感想
「相模原障害者施設殺傷事件」
について
相模原の障害者施設「津久井やまゆり園」で19人が刺殺され26人が重軽傷を負った事件。
感想と言ってしまうと怒られるかも知れないのだが、どうしても書きたい。普段はマンガや小説の感想を書いていたが、どうしても事件について書きたくなった。この記事を日記として書くのも違うし随想でもないし、やはり感想になるのかな、と思ったので感想である。だから感想という言い方に特に意味は無い。
特に容疑者のことに焦点を当てた話になる。そしてこれまで感想に書いてきた、まんがで読破ヒトラー『わが闘争』や、『正法眼蔵入門』の話も出て来るので、詳しく読みたい人はそれらの感想も読んで頂きたいと思います。
以下にネット上のニュース記事からの引用。
「遺族の方には心から謝罪したいと思います」とか「後悔していない」と語る。
「今年はじめに会った時には世界平和を叫びはじめた一方、今付き合ってるカノジョをAVに出そうと思っている。自動的にカネを稼げるし。あいつロリコン系だから需要あるだろ」と友人に語る。
「ヒトラーの思想が2週間前に降りてきた」→「大麻精神病」「妄想性障害」などと診断された。病は演技の可能性もある。
ホームセンターで購入したハンマーで施設に侵入。入居者を刺した5本の刃物はすべて自宅から持ち込んでおり、取り替えながら使用していた。
障害の程度が軽い入居者が、緊縛されていた職員の結束バンドをはさみで切断して救出。この職員が無料通信アプリ「LINE(ライン)」を使って外部に救出を求めていた。入居者に話しかけ、反応を確認し重度の障害者から次々と刺していった容疑者。わずか約45分間の凶行で、施設内は大混乱に陥っていた。
で、僕の感想から。
まんがで読破ヒトラー『わが闘争』
の感想で、僕はこう書いた。
ヤバい。どうヤバいのかって?
僕が当時ドイツに住んでたらナチスを支持しちゃっただろうなぁ、という。僕は意志が弱いのですぐに影響される。
(中略)
現代人もユダヤ人を抹殺しようとしたことに、嫌な似たものを感じる。今の嫌韓流とかのネットの話題だ。
(中略)
現在の政治家の言っていることはヒトラーとなんら変わりがないとも思う。
(中略)
国民が選んだのが政治家?……民主主義?……国民が悪いの?
(中略)
こうして怒りをつのらせる僕のような人間からしてみればヒトラーのような指導者が魅力的になる。しかし、僕にとってそのように魅力のある人物は現在いない。残念でもあるし、ちょっとホッとする。
(中略)
ヒトラーみたいな人物。良くも悪くも、そういう魅力というか魔力というか。小説やマンガで出会うしかないんだろうなぁ。
……これが『わが闘争』の感想だ。
そしてコメントの返事には、こう書いた。全文引用します。
う~ん。僕は意志が弱いので、扇動されて奮起する国民だと思います。そして終わってみれば「騙された」と語るような卑怯者でもあるでしょう。
ヒトラーが最大悪の見本、と書いてありますが、人は多かれ少なかれ彼と同じ人間ですね。つまりは僕たちの誰一人として善人は居ないと思います。相対的に「自分は人殺しをしないから」という理由で善人だと思い込んでいるだけでしょうね。
人は服を着るように思想を着ています。「あの人はこういう思想を持っている」という周りの人から思われていることで自分はこういう思想を着ていると思い込むでしょう。僕も周りから求められれば人殺しになる可能性もあると思います。正義の判断は消える可能性があります。
おそらく裸の王様にまつりあげた周りの人間にも罪はあるのです。
……コメントの返事にしては辛口な意見かもしれませんが、僕の意見は、こうです。
未来永劫許されない罪があるなら、全人類がその罪を背負っていると思います。
本当に長いコメントの返事ですね。
そうです。相模原の殺傷事件の容疑者の言っている、「ヒトラーが降りてきた」というものに残念ながら通じるものがある文章ですね。かといって今の状況で僕は大量殺人は行わないとは思います。しかし、もしも戦争に行ったら嫌々でも行う可能性があります。そうなんです。今回、この感想で見極めたいのは僕と容疑者の彼との違いは何なのか?……なのです。
ヒトラーの時代にユダヤ人大量虐殺を行った人は、おそらくヒトラーに褒められたのでしょうね。
僕と容疑者とヒトラーの違いは何だろう?……あるいは、こうも考えられます。僕と刺された被害者の違いは何ですか?
たぶんどこかに違いはあるんです。でも本当に難しい問題なんです。違いたいと思い込みたいから違う条件を無理にでも探し出すことは出来ます。しかし、本当の違いを見出したいんです。
まずはヒトラーから。これは北朝鮮と変わらない独裁政治ですね。北朝鮮は軍事国家なんだぞ、とミサイルを発射して周囲にアピールしています。北朝鮮国内のメディアも国を讃える内容ばかり。この国の国民に生まれれば何が正しいのかは分からなくなるかも知れません。この国が間違っていると分かってもそういう発言は出来ないでしょう。
たぶんヒトラーは政治を支配出来るぐらい頭は良いのでしょう。しかし、頭が良いのと正しいのとは違うのです。オウム真理教が事実上のテロを起こしたのも頭の良い人たちでも正しくないことが起きるということでしょう。どんな哲学や宗教や思想であれ正しくないことに利用されたりする可能性もあります。IS(イスラム国)などのイスラム圏のテロ組織とかもそうでしょう。
では人々は権利を主張するのに正しい方法だけを使ってきたのか?……農民一揆や革命は今の手段としては適当ではないでしょう。多くの人の平和を乱すからです。
では正しいことだけをやって僕たちは生きているのか?……信号無視や立ち小便やゴミのポイ捨てや街で許可なしに歌ったりしたことが無いのか?……これらも禁止された行為です。ですが子供の頃は立ち小便は、よくやってましたし、大学生の時に無許可のストリートライブを仲間がやっているのを見に行きました。ゴミのポイ捨てもやったことがあります。そして信号無視で小走りで横断歩道を渡ることは田舎道で車の通らない時とはいえ、今でもありそうな話です。
何が正しくて何が正しくないのか?
法律では正義を公共の福祉と呼んだりしますよね。要するに多数決です。じゃあ少数派は正しくないのか?
どこまで正しくないことをやれば人間はヒトラーになってしまうのか?……それでも当時の人の多くがヒトラーを支持していたのでしょう。
まんがで読破ヒトラー『わが闘争』の最後には"このまんがの原典「わが闘争」は、1925年に発表されたアドルフ・ヒトラーの自伝的政治哲学書です。偏った国家主義、差別的人種観を正当化した内容から、現在でもドイツでは法律により出版が規制されています。本書をきっかけに、読者の皆様が客観的・批判的にこの問題作の原典に触れ、当時の人権問題を考えていただければ幸いです。"と書かれている。
もしも相模原の殺傷事件の容疑者がこれを読んでいたとしたら?
この考察にもう少しデータが必要と思いウィキペディアで調べる。
『西日本新聞』は7月29日の朝刊オピニオンで「ナチス・ドイツはユダヤ人の大虐殺だけでなく、「T4計画」と呼ばれる非人道的な計画も実行した……」という題で、ナチスが7万人の障害者を、ユダヤ人と同じようにガス室で殺害した例をあげ、「ヘイトスピーチが横行する社会に、亡霊を呼び寄せる黒い感情が満ちてはいまいか」と警鐘を鳴らした。
僕は行動には出ませんが精神的に病んで人を恨んだりもしました。いや、カッとなって兄を蹴ってしまったこともあります。罪だらけですが、ヒトラーや今回の事件の容疑者なんかとは違うと言い切りたい。
でも殺人は起こさないだろ?……これは当たり前です。でも、本当に僕がこれから先ずっと殺人を起こさない人生を歩んだとして「この人(僕)は殺人を起こさない人だ」と言い切れるのでしょうか?
もう僕は他人と深く関わることに疲れています。傷つけあうのはまっぴらです。ということは相手に傷つけられるだけでなく僕も傷つけていることも経験したくないんです。……そうか。ここが違うのか。でも、深く関わることを避けたいほどに他人を信頼していないし信頼もされたくないってことなんでしょうか?
自分の大切なものを傷つけられたりしたら、僕はその人を恨みますし傷つけたいと望むでしょう。可能ならば僕の手を汚さず神罰として傷つける人に雷でも落ちてくれないかなと望むでしょう。でも、それは間違いだとも思います。だからこそ深く関わることには疲れているのです。良い人間とどんどん出会える人は自分の中に人の言葉や行動を一度吸収してしまうクッションがあるのかも知れません。
でもFacebookで「人脈を活かせない人は今まで良い人脈が無くて活用出来ない」なんて書いてる人が「息子の学習障害のような感じを人に嫌味な感じで指摘されて悔し涙を流した」とも書いてます。その人を以前は尊敬していましたが、今はそれほどでもないです。結局、人脈は広げれば傷つけ合うものだからです。その人が間違っているとか僕が正しいとかじゃないです。そういう生き方は僕には出来ません。
何故、人殺しはいけないのか?……僕が分かる答えとしては、生理的に気持ち悪いから、じゃないでしょうか?
何かを奪われた(例えば尊厳を傷つけられるようなイジメを受ける)ことで状況を変えようとして逆に傷つける(ナイフで刺してしまう)。
これって、どちらにも同情してしまうんです。イジメる側もなんで気づかないかな?……気づかないことが悲しいし。イジメめられて逆に傷つけるまでため込んだ人の気持ちも悲しい。たぶん、そうやって傷つけあうものの最終形が殺人なのだと思う。
でも僕には何の恨みも無い人を殺すことは出来ない。……ここが一番の違いだろう。
少し結論が生まれて安心する。そして仏とは何か?……という問題へと立ち返っていく。これは感想を書いた『正法眼蔵入門』の問題であり、今ゆっくりと読んでいる【ハイデッガー『存在と時間』註釈】の問題でもある気がするし、僕の彫刻の問題でもあるから別の項目として語らねばならない。
しかし、恨みがあれば傷つけてしまう可能性があるのか?……これは本当に問題だ。傷つけたり傷つけられたりは生理的に嫌だ。結局は傷つけることで自分の心が傷つくのが生理的に嫌なのかも知れない。傷つけて心が傷つくのは、つまり戦争後遺症のようなものだと思う。傷つけた人は大小はともかく確実に傷つくのだ。結局は傷つけられても我慢する方が得なのか?……いや肉体に傷つけられるのも、それはそれで嫌だ。
それに最近ではふとした瞬間に傷つけてしまう気もするから傷つける意識がなくとも傷つけてしまっているような気もする。関わらないことで楽になりたいという思いがあるのだ。別に全人類に正しい方法だと思っているのではない。自分にとっては正しい方法だろうけれど。
全てに距離を置けるのが僕の悟りならばその方法を使うだけだ。距離を縮めるのが誰かの悟りならばそれを否定しない。しかし、僕とその誰かが出会えば別の行動になるんだろう。僕とその誰かは、一方は遠ざかろうとして、もう一方は近づこうとして、どちらも傷つくんだろう。悟りとは個人によって方法が異なる。
人間である以上、僕と容疑者は重なる部分もあって当然だということか。そして重ならない部分はホッとした。やはり、僕にはヒトラーが降りてくることなんて無いのだろう。(もちろんヒトラーを持ち出すのは容疑者の言い訳である気もするが。)自分にとって絶対を作ってはならないのかも知れない。絶対を作らないことも仏である気がする。だからこそ僕や他の誰かの語る仏は決して君の仏にはならないと言っておく。
徳村慎