随想『ぽつり』2016.7.31.
徳村慎
▼眠れない夜にアレコレ考えて楽しむ
久しぶりの眠れない夜を過ごす。こんな夜は文章を書くのが良い。文章を書くと気持ち良い。
だいたい今日の模様替えがあまりにも疲れたから興奮してしまって眠れないのだ。自業自得だが、これで自分が変われるという思いもあってミョーに嬉しい。
『正法眼蔵入門』を読了して変わった気もする。あとは色んなマンガを読了したのも大きいのかも知れない。いや、ちょうど自分が変わる時期なのかも知れない。スマホ(まだiPhone5sだ)でマンガを読むということを禁止していたかのようにやらなかった僕。スマホを使いはじめた頃はゲームもほとんどやらなかった。スマホが拡張されるに従い、自分のスマホ内での行動範囲も広がった。
行動範囲といえば哀しいかな僕は散歩をしなくなり太った。温暖化が進むと夏に出かけなくなるんだな。暑くて体調を崩すぐらいなら出かけない方が良いとの判断もある。最近、春が短いと思う。冬が終わったと思うと夏なのだ。夏が長くてアイスを年中食べている。
眠れない夜だからこんな馬鹿げた文章を書くのだ。馬鹿げた、といえば、本当のところ、『正法眼蔵入門』における空が快楽かどうかは分からない。正直、少し強引な曲解であるとも思う。
自分が何を求めているのかを読者側が勝手に読み取るのが読書なのかも知れない。
だから『正法眼蔵入門』の解釈としての小説『ナマグサボウズ』を書き上げた時点で、書きたい小説は僕の中から消えたのかも知れない。いや、小説自体は書きたいけれど何を書いたら良いのかが分からないとも言える。
小説にドロドロしたものを持ち込みたくなくなったのだろうか?……現実世界はドロドロとしたニュースに満ちている。新聞はとらなくなったし、TVのニュースも観ない。最近はネットのニュースもほぼ読まない。これではいけないとは思う。しかし、那智黒天然石で仏像を彫る上でドロドロした世界の情報は必要ない気がする。
僕は買い物依存症的な部分があって、定期的に何かを買わないとストレスが発散出来ない。特に楽器や本がこれまでストレス発散になっていた買い物だ。食べ物には執着がないのか、食べたいものを訊かれてもなんでも良いと思ってしまう。
じゃあ、食べ物ではなぜ満たされないのか?……食べると消えるから、と思ってしまうのだ。これからは消える可能性のあるものには手を出さないぞ、という決意があるのだ。
恋愛も結婚しない限りは消えてしまうものだ。まあ結婚しても離婚してしまう人もいるので結婚がゴールではないかも知れないが。恋愛は相手を探したり、意見を合わせたり、時間をあげたり、といったところが不便でならないように思う。これを読んだ恋愛マスターたちは思うのだろう。「時間をあげる」ってなんだよ?……ギブアンドテイクだ、運命共同体だろッ。なんて。
この状態が好きで生きているのだ、邪魔をしないでくれ、と僕は考えるのだ。他人から何かを共有したいと持ちかけられるのが面倒なことに思えてきた。だから結婚には向かないのだろう。
人には向き不向きがある。儲けられる才能に恵まれた人もいれば、そうでない人もいる。それに豊かに生きることは金銭とイコールではない。それが分かっているのに「イコールなのか?」という迷いがあって他人と比較してしまって落ち込んだり恨んだりするのだ。では自己の探求に乗り出そう。他人との比較をやめよう。それがニュースに無関心な状態を生んでも仕方ないのだ。……と考えてしまう。
新しいスタイルのものに取り組むのが得意な人もいれば、古いものが得意な人もいる。構築するのが好きな人もいればアドリブで作るのが好きな人もいる。
感性が得意な人もいれば理論が得意な人もいる。
ある日突然蝶になり羽根が生えて空を飛ぶ。ある日突然草だったものから花が咲く。こうして見れば因果は無い。しかし実際には因果はある。その因果に少女というテーマが見えたりする。そして少女とは即ち仏であるのだとも思う。雅な顔立ち、芋な顔立ち。どんな少女も可愛く思える。おそらくほとんどの少女は可愛く出来ているものなのだ。その可愛さが全ての少女で異なり、別の可愛さで愛でるのだ。
じゃあ僕はエロいのだ。ほとんどの少女を可愛いと認識するならエロいに決まっている。そのエロさと哲学的生命感であるエロスは同じものだ。様々な体型と顔と服装の組み合わせを2次元の絵の中に求めたりする。仏像の彫刻では顔の中に何らかのエロスが見えるのが良いと思う。
買い物依存症的な部分に話を戻そう。最近気になる楽器はYAMAHA refaceシリーズだ。以前はDXが欲しいと感じたが今はYCが良いと感じる。refaceシリーズはCS(アナログシンセ)、CP(エレピ)、DX(FMシンセ)、YC(オルガン)の4つがある。たぶん楽器コレクター的には全て欲しくなるだろう。僕もスマホに楽器アプリをたくさん入れていて、デジタルシンセ、アナログシンセ、FMシンセ、オルガンなどを使い分けて遊んでいる。スマホにつなげる鍵盤さえあれば、それだけで完結してしまうだろうと思う。
楽器をコレクションした気になるのは、なんといってもデジタルシンセだろう。古今東西のあらゆる楽器が入っている点で最強だ。楽器の音図鑑みたいなものか。プリセットパターンの入ったシーケンサーは音楽ジャンルの音図鑑だ。昔ならこの2つ(デジタルシンセとシーケンサー)だけで良かった。僕は満足していた。
しかし、アナログシンセで音作りがしたい!……などと考えると買ってしまった。いやギターやギターエフェクターも。シンセ(鍵盤)、ギター(弦)と来たらドラムに木琴(打)だろう、とかリコーダーやオカリナ(管)だろう、などと自分を拡張しはじめる。しかし、これは楽器コレクターの考え方だ。冷静になると「そんなに買ってどうするッ」と自分自身でも思う。
これら全てが突然ぶっ壊れたら、僕は悟りを開くかも知れない。色即是空だ、と。
すっかり目が冴えた状態で、ずっと文章を書いている。もう3:00を過ぎた。時間か。……時間は経つものだが、歳は取らないものだ。今でも17とか20歳ぐらいに思っている。若いつもりでいると身体が言うことを聞かないってこともあるだろうけど。でも感覚は若いままだ。いや、でも若いジャニーズのグループ名とかAKBとかのセンターの子が覚えられないのと、最近の音楽は同じになってきたなとは感じるから歳をとったのかも知れない。
では本当に最近の音楽は同じなのか?
クラフトワーク、HASYMO、AFRA、HIKAKIN、MADONNA、小室哲哉のキーボード即興演奏、EDM、オーネット・コールマンのフリージャズ、シタール、佐藤奏ちゃんのドラム、初音ミク、BABYMETAL、TORIENA、アンビエント、上原ひろみ、でんぱ組.incなどをYouTubeで探していると先鋭的なものは地上波TVの音楽番組には出て来ないな、と。
それでもYouTubeには弊害もある。「次は?……その次は?」と求め続けてしまう。飽きるのが速くなるのだ。これが自分にとってのベストだ、と思っているのは1~2週間が限度だ。音楽だけじゃなく、彫刻している顔もそうかも知れない。じゃあ、僕は飽きっぽいのか?
飽きるのではなく、2つから3つぐらいの軸を常に移動しているのだとも思う。彫刻で言えば、ロダン、ヘンリー・ムーア、円空仏。絵画はダリ、アール・ブリュット、河鍋暁斎。音楽はベートーヴェン、ピンク・フロイド、オーネット・コールマン。小説はスティーヴン・キング、宮沢賢治、ジュール・ヴェルヌ。などとも考えられる。
今、4:00になった。虫の声がしている。虫と言えば自然科学だ。昆虫図鑑をボロボロになるまで読んだ幼稚園から小学校低学年。あの頃は虫の名前がスラスラ言えた。今では分からない虫の名前が大半であるほどに忘れてしまった。しかし、虫の声は仏教哲学的だと思う。僕にとって人文科学が絶対的に自分の中の軸としてあり自然科学がその補強をするのだと考えられる。社会科学はほんの少ししか領域が無い。
オカルトや宗教や哲学が好きなのは、人文科学が中心の生活だからだろう。
ぬいぐるみが好きだ。よく、しょーもないことをニヒルに、あるいは陽気に喋らせる。ぬいぐるみと神が一体化していたこともあった。失恋をした辺りから神が逃げたように思う。そして今や快適と快楽は同じ場所にある。神から仏へと変わったのかも知れない。
ここまで書いてきて「以前書いたことと変わらないな」と思う。繰り返すことで人は上達する。同じところを回っているようで螺旋(らせん)を描いているんだ、ということなのか。
いつからか、眠れない夜を楽しく過ごせるようになったのも螺旋だ。興奮の後に起きやすい不安は一切無い。今は螺旋階段を登るために文章表現でひとつひとつを理解しようとしているのだと思う。
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