那智黒石彫刻日記2016.7.31. | まことアート・夢日記

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夢日記、メタ認知、俳句モドキ、詩、小説、音楽日記、ドローイング、デジタルペイント、コラージュ、写真など。2012.1.6.にブログをはじめる。統合失調症はもう20年ぐらい通院している。

那智黒石彫刻日記2016.7.31.
徳村慎


那智黒天然石で少女の頭部を彫ってからの次の作品として仏像に取り掛かる。円空仏に影響されたとは思う。石の形をなるべく残した仏像を作っている。仏像といっても頭部だけなので仏頭と呼ぶべきかもしれない。

無心に彫るように思えて中々無心になれるものではない。ただ、最終的には目の長さで左右のバランスが取れると思う。ハッキリ言えば目以外は左右対象である必要を感じないのだ。最後に決める感じで目を彫り直すだけで良い。

リアルな少女の顔とは違い、シュールというかデフォルメというかアンフォルメルというか。そんな仏像が気持ち良い。

とりあえず5年後を目指して走り出した。いや、歩みはじめた、が正確な言い方かもしれない。その前に8月末にある展示販売に向けてが大事だ。

仏教の経典を幾ら読んでも僕には根本で理解出来ないかもしれない。『正法眼蔵入門』を読んだ感想に「空とは性的快楽の脳内スパークと同じだ」と書いた。彫刻を彫るのは快楽だ。僕は悟りなどとはほど遠いのかもしれないし、快楽こそが悟りなのかもしれない。

僕にとって仏とは神と同じものである。いつも「神仏」と呼んでいる。違いはわからない。万物はことごとく仏性である。万物は霊であり神である。しかし、彫刻においては、やはり仏像と呼ぶのだろうとは思うのだ。

ところで話は戻って8月末の展示販売。他人の評価がどう出るか楽しみだ。僕の彫刻はどのように見られるのだろう?……好きな作品を彫刻して売れればそれで良い。でも売れるかどうかは分からない。那智黒天然石の彫刻の展示販売は、はじめてだ。頑張ってみようと思う。

熊野倶楽部での那智黒石加工体験もすんなり出来るようになった。まあ、他のサービス業のプロフェッショナルから見たら、全く至らず尽くさずな感じなのかも知れないが。(汗)
以前、大学生ぐらいの女性が体験に来ていて「この職業って誰にでも出来るもんなんですか?」と尋ねられて「はい。別に資格が要らないので誰でも出来ますよ」と答えたことを思い出す。あの頃は少し自信も無かったし、資格が要らないからこそ職業として生き残るには苦しいものだとも語れなかった。今ならなんと答えるだろう?……那智黒天然石の目を見て割れないように削ったり、石自体を叩いて確かめたり、全ての工程の経験で得たものについて何かを語れるだろうか?……しかし、語ったのを理解しても所詮は言葉の世界であって身をもって理解する、つまり彫刻出来るようになれるとは思えない。

しかも彫刻の簡単さを教えてしまうと、さらに誤解を生むんだろうなぁ。円空仏は誰にでも彫れるから、結局、誰にでもは彫れないんだよ、ということなんだけど。石の形自体に仏が居てその形を美しいと認めて仏になる。仏を彫っているんだけど彫るのは作ることじゃなくて仏にすることなんだよね。元々仏なんだもん。皆んなには仏に見えていない石ころが仏に見えた時点で彫刻家の素質はあるよ。僕にだって全ての石が仏に見えるには日数を要するだろうし。

この辺りは『般若心経/金剛般若経』『法華経』『歎異抄』『正法眼蔵入門』を読んだら分かると思うよ、こう言おうとしてちょっと考える。いや、読んでも分からないかも知れないな、と。和辻哲郎『風土』とかの方が分かるかも。でもね。風土から神々への信仰が生まれたという言葉の理解と多神教信仰を森の中で感じるのとは違う。

言葉を基本とする人文科学が好きな僕でも言葉の限界は感じる。限界は感じるけれどもこうして書いてみることで、どこまでが通じてどこからが限界なのかを見極めることが出来るかも知れない。

「神仏って妄想でしょ?」とか「結局神々というのは精神哲学的なものの表現なんですよね?」という自然科学的な答えもあると思う。それは決して間違いじゃない。けれども僕の言いたいことからは完全にズレている。

「神仏像に願をかけてかなうようにする」これも確かにプラシーボ効果で説明出来そうだ。けれどもこれもズレている。神仏の中に世界や自分を見ることが出来るような像があって良い。にこやかに過ごせるとか、悪いことをしたから怒られるんだな、と感じさせる像でも良い。その時、像は像の枠からはみ出て生きてくる。つまりは本当の神仏となる。

でも、技術的な話からこの日記は入っている。僕の備忘録だから僕に分かるように書くのは当たり前だ。でも、本当のところ何を考えているかを知ってもらいたくもある。

僕の中では神仏という形は合一して仏像になる。遍(あまね)く照らす存在は名も無い仏であり名も無い神だ。そこに違いは無い。今頃になって分かる。ガウディがキリスト教とギリシャ神話や地元の神話を混ぜているという意味を。

あと、こうやって○○日記という形が僕、徳村慎のAmebaブログ内で増えた理由もある。ドローイングや彫刻や風景写真やコラージュはそれ自体を載せてしまえば架空の世界となってしまう。ここに上手く言えないが危惧の念を抱いた。僕がドローイングを1日中やっている時ならば、それでも良い。でも人生自体がアート作品のように見えてくるぐらいの必要性に迫られた。それが彫刻だった。彫刻に無意味に飾った下手なキャプションを付けたくなかったのだ。僕の彫刻に見合うキャプション。それがこの那智黒石彫刻日記になると思う。そうなると字数的には長い文章だし、五行詩でまとめられるものではない。

本当は彫刻1つに言葉にならない長い物語が付属している。雄叫びのような動物の鳴き声のようなような泣いたり笑ったりした声が言葉があるのだ。それをどう表現するべきか、まだそのやり方が僕にとっては確立していないのだ。

自分にとって彫刻とは仏像とは何かも見極められていない。しかし、僕は確信している。仏像彫刻は続くと。ライフワークになるだろうと。今年2016年の10月で38歳の僕がライフワークを見つけるまでに長い時間がかかってしまった。しかし、それで良かったのだ。だから仏像は仏になり得るのだ。

いずれそれら円空仏に影響された那智黒石仏を徳村慎仏を見せられたらと思う。いろんな仏のありのままの姿を。



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