黒石にも責任を持って名前を入れようと思う。まあ、入れれない作品もあるから、その辺りは、今まで通り徳村屋の商品なんだけどね。(笑)
Amebaブログでは、僕の趣味の作品、Facebookでは仕事の作品を載せようと思っています。

今タロットカードを引いたら、トランプスの8、アジャッジメントを引いた。バランス、だそうです。そのまんまやんけ!!


最後まで
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ありがとうございます。
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