感想『火の鳥』鳳凰編 | まことアート・夢日記

まことアート・夢日記

まことアート・夢日記、こと徳村慎/とくまこのブログ日記。
夢日記、メタ認知、俳句モドキ、詩、小説、音楽日記、ドローイング、デジタルペイント、コラージュ、写真など。2012.1.6.にブログをはじめる。統合失調症はもう20年ぐらい通院している。

感想
手塚治虫『火の鳥』鳳凰編


今までは、我王の彫刻への姿勢、茜丸の火の鳥への執念とかいろいろ彫刻家としての志(こころざし)にグッと来るところだが、今は、誰の心にも我王と茜丸の2人がいるのだと思う。

良弁(ろうべん)僧正は我王が盗人に間違えられた時に自分だけ逃げた。その後再会した時に良弁が我王に言う。

おまえをあのとき牢にいれたまま
わしがわざと見はなして逃げたわけがわかるかな(中略)お前があの苦しい試練にたえぬいたとききっとおまえの心の中にほんとうの仏がつくられるだろうと思った……
おまえが生んだ仏は
おまえだけのものだ
だれにもまねられぬ
だれにも盗まれぬ

そして我王は良弁の即身仏を見て悟る。

虫魚禽獣(ちゅうぎょきんじゅう)死ねば…どれもみんなおなじ!
人が仏になるなら…生きとし生けるものはみんな仏だ!
生きる?
死ぬ?
それがなんだというんだ
宇宙の中に人生などいっさい無だ!
ちっぽけなごみなのだ!

我王は僕の方法とは異なるが無を理解する。誰もが方法が異なるから仏なのである。であれば寺の中で悟ることも一様な悟りではないことに留意すべきだろう。もしも師と弟子が同じ悟り方であれば、それは偽物だと言って構わないだろう。

『正法眼蔵入門』の感想で書いたことも、あくまで僕の解釈であり、しかもその解釈は変化して流動していくものである。だから何度も本を楽しめるのだ。いろんな本と出会ってからまた『正法眼蔵入門』を読めばまた違う角度から感想を得られるのだ。

『火の鳥』をはじめて読んだのは中学校の図書館でだ。手に入れたのは大学1年の頃だ。文庫版の全巻。絵の勉強にと買ったものだ。美術学科絵画コースに入っていた僕は西洋絵画の歴史を学び、日本画は少しだけ本でかじり雪舟が唯一好きで、マンガの歴史を調べるとガロ派の水木しげるとCOM派の手塚治虫が源だと知った。だから水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』のちくま文庫版全巻も持っている。……とにかく大学1年で『火の鳥』に再会。

その時は茜丸の前半が自分だと考えたりもした。基本をしっかり学んで火の鳥を求めて突き進む姿が似ていると思ったのだ。それでも我王の魅力もあるにはあった。

その後大学を中退してからは我王一辺倒。我王こそが自分なのだと考えた。基本からの逸脱というか脱皮。

そして茜丸に自分を重ねたり我王に自分を重ねたりを繰り返していた。でも結局、2人ともが自分の中に居る。中退後に那智黒石の家業に入って彫刻へと傾く。それでも売り物を作るまでには中々至らず何年かが過ぎた。粉末成形(練り)をやって、天然石にも手を出し、(アクセサリーを目指して)小さなスカルを作ったり。ようやく八咫烏(ヤタガラス)を作ったのは熊野古道がメディアに取り上げられた頃だった。それでも置物は彫刻ではない、との感覚だった。ようやく見つけた仏像の彫刻。これもいずれ仏像と彫刻は別物だと思うのかも知れない。自分にとって何が彫刻で何が別の物なのかは難しい。今は仏像を彫刻と考えている。そして仏像はライフワークになるだろうとも思う。彫っていて楽しさが違うのだ。円空仏的な仏像。

茜丸のスランプ。茜丸が我王と戦う鬼瓦作りでの出来事だ。ここ2年の僕の体調のことが思い出された。スランプから抜け出られたと思ったら次のスランプみたいな。作品が作れないというイメージが頭を巡るのだが、実際には作品が作れないと思い込んでいるだけで仕事はしているのだがスッキリしなかった。恋愛の妄想に近い思い込みだとか精神的な疲れが襲いかかり2年。長かったトンネルをやっと抜けられた気がする。そして、これが牢に入った我王でもあったと思う。あの頃に頑張って作った作品は周りに全く評価されなかったが、僕にとっては大切な時間となった。思い返すたびに自分以上の自分であったと思うし、今あんなに作品の数を1日12時間もかけて作ったりは出来ない。それでも今はトンネルから抜け出られたのだ。良かったと思う。

揺り動かされた僕は、また新たな仏と出会えた。本を読める。本を真実の知識として読める。いや、哲学や科学や小説などの本だけでなく、マンガや雑誌やTVのバラエティや映画など全てが真実の知識となる瞬間を味わい続けている。

『MAJOR』のスランプを抜ける第6シリーズをマンガで読めた。そして、あの時に読もうか悩んだものがドンドン手に入りはじめている。僕が進んでいるのか、本が歩み寄ってくれるのかは感じ方しだいだ。そして僕は何年もかかって誰かと比較することを諦められるのだろうか?……本当に僕は僕だけの本の読み方が出来ているのだろうか?……僕の感想は独創的な部分があるだろうか?……と少しだけ疑問には思うものの、誰かと同じ感想になっても良いとも今は思う。そして僕の読んだ本を読んだ誰かがその本を面白くない、と言ったりすることもあるだろう。その方が僕はニヤリとするだろうし、面白いといっても同じ所が面白いとは感じてないんじゃないか?……と期待してしまう。でも、誰かと同じ面白さで重なってももう大丈夫だ。

僕は結局、我王であり茜丸でもあるんだろう。

この山はおれが住むのにちょうどよい
おれは生きるだけ生きて……世の中の人間どもを生き返らせてみたい気もするのです

と我王は語る。まさしく『正法眼蔵入門』での空を伝えるところまで含めた悟りだ。「十牛図」の空白からの旅立ち。『ツァラトゥストラはこう言った』の山から下りる所。それらを知って『火の鳥』鳳凰編を読めば、これがいかに奥の深いマンガかが分かる。いや、分からなくても良いか。各人それぞれがこの『火の鳥』鳳凰編を読んで別の感動を覚えればそれで良い。それが答えだ。仏が現れた。僕は彫刻をする人間として我王と茜丸の気持ちが分かる気がする。だから中学生でもなく大学生の僕でもないのだ。2016年を生きる中年の僕の読んだ『火の鳥』鳳凰編だったのだ。

さてこれを読んだ誰かが『火の鳥』鳳凰編を開くことがあるだろうか?……あると良いな、と思う。

徳村慎