ドローイング2018.3.21.
徳村慎
自分なりにゼンタングルっぽいものを描いた。なんだか、カードのようだな、と思う。占いのカード。
別に何かが描きたくて描いたわけじゃない。図書館で見たゼンタングルの本の模様を思い出して描いただけだ。
なんだか、見ていると世界に入っていく気がする。彼女の病気が少しでも良くなればいいな、とか、そんなことが浮かんでくる。
今日は、お彼岸だから、仏壇にまいった。仏壇にまいるのは、久しぶりだなぁ。ご先祖さま、爺ちゃんに、お願い事をした。本当は仏壇にまいるのは何かの意味があるのだろうけど、願い事をしてしまった。経済的な安定と家庭の人間が仲良くというものだ。健康のことも祈っときゃ良かったなぁ。
僕らが生きていて、彼岸へ願いをかける。最近の空想はね。死んで守護霊になるっていうものが多いねぇ。守護霊になれば、なんでも現世の人の願いを叶えてあげられるなぁ、なんて思う。此岸での勝手な想像に過ぎないのだけど。もしも、死んで守護霊になれるのなら、家族に富をもたらしたいなぁ、なんて思う。
でも、これは、あくまでも、僕の空想の世界だ。本当のところ、守護霊が居るのかどうかなんて誰にも証明できない。
ただ。不思議な経験はしている。誰かの存在する気配を感じて振り向いても誰も居ないってことがあった。それは爺ちゃんだったのかも知れないと思っている。あとは母方のお爺ちゃんが亡くなった時も、誰かが家全体を手で叩いているような感じの風が吹いたり。
この世には不思議なことがあるのだと信じている。半信半疑になったりもする。この信仰のような感情は、世の中の不公平に対する思いが、来世というか、死後の世界で平等になるように、という願いになって思い描いたものかも知れない。
ニーチェのアンチクリストでは、宗教は、この世からの逃げのように描かれている。確かにそうかも知れない。けれども、信仰の自由で、逃げても良いんだとも思ったりもする。揺れている。逃げが悪いのか、良いものなのか、考えが揺れている。
愛する人に自殺されたら悲しいから引き止める。これは当たり前だ。でも、悲しいというのは、引き止める側の主張であって、本当に良いことなのか?……と考えると答えの出ない迷路に入り込む。僕が守護霊になりたいと願うのは悪いことなのだろうか?
それ自体は悪くないかも知れないが、死を軽く考えるのが悪い気もする。死が身近に切実に迫っている人のことを思うと、自分の考えは軽いかも知れない。
彼岸に想いを馳せるのは、お彼岸だからだ。母の作ったお彼岸団子(おはぎ)が美味かった。それで、いいのだとも思った。
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ヽ(≧▽≦)ノ
