乱読2017.9.3. | まことアート・夢日記

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夢日記、メタ認知、俳句モドキ、詩、小説、音楽日記、ドローイング、デジタルペイント、コラージュ、写真など。2012.1.6.にブログをはじめる。統合失調症はもう20年ぐらい通院している。

乱読2017.9.3.
徳村慎

乱読したのは次の本だ。
『シッダールタ』
『方丈記』
『森の生活ウォールデン』



『シッダールタ』ヘッセ
 
すでにして彼は、自己の本性の内部に、破壊しがたく、宇宙と一体なるアートマン(真我)を知ることができた。

注解
アートマン
真我。本来は「気息」の意。生霊、魂、宇宙我などを意味する。

世界を創造したのはほんとにプラジャパティ(生主)であったか。世界を創造したのは、真我、「彼」唯一、全一なるものではなかったか。

みごとな詩句があった。「なんじの魂は全世界なり」とそこには書かれていた。人間は眠りにおいて、深い眠りにおいて、自己の内奥に立ち帰り、真我の中に住む、と書かれていた。 

真我を家とする状態を、眠りから白日へ、生活へ、歩行へ、言行へと魔力で移した達人は、どこにいたか。

彼が知っており、その教えを受けた賢者や最高の賢者の中にも、そのすべての中にも、天界に完全に達した人、永遠の渇を完全にいやした人は、ひとりもいなかった。

父はシッダールタの肩に手をのせた。
「お前は」と彼は言った。「森に行き、沙門となるだろう。森の中で至上の幸福を見いだしたら、帰って来て、それを教えてくれ。幻滅を見いだしたら、戻って来て、ふたたび相たずさえて神々に仕えることにせよ。では行って、母に口づけし、どこに行くかを母に言え。わしは、川に行って、最初の水浴を行う時間だ」

「来たね」とシッダールタは言い、微笑した。
「来たよ」とゴーヴィンダは言った。

その日の夕方、ふたりは苦行者たちに、ひからびた沙門たちに追いつき、同行と服従を申し出、受け入れられた。
シッダールタは着ていた衣服を路上の貧しいバラモンに与えた。彼は今はただ腰巻きと土色の縫ってない上張りをまとっているだけだった。日に一度だけ食をとったが、料理したものは決して食べなかった。彼は十五日間断食した。二十八日間断食した。彼のももとほおから肉が消えた。くぼんで大きくなった目から熱い夢がゆらゆらと燃え、ひからびていく指には長く爪が伸び、あごには、かさかさしたこわいひげがはえた。婦女に会うと、彼のまなざしは氷のように冷たくなった。美しく着かざった人と並んで町を歩くとき、彼の口はけいべつにゆがんだ。

いっさいは虚偽であり、悪臭を発した。

世界は苦い味がした。

一羽の青サギが竹林の上を飛んだ------すると、シッダールタはその青サギを自分の魂の中に取り入れ、森や山々を越えて飛び、青サギとなり、魚を食らい、青サギの飢えを苦しみ、青サギの鳴き声を鳴き、青サギの死を死んだ。

感覚を殺し、記憶を殺し、自我から無数の他の形に入りこみ、けだものとなり、腐肉となり、石となり、木となり、水となった。

シッダールタはいくどとなく自我からのがれ、無の中に、けだものの中に、石の中にとどまったけれど、自我に帰ることは避けがたく、日光や月光の中で、日かげや雨の中で、ふたたび自分を見いだすときに会うのは、のがれがたかった。そして自我となり、シッダールタとなり、課せられた輪廻の苦悩をふたたび感じた。

瞑想とは何か。肉体からの離脱とは何か。断食とは何か。呼吸の停止とは何か。それは自我からの逃避、我であることの苦悩からのしばしの離脱、苦痛と人生の無意味に対するしばしの麻酔にすぎない。そんな逃避や、しばしの麻酔なら、牛追いだって宿屋で数杯の酒か、発酵したヤシの乳液を飲むとき、見いだすのだ。

われわれは多くのことを学んだ、シッダールタよ。だが、まだ学ぶべき多くのことが残っている。輪を描いてまわっているのではない。われわれは上に向って進んでいる。輪はらせん形をなしている。われわれはもう幾段か登った。

六十歳にもなって、涅槃に達していない。彼は七十歳に、八十歳になるだろう。君とぼく、われわれも同じくらい老人になり、修行をし、断食をし、八十歳になるだろう。だが、涅槃には達しないだろう、彼もわれわれも。

われわれが『学ぶ』と称しているものは実際存在しない、そうぼくは信じるのだ、君よ、ただ一つの知があるだけだ。それは至る所にある。それは真我だ。

この知にとっては、知ろうと欲すること、学ぶことより悪い敵はない、と信じ始めた。

あるとき、ふたりの青年が三年ほど沙門のもとで暮らし、修行をともにしたころ、さまざまの道を経、まわり道を経て、一つの知らせ、うわさ、風説が彼らの耳に達した。ゴータマ(喬答摩)と名づけられる人、正等覚の仏陀が現れ、自己のうちにおいて世界の苦悩を克服し、輪廻転生の車輪を停止させた、というのだった。

彼は沙門の面前に、魂を集中して立ちはだかり、おのれのまなざしで老人のまなざしをとらえ、老人を呪縛して、沈黙させ、その意志を奪い、おのれの意志に屈服させ、おのれの要求することを無言でなすように命令した。

老沙門を魔法のとりこにすることは、むずかしい、非常にむずかしい。ほんとに、君はあそこに居つづけたら、やがて水の上を歩くことも学んだだろう。

シッダールタは言った。「昨日、おお覚者よ、あなたの至妙な教えを聞く機会に恵まれました。私は遠いところからひとりの友ととともに、み教えを聞くためにやって参りました。そして私の友はあなた方のもとにとどまるでしょう。彼はあなたに帰依しました。私はしかし改めて遍歴の旅にのぼります」
「おん身の欲するがままに」と世尊はいんぎんに言った。

世界の統一、いっさいの生起の連関、大小いっさいのものが同じ流れと因果生滅の同じ法則によって総括されていること、それがあなたの崇高な教えから明るく輝いています、おお覚者よ。さてしかし、あなたのその教えによると、万物の統一と首尾一貫が一か所で中断されております。小さいすきまからこの統一の世界に、何か無縁なもの、何か新しいもの、何か前になかったものが流れこんでいます。そしてそれは明示されず、証明されえないのです。それは世界の克服の教え、解脱の教えです。

知識をむさぼるものよ、意見の密林に対し、ことばの争いに対し、みずからを戒めよ。

自分はもう青年ではなく、おとなになったことを確認した。古い皮がヘビから脱落するように、ある一つのものが自分から離れたのを、自分の若い時代を通じて終始道連れであり、自分のものであった一つのものが、すなわち師を持ち、教えを聞こうという願いがもはや自分の内に存在しないのを確認した。

この第1部からの長い途切れ途切れの引用をもって、シッダールタの乱読を終わりたい。

ずっと『自作音楽2017.9.2.』を聴いている。シッダールタの旅というか、修行というのか。それと重ね合わさっている。その意味では、この音楽は成功だったと言える。


『方丈記』鴨長明

「無常観」は非情な宇宙原理を容認するが、「無常感」はあきらめて涙する。

「世の不思議」とは、人間の理解を超えた天災や人災のことである。体験した年代順に記すと、
二十三歳の安元の大火、二十六歳の治承の辻風、二十七歳の養和の飢饉、三十一歳の元暦の大地震であり、
二十六歳の福原遷都も人災として厳しく批判している。
これらはいずれも「無常」の産物であり、目に見える形で現実となったものに他ならない。

人の心もまるで変わってしまった。雅な公家ふうを捨てて、実利優先の武家ふうに染まり、馬や鞍ばかりを重んずる。貴族のように牛や車を用いる人はいなくなった。

現在の日本は食料自給率が異常に低いと言われる。諸外国から金で買えるうちはいいが、売ってくれなくなったらどうなるか。
いくら時代が変わっても農と食の問題は不変である。

土塀の外側や道路の端に餓死者などの死体が無数に放置されたままだ。

人間飢えれば生きるために何でもするようになる。他人を思いやり、自分を律する公共心・道徳心は消えて、人間を辞めてしまう。もはや「無常」の風が吹きすさぶ荒野に生きる半獣人にすぎない。

巨大地震の発生があった。そのすさまじさは、この世のものとは思えなかった。山崩れが起きて土砂が河を埋め、海が傾いて津波が陸に押し寄せた。大地は裂けて水が噴き出し、巨岩は割れて谷底に転がり落ちた。海岸近くを漕ぐ船は打ち寄せる大波にもてあそばれ、道行く馬は足場を失って棒立ちになった。

だいたい、この世を生きていくことじたい、なかなかたいへんなことなのだ。人間である自分自身と住みかとが命短くて頼りないさまもまた、これまで述べてきた災害の例からもわかるとおりだ。
自分一人でさえそうなのだから、まして、人それぞれに、住んでいる環境や身分・立場に応じて生まれてくる苦労の種は、いちいち数えあげたらきりがないほどに多い。

心の安らぎを自分の外に求めても、決して得られないということに尽きる。

五十になった時、思うところがあって出家した。妻子・縁者もなければ地位・財産もないので、出家を妨げる何ものもない。
だから、真の自由人になれる、と思った。それなのに大原の出家生活はただ漫然と五年の歳月が流れただけで、何の悟りも得るところがない。

「六十の露」
新居は今でいうプレハブ建築。全部組み立て式で部材は車二台で運搬可能という。まるでモーターホーム(移動住宅車)とも呼ばれるキャンピングカーを連想させる。

仏者だから仏像や経典を安置するのは当然だが、特製の本箱三つを用意しているのがおもしろい。仏書、歌書、音楽書。歌人としても音楽家としても一流だった彼は、ついに風雅の道を捨てることはできなかった。
携帯用の折り琴・継ぎ琵琶も高級な楽器で、いわゆるステータス・シンボルである。

住まいの外のようすを述べてみよう。
春になると、この西方に藤の花が咲き誇る。
夏にはホトトギスの鳴き声を聞く。
秋にはヒグラシの声が耳の中に満ちあふれる。
冬には雪景色をしみじみと眺め味わうことができる。
歌を詠んでも琵琶を弾いても、なお感興があふれて尽きない時には、何度も松風の音に合わせて箏の琴で「秋風楽」を弾いた。あるいは谷川の流れる音に合わせて琵琶の秘曲「流泉」を奏でる。

ここまで32段まで読んで乱読を終える。


『森の生活ウォールデン』ソーロー

読書
最良の書物は善い読者と呼ばれる人々によってさえ読まれない。
人類の記録された叡智、古代の古典や聖書類にいたっては、それについて知ろうとする志があれば誰にでも手に入るのにそれに親しもうとする努力はどこにおいてもはなはだ微弱である。

時々、夏の朝、いつもの水浴をすませたあと、日の出から正午にいたるまで、わたしは日あたりのよい戸口で想いにひたって坐りこんでいた。松やサワグルミやウルシのただなかで邪魔するもののない孤独と静寂とのなかで。鳥はあたりでうたい、あるいは音もなく家を通りぬけて飛びかけった。


これで今日の乱読を終わる。

悟りへの修行をするシッダールタと、天災人災から逃れて風流に生きる鴨長明と、森の生活をするソーロー。
読書は自分の分身を作る。求道的な、分身たちが結びついて、自分に返って来る。
今日は良い日曜日だった。
あと半日、何をしようかな?

徳村慎。