絵画『修羅と祭り』
徳村慎
夢の中で、殺人鬼が出て来たので、描いてみた。描いてみると、動物の顔になったし、複数になった。
去年のM1(2016)を観ながら描いた。今年も終わりやなぁ。去年のM1、けっこう覚えてた。観てたらしい。
殺人鬼=化物たちが人を殺し回る。修羅なのか地獄なのか良くは分からないが、現実だって何かのために戦うことはあるのだろう。この世は苦に満ちている。
でも、これを書きながら(去年の)M1を観て笑ってる僕。苦は笑いでなんとか出来る。
修羅というタイトルだが、地獄かも知れず、ひょっとしたら離れ離れの人と挨拶が出来ない愛別離苦かも知れない。
幸せは続かないものなのか。
でも、苦痛を和らげるために、プレゼントされたマフラーや手袋をして喜んでいる。ただ、プレゼントしてくれた人に少しの間会えないんだよねー。愛別離苦だ。
夢日記でも、どうも愛別離苦での夢が増えたような、、、……そうでもないか?(笑)……まあ、夢って分かんない部分が多くて面白いんだよね。あくまでも解釈は、現在の自分をあらわしてるように感じるけど、全ては分かんないからいいんだよね。
夢日記も、何日もに渡る流れを読めば、全く違った解釈が出来そうな気がする。
絵の話に戻ろう。
逃げ惑う人々が居るが、最初はマラソンにしようかと思ったのだが、殺人鬼との関連で逃げ惑うように見えるのだ。
いや、逆に、マラソンなのだ、とも考えられる。何かから逃げる人々なのかも知れない。動物の頭をした獣人=殺人鬼とも考えられる。シャーマンがトリップして見る神様ってこんな感じじゃないだろうか?
では、神様から逃げ出す人々ってなんだろう?
性悪説か?
大災害とか北朝鮮のミサイルとかから逃げるのには罪は無いのになぁ、と思う。性悪説は、どうも僕の考えとは合わない気がする。
それでも、神様から見れば人類なんて罪のある生き物なのかも知れない。
この絵は、ハロウィンにも見えるし、ダンスパーティのようにも見えてしまう。怖さは楽しさに変わるのか。ナマハゲも一種のイベントだ。神の怒りも祭りなのだろう。
徳村慎の瞑想は迷走なのか?
神を感じたい。感じられた頃が異常だったとか、感じなくて普通とか、まあ、色々考えるけど、神との接近が夢日記や絵画なのかも知れない。……違うかも知れないけど。
でも、神との接近を考えると、明晰夢での幽体離脱が面白い。まだ、自分の姿を見るぐらいしか出来ないけど、これを鍛えると夢はもっと何でも出来る世界になる気がする。
……それでも、結果的に夢で詰んじゃったりするんだろうなぁ。そうなると神との距離は逆に離れちゃう気もする。(笑)
