那智黒石彫刻日記2016.9.6.
徳村慎
1.仏像
仏像が仏であるのは何故なのか?
彫っても彫っても仏は生まれる。生まれても生まれても、次に生まれる仏。不思議である。なぜ、仏を彫れば次の仏が生まれるのだろうか?……仏が連鎖していく。
喧嘩は何度も繰り返されてきたわけで。仏を彫るには心を鎮める必要があって。結局は家族というコミュニティ自体も均衡を保つ努力が必要であって。しかし、この中から本物の仏が生まれる気もするのだ。それは僕がいい加減なことを言っているだけかも知れないが、いい加減ではないと心の奥で思う。
2.那智黒石のいびつな球体。
球体というかソロバン型にも近いんだけど。一応、ブレスレットの玉にしようと思う。木材と組み合わせる予定。磨いていて思うのは時間短縮出来ればなぁ、という考えだ。しかし、時間短縮すれば熱や圧力が加わることになる。割れなきゃいいが。一度やってみる価値はあるだろう。
最近、毎日タロットカードを引くようにしている。どの程度当たるのかを見極めるのが面白いと考えたからだ。朝にタロットカードを引くと「ゆるやかな変化」と出た。自分の中の仏の声だ。外からの圧力のようなもので変化していくのか変化を望んでいるのかは分からないが。石を売るという商売は時代とは関係なく成り立ってきた。しかし、それが成り立たなくなるのでは?……とも思う。つまり時代の変化。
しかし、こうも言える。仏に時代など無い。変化するのはむしろ内面の問題で。仏を彫ることで向き合うものが変わるのかも知れない。マザー・テレサのようにはなれない。それでは僕は誰なのか?……僕は本当に僕であるのか?……いや、僕は僕でしかないんだけども。今、死んでも、何かが変わるとも思えないし、死なないことで何かの役に立つという思いもあまり無い。では僕の中の仏は一体、何になるのか?……おそらく幸せを見つめることなのだが。幸せの定義は意外と難しいのだ。
3.ドローイング
仏像が表の太陽ならば、ドローイングは裏の月のようなものか。いや、仏像といっても大したものを彫る訳ではない。ただ、笑顔にも泣き顔にも怒った顔のようにも見える無表情と豊かな表情の間の顔が円空仏のようなものに近いものとなった。必然的に省略して、必然的に石へと回帰するものだ。
それに比べてドローイングは欲深い世界だ。エロスもタナトスも自分の中で未消化のままに吐き出している。森羅万象をそのまま表現するのがドローイングで、それらを消化して顔の表現だけにこだわるのが仏像なのだ。
ドローイングを描くとリラックス出来る。おそらく彫刻も緊張感は同じぐらいあるしリラックスもしているのだが、工具で手の指先を傷つけぬよう考える点では厳しさが少しあると思う。仏像に対する厳しさではなく自分への厳しさ。それは身を守る術だ。
ドローイングは自作のギターの曲を聴きながらやっていた。時計も見ずにやっているので時間の経ち方が分からない。小さいものなので平均10分ぐらいだとは思うのだが。
そういえば仏像は下描きをしていない。まあ、誰でも彫れるものだし、少女の顔の彫刻の時も下描きはしなかったのだから、当たり前なのだが。下描きをしない作品ばかり作るからドローイングをしたくなるような気がする。
4.徳村屋
4代続く徳村屋の歴史の中で那智黒石がどう変わっていくのか?……いや、変わらないのかも知れない。粉末成形での置物の小さなものへの移行だとか、天然回帰だとかいろいろやっていても、変わっていないのかも知れない。
5.彫刻
父が5つの彫刻を選定してくれた。磨きを仕上げてくれるらしい。僕は夏風邪で仕事が出来ない。古道センターで無事発表出来そうだ。……とここまでは良かったが、ちゃんと連絡を取ってなかったので天然石にクリアコーティングをしてしまったらしい。吉と出るか凶と出るかは分からない。
徳村慎
1.仏像
仏像が仏であるのは何故なのか?
彫っても彫っても仏は生まれる。生まれても生まれても、次に生まれる仏。不思議である。なぜ、仏を彫れば次の仏が生まれるのだろうか?……仏が連鎖していく。
喧嘩は何度も繰り返されてきたわけで。仏を彫るには心を鎮める必要があって。結局は家族というコミュニティ自体も均衡を保つ努力が必要であって。しかし、この中から本物の仏が生まれる気もするのだ。それは僕がいい加減なことを言っているだけかも知れないが、いい加減ではないと心の奥で思う。
2.那智黒石のいびつな球体。
球体というかソロバン型にも近いんだけど。一応、ブレスレットの玉にしようと思う。木材と組み合わせる予定。磨いていて思うのは時間短縮出来ればなぁ、という考えだ。しかし、時間短縮すれば熱や圧力が加わることになる。割れなきゃいいが。一度やってみる価値はあるだろう。
最近、毎日タロットカードを引くようにしている。どの程度当たるのかを見極めるのが面白いと考えたからだ。朝にタロットカードを引くと「ゆるやかな変化」と出た。自分の中の仏の声だ。外からの圧力のようなもので変化していくのか変化を望んでいるのかは分からないが。石を売るという商売は時代とは関係なく成り立ってきた。しかし、それが成り立たなくなるのでは?……とも思う。つまり時代の変化。
しかし、こうも言える。仏に時代など無い。変化するのはむしろ内面の問題で。仏を彫ることで向き合うものが変わるのかも知れない。マザー・テレサのようにはなれない。それでは僕は誰なのか?……僕は本当に僕であるのか?……いや、僕は僕でしかないんだけども。今、死んでも、何かが変わるとも思えないし、死なないことで何かの役に立つという思いもあまり無い。では僕の中の仏は一体、何になるのか?……おそらく幸せを見つめることなのだが。幸せの定義は意外と難しいのだ。
3.ドローイング
仏像が表の太陽ならば、ドローイングは裏の月のようなものか。いや、仏像といっても大したものを彫る訳ではない。ただ、笑顔にも泣き顔にも怒った顔のようにも見える無表情と豊かな表情の間の顔が円空仏のようなものに近いものとなった。必然的に省略して、必然的に石へと回帰するものだ。
それに比べてドローイングは欲深い世界だ。エロスもタナトスも自分の中で未消化のままに吐き出している。森羅万象をそのまま表現するのがドローイングで、それらを消化して顔の表現だけにこだわるのが仏像なのだ。
ドローイングを描くとリラックス出来る。おそらく彫刻も緊張感は同じぐらいあるしリラックスもしているのだが、工具で手の指先を傷つけぬよう考える点では厳しさが少しあると思う。仏像に対する厳しさではなく自分への厳しさ。それは身を守る術だ。
ドローイングは自作のギターの曲を聴きながらやっていた。時計も見ずにやっているので時間の経ち方が分からない。小さいものなので平均10分ぐらいだとは思うのだが。
そういえば仏像は下描きをしていない。まあ、誰でも彫れるものだし、少女の顔の彫刻の時も下描きはしなかったのだから、当たり前なのだが。下描きをしない作品ばかり作るからドローイングをしたくなるような気がする。
4.徳村屋
4代続く徳村屋の歴史の中で那智黒石がどう変わっていくのか?……いや、変わらないのかも知れない。粉末成形での置物の小さなものへの移行だとか、天然回帰だとかいろいろやっていても、変わっていないのかも知れない。
5.彫刻
父が5つの彫刻を選定してくれた。磨きを仕上げてくれるらしい。僕は夏風邪で仕事が出来ない。古道センターで無事発表出来そうだ。……とここまでは良かったが、ちゃんと連絡を取ってなかったので天然石にクリアコーティングをしてしまったらしい。吉と出るか凶と出るかは分からない。
6.彫刻展示
意外にもクリアコーティングは良かったと思う。ただ、尾鷲熊野古道センター『東紀州まちかど博物館展』に展示してた期間はお客様の入りは少なかったらしい。時期がお盆を過ぎてからなのが痛い。
7.久しぶりに仕事。ミニ招き猫
夏風邪での長い休みを終えて久しぶりに仕事。売れているミニ招き猫のマイナーチェンジというか彫りを丁寧にする。僕が作った物でこんなに速く売れるのは珍しい。猫ブームだからなのかな?
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