那智黒石彫刻日記2016. | まことアート・夢日記

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夢日記、メタ認知、俳句モドキ、詩、小説、音楽日記、ドローイング、デジタルペイント、コラージュ、写真など。2012.1.6.にブログをはじめる。統合失調症はもう20年ぐらい通院している。

那智黒石彫刻日記2016.8.8.
徳村慎


1.大掃除

最近、大掃除か、というぐらい掃除をしている。あとは、ちょっと霊的な話になって、また、それが出来れば話すことになるが、そういう石とか。

大掃除は石を切断する切断機(丸ノコ)の周辺の石拾いをやったり、工房のリューターの何年も見ていなかった場所を片付けたり。兄と話したのだが、それはやっぱり霊的なものなんじゃないのか、と。そういう時期なんだ、と。まあ、今は詳しくは述べられないのだが。


2.那智黒石の作業と美

円空仏に影響された仏は彫刻を続けている。アウトサイダーアート的な部分からインサイドへと斬り込む姿勢だろうか?……今読み返さねばならないマンガかも知れないと思い『火の鳥』鳳凰編を読み返した。

土曜。お客様が来た。ジュエリー関係の学校の研究生の方で、すごく明るい方だった。アパレル関係を元々やっていてジュエリーの道へと進んだらしい。旦那さんと上海でのジュエリーも見ているようで話をしてくれた。今や中国は世界一とも呼べ良いほどのジュエリー大国でもある。

那智黒石を素材として面白いと思って頂いているらしく、こちらとしても那智黒石という名前を広めて頂ければ面白いな、と思った。那智黒石は加工がいかに難しいか分かりました、とも言ってられたのでそういう知識を得た方が広められたら確かなものとなっていく気がする。女性という視点も大きいだろう。良い作品が出来れば良いな、と思う。

石を切るのは面白い。何度やっても飽きない。那智黒石は特に面白いかも知れない。もちろん採石には採石の面白さがあるし、切断には切断の面白さ。彫刻には彫刻の面白さ。研磨には研磨の面白さがあると思う。でも、切断というのは一番気合いが入る部分でもある。

彫刻の気合いは美術的だし彫刻的だし、立体造形的な面白さだ。その気合いは実はデッサンをしている時に近い感覚だ。でも切断は違う。明らかにもっと乱暴でいて、しかも乱暴さの中に繊細さがあって。で、美術的ではなく美的である。石の美を見出すのが切断で、石から美を生み出すのが彫刻だ。切断は自然の発見だ。ダーウィン的な博物学の感覚だし、科学に近い美だ。美術的な行動には自然美との決別が見られる。まあ、円空仏に関しては自然美と美術的な美の中間である気もするが。更に言えば研磨は機械的物理モデルの美だ。この美は余り理解が及んでいない。研磨は数学的な美でさえある。では採石はと訊かれれば答えよう。採石は音楽の美である。叩いて良し悪しを判断するから音楽なのだ。石を叩いて出る金属音に近い音は本当に音楽的な音なのだ。

しかし、本当を言えば石の割り方には2つある。切断機での切断と、劈開(へきかい:職人用語では「石の目」と呼ぶ)を利用して割る方法だ。劈開を利用する方法は実はタガネを当ててハンマーで割る方法だけでなくポンスと呼ばれる割り機での方法もある。ポンスは割るというよりも砕くといった表現が近いだろう。

石の目に沿って割れば石は板状に割れる。石の目に直角に交わるようにポンスを使えば砕けて面白い形の割れ方をする。これが仏に見えやすい石になる。それぞれ不規則に割れた物なので同じ形は1つとして無い。だから仏である。

しかし、四角く切断された石に仏が宿らないとは言っていない。こちらにも仏は存在するのだ。ただ円空仏のような見え方が無い分、下絵が必要になったり、考える時間が長くなる。自由度が高いと人間は迷いが生じる。制限された物から考えた方が簡単なのだ。

デザイナーがお題をもらって作った方が楽なのと似ている。こういう物を作りたいんだが、とクライアントから指示がある方が発想はし易い。自由は時に足かせとなるのだ。僕の仏は制限された砕けた石の方が良い。彫ってる内にまた砕けてそれでも何とか形を保つぐらいの方が良い。まあ、発想が楽なのだ。発想が楽というのも美として優れた点でもある。


3.日曜美術館(夜)メアリー・カサット、円空。

久しぶりに日曜美術館を観る。出来ればこれからは、定期的に観たいと思う。メアリー・カサッとという人は19世紀の女性画家でありのままの母と子を描いた。円空は仏像を彫った人で最後は即身仏になったという。円空仏に影響されたと何度も書いたがたまたま今日番組を観て円空をやっていたのだ。必然的偶然か。こんなのをシンクロニシティと呼ぶんだ。円空仏は一体しか出てこなかったが番組を観て良かったと思う。

メアリー・カサットは19世紀で美術学校に女人禁制的な仕組みで入れず、ルーブル美術館で模写することで絵を学んだ。「絵の勉強はそれだけ(美術館の模写だけ)で充分よ」と語ったという。確かにそれだけの言葉の重みがある。

さらに印象派の技法や銅版画をやり、女性のプロの画家となる。アメリカに渡り印象派を紹介する目利きとしても活躍する。その後、アメリカで女性参政権の運動を後押ししたりする。

母との関係が生涯の画家としてのテーマ(日常的な母子像)にもなる辺りは因果的でもあり輝ける独自性でもある。

人との関わりは母と子からはじまる。番組内で精神医学の先生がカサットの1枚の絵について語っていた。手を伸ばす子供は、母が何を考えているのか母の存在を確かめているのではないか、と。僕はハッとした。今読んでいるハイデッガーの思想「世界-内-存在」ではないか、と。そしてこれは裏返しにもなるが道元の思想「悉有仏性」でもある。

そうすると、ホラ、つながる。円空仏でしょ。またシンクロニシティだ。つながるよ。木の素材を活かした造形をした円空仏の存在そのものが「悉有仏性」であって。その仏を観て阿字観のように心を開けば「世界-内-存在」でもある。やはり仏は母と呼んでも良いだろう。母なる地球とか宇宙なんてものも世界なのだ。