ドローイング2018.3.28.-2 | まことアート・夢日記

まことアート・夢日記

まことアート・夢日記、こと徳村慎/とくまこのブログ日記。
夢日記、メタ認知、俳句モドキ、詩、小説、音楽日記、ドローイング、デジタルペイント、コラージュ、写真など。2012.1.6.にブログをはじめる。統合失調症はもう20年ぐらい通院している。





ドローイング2018.3.28.-2
徳村慎


寝る前に書いたドローイング。
そして僕は21:00に寝て2:00に起きてこの文章を書いている。

葉っぱの椅子に座る人物。小人なのか、葉っぱが大きいのかは分からない。この葉っぱは地球上でこの種類しか生えていない地域なのだろうか。1種類だけが生える。葉っぱは、椅子のようであり、唇のようでもあり女性自身のようでもある。

油画なんかでありがちな絵だとは思うが、パッと思い浮かんだんだから仕方ない。思考と描写が直結している。

僕は左利きだから、右脳に直結しているんだと思う。しかし、左利きの人は左右の脳内が逆になっているという話を聞いたことがある。
普通、右利きの人は、左脳が言語脳で右脳が直感・想像の脳だという。それが左利きでは逆になるというのだ。
本当のところ、どうなのかは分からない。脳内は、もっと複雑なんじゃないか?……とも思う。

僕は柔らかな椅子に包まれたいと願っている。とすれば椅子は子宮なのか。大人の男が包まれたい子宮。外界と隔たるためにある子宮。
なぜ外界と隔たることが好ましいのか。内向的だからか。
しかし、自分の内側に存在する階段を下りていくのではなく、椅子は自分の外へと広がっている。それでも、自分と子宮との境が無く、子宮まで自分であると主張しているようだ。

色彩で言えば、画面は青白い色をイメージしている。ひっかかりの無い画面。僕は外界の空気が存在することを知っている。
歴史的に空気が存在する概念が浮かんだのは、いつなんだろう?
地水火風で風があると古代ギリシャでも考えられていたから、古いのだろうか?
それともフロギストン説から酸素と二酸化炭素の発見に転換した頃だろうか?

今、僕の部屋の雨戸を風が揺らしている。これもシンクロニシティだろうか?

左利きの話に戻ると、僕は絵を描く時は左利きだが、文字を書く時は右利きだ。右に矯正したから。絵は右には矯正出来なかった。どうしても微妙なコントロールが出来なかったから。

大人は大変だ。椅子の上で足を組んで。考えたり、自分の発言を守ったりしているのだ。小人なのだが、子供ではない。いや、むしろ葉っぱが大きいのだとも受け取れる。相手から自分の心を守りたいから足を組むのだ。それでいて、上半身は、リラックスしてるかのように振る舞う。大人ならではの表情かも知れない。疲れて眠りにつくまで、大人は心の鎧(ヨロイ)を外さない。

好きな人に好きだと伝えられるようになったのは、いつからだろう?
ストレートな僕が生まれたのはいつからだろう?
三尊像のように並んだ葉っぱ。この構図は仏教的なのだと思う。それでいて宗教的な要素が無いのだとも思う。
ストレートだ。僕は美術に対して美術で真正面から答えている気がする。

岡本太郎は手の形の椅子を作った。僕は葉っぱの形の椅子を絵に描く。
この前の日曜美術館は、岡本太郎の太陽の塔の特集だった。生命の樹と地下に集められた世界中の仮面。そしてかつては、エスカレーターが未来の空間へと繋いでいたという。
僕の絵には、そんな大それた構想は無い。ひたすら不思議な空間を描いているだけで、未来とか過去とか現在だとかが混じり合う空間ではないのだ。
ひたすら夢に出て来たような空間を描いているだけだ。

僕と彼女という存在も夢のようなひとつの空間で出会っている。無数の出会いがあって、今は、こうして繋がっている。僕が淡い未来を見られるのなら、それでいいじゃないか、と思う。今、繋がっていることが大事なのだ。
淡い。この世界の淡さに、ため息が出てしまう。かつて飲んだことのあるハルシオンのような淡さが頭の中で溶ける。あの真っ白な錠剤のように画面はあくまでも白く。ああ。大人味のラムネなのだと理解するのだ。

そしていつの間にか3:00を回っていたりする。


最後まで
読んでいただきまして、
ありがとうございます。
ヽ(≧▽≦)ノ