感想
『ヴァリス』
フィリップ・K・ディック
山形浩生 訳
てっきり読む前はSFだと思ってた。だって同じ作者の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』と似た内容だと思い込んでいたからだ。
全く違う。これは、どういった小説と言えば良いのか?……神学と精神医学を足した作品というか。哲学でもある。
自分の存在に神から与えられたものを感じる精神病患者の思考状態の記録というか。主人公は神仏を感じたり感じようとする僕と似ていると思う。神との距離が変わる点でものすごくリアルな小説になっている。僕も、こう感じた、と読み進めて思った。
ただし、危険な書物かというと、そうでもない。たぶん危険だと感じる人は主人公と同じ経験をしている人だけだ。だから神仏を身近に感じない人が読んでも害は無い。それでも神仏を感じた人にとっては衝撃でもある。
あとはトム・クルーズの映画『オブリビオン』に何故かなんとなく似ているとも思う。クローンを機械側、つまり人間を駆逐するためのものとして地球に送り込む。その機械は『ヴァリス』の衛星に似て、シマウマと呼ばれる神にも似る。『オブリビオン』の機械はハッキリとした意志で人間を駆逐するが、『ヴァリス』の神は非理性的だから人間や世界を不完全なものにしている点が大きく異なる。しかし、『オブリビオン』の機械の不条理さは似たようなものだとも考えられる。自分と同じ人間(クローン)が出て来るのとディックとファットという2人の人物に分かれているところ。
この宇宙は双子で一方が死んだとされる。これは我々の宇宙の物質が反物質と分かれて偏っていることを想起させる。
SFというより神学書だが、神学談義かと思えばSFで。『ヴァリス』は、ややこしい。
ソフィアは救済者でキリストなどと同等の者なのだ。2歳の少女ということだが、7歳ぐらいの時の芦田愛菜ちゃんをイメージしてしまった。僕の中の賢い少女のイメージなのだ。
ファットが探索で何かを見つけられるのかどうなのかは最後まで分からない。『ヴァリス』における神とは『2001年宇宙の旅』のモノリスのようなものやスターチャイルドのようなものかも知れないし、違うのかも知れない。
小説の中の映画『ヴァリス』は、本当に何かを隠していたのだろうか?……実は読み解く側の問題ではないのか?
そう考えればこの世の中の全ては映画『ヴァリス』なのだ。世界は暗号に満ち溢れていて謎が解き明かされるのを待っているのかも知れない。
作者の神秘体験が基になった小説である『ヴァリス』は難解ながらも面白い言葉に満ちている。僕も神秘体験というか神仏を感じたことがある。そしてそれが消えたのもファットと同じなのだ。神仏が消えてまた神仏を探求して。『正法眼蔵入門』を小説にしたような『ヴァリス』は僕の体験とも似ていて面白い。
シマウマは僕がパンダのぬいぐるみに喋らせてたことにも似る。「パンダは神様なんだよ、ぺか~」みたいにシマウマも喋ったのだろうか?
ソフィアが少女だったのはアニマだったのだとも思う。映画『ヴァリス』の製作者の多数が男性だったのと確実に関係がある。もしも製作者が女性ばかりならソフィアは少年だったに違いない。だとすればキリストなどが男性だったのは実は女性のための宗教であったのだとも思う。男性は信仰よりも哲学を求めるから。いや、こうも言える。女性の求める哲学が子宮的であるのは間違いないのだ、と。男性にとっての芸術は恋人であり、女性にとっての芸術は子供であるように思える。
自分の中の男性性と女性性が結びついたところに『ヴァリス』の延長線上の物語はあるだろう。それはユング心理学的だ。そして深い無意識が人類共通のものである理由がDNAであれ別のものであれ自分がどこかの表象によって導かれることは日常的にあるのだと思う。タロットが好きな僕だから、そう思うのかも知れないが。
これからも自分を見つける探索を僕は続けるだろう。その時に『ヴァリス』の言葉を思い出すこともあると思うのだ。
徳村慎
『ヴァリス』
フィリップ・K・ディック
山形浩生 訳
