夢日記〜俳句とアマゾン | まことアート・夢日記

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まことアート・夢日記、こと徳村慎/とくまこのブログ日記。
夢日記、メタ認知、俳句モドキ、詩、小説、音楽日記、ドローイング、デジタルペイント、コラージュ、写真など。2012.1.6.にブログをはじめる。統合失調症はもう20年ぐらい通院している。

夢日記~俳句とアマゾン
徳村慎


『俳句を遊べ』の著者が俳句を作るのに、アマゾンへ行ったらどうなる?……と提案する。常夏のアマゾンだなぁ、と思う。


**解釈

俳句を作るのに季語を用いる。ところが沖縄に住むと季語が違ってしまう、ということを俳句の本で読んだことがある。だから独自の俳句になるのだ、と。

蝶は春の季語だから夏に蝶を見れば「夏の蝶」と断らなければいけない、というのも以前本で読んだ気がする。でも、無季俳句のようになればアマゾン(川)で詠んだりできるなぁ、と思った。

それに季語は知ってても良いのだが、知らなくてもある程度詠んだ方が良いのではないか、とも思う。後で季語を調べて手直し(推敲)するスタイル。

『俳句を遊べ』を昨日読み終わったので著者というか編者佐藤文香が出てきたのだろう。
今TVの『プレバト才能ランキング』で大人気の俳句の先生夏井いつきが佐藤文香の先生に当たるらしい。佐藤文香は俳句甲子園出身なので。

夢日記を書いたり、ちょっとの時間、三線をマイクでとらえてピッチシフターでオクターブ下を入れてディストーションもかけてエレキベースのような音にして楽しんで録音したり、俳句モドキを詠んだり。
重要なことは重要なことじゃない。
一瞬重要だと思ったことが実はそんなに重要なことじゃないと知ったりする。三線でエレキフレットレスベースのように弾く。三線であることは重要なのだが。エレキベースの音色になってしまっても良いという。

ああ。俳句も同じなのだ。ディストーションをかけても良いのだよ。モドキなのだ。もっと俳句に対して自由に。
自由というとフリージャズみたいになっていくのかも知れないけど。4拍子や3拍子ではなく、ポリリズムになったり。
5.7.5.も変化するから面白い。変拍子だね。分け入っても分け入っても青い山、だと6.6.5.の自由律だもんね。
俳句は既に元々がフリージャズみたいなもんだったのかなぁ。
なんで5.7.5.になったんだろうなぁ?
なんで5.7.5.のリズムがすごく気持ち良いんだろう?
休符を入れるとややこしくなったりするよね。字余りとか字足らずの問題もあるから、すごい柔軟なリズムだし。
まあ、この辺りのことは、今の僕だけで完結出来る話ではなくて。もっと時間をかけて図書館の本とかも読みまくって分かるような問題だろうなぁ。
図書館の本で文学研究みたいなジャンルになるのだろうか?……それとも言語学の問題になるのかなぁ?
俳句にディストーションをかける、みたいな表現は、していないだろうけど、何らかの問題提議と解決法は、ある気がする。

俳句モドキの前にやってたのが、リアルタイム俳句モドキ、というものだ。Twitterでやっていた。見たもの感じたことを5分以内になら詠んでもOK。5分ぐらい過ぎてたら詠んじゃダメ、というルールを作って俳句をやるものだ。今も感覚としては、それに近いけど、1日のうちに感じたことならOKになった。ルールがゆるくなったのだ。どうしても1日の終わりに出来事を思い出すこともあるので、詠むことに対してリアルタイムじゃなくなったのだ。

休みの日は歳時記が読めるので、句作の幅が広がる。季語が使えるのでそれだけでレベルが違ってくる。歳時記を持ち歩くべきかなぁ。

俳句は写生することが良いと思うんだけど、そこからはみ出る発想が欲しいこともある。自分の考えを文学的に語りたいとも思う。けれども、俳句モドキの楽しさは、やはり、机上でひねくりあげた俳句ではない、リアルな出来事に絞った方にあると思う。不器用な俳句モドキを作り続けることが僕の支えになりそうな気がする。

これが週1ペースとかになると、どうなるんだろう?……とも考える。週1ぐらいの方が出来は良いんじゃないか?……とか推敲出来る時間が欲しいなぁ、とか。週末にならないと句作が出来ないというのも、寂しい。というか、週末なんてすぐ来るから、句作自体を忘れてしまうと思う。やはり下手でも毎日アップするのがいいと思う。

アマゾンへ行くというのは、夢の話だなぁ。アマゾンで魚を捕って暮らしたいなどと苦労を考えずに思ったこともあるけど。良く考えたら、文明があるから、文化もあるのだろう。例えばスーパーがあって生鮮食品を簡単に買えるから、時間(暇)があって。時間があるから、文化的な活動が出来るのだ。洗濯機の無い時代は、洗濯物だけでも、時間がかかっただろうし。文明が文化を生んだのなら、僕の夢日記も、フロイトの言うような抑圧なんてほとんど無いんじゃないか、と思う。今は、夢日記は不定期で書いてる。たまたま最近、夢を見て、しかも起きた時に覚えているから書いてるだけで。
でもアマゾンとは、憧れの場所ではあるよなぁ。
音楽的な旅をするなら、アフリカの太鼓と歌、インドのシタール、アメリカ(ニューヨーク)のブルースとジャズとゴスペル、ブラジルのサンバとかは聴いてみたいけど。あとは、テクノとか。テクノはどこだ?……デトロイトで今もやってるのだろうか?……それとも、もうデトロイトテクノってもの自体が続いていないのか。
美術の旅をするなら、イタリア、フランス(パリ)、アメリカ(ニューヨーク)、インドや中国の仏像とか。
辺鄙なところに行くのなら、どこだろう?……アマゾン川周辺の国とか、アフリカの動物とか見てみたい気もするけど、日本の熊野も、大概(たいがい)、辺鄙なとこだぞ。
今は旅をするつもりでYouTubeを聴いたりネットで検索したりすれば、世界中の音楽や美術が集まってしまう。文芸はS・キングとかが読めれば、あとは日本人のを読めばいいか。文芸ってのは、ワールドワイドにはならないんだなぁ。まあ、カフカの変身とかは有名だからワールドワイドだけどさぁ。
そうすると俳句っていう日本固有の文芸をアマゾンに持ち出すってこと自体に何らかの無理があるのか、でも無理なことに未来の芸術はあるような気がするのだ。

アマゾンは此処でない何処か、という場所なのかも知れない。現実逃避かも知れない。じゃあ、何故僕はアマゾンのような場所へ俳人を行かせようとする夢を見るのか?
俳人は恐らく自分なのだろう。
アマゾンは(……今思いついた。)ひょっとして俳句モドキの新たな境地を示すのではないか?

あるいは、空想旅行をするのも良いのではないか?
図書館で旅行の本を借りて読むのだ。それも楽しみ方の1つだなぁ。


最後まで
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