感想『フランケンシュタイン』 | まことアート・夢日記

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夢日記、メタ認知、俳句モドキ、詩、小説、音楽日記、ドローイング、デジタルペイント、コラージュ、写真など。2012.1.6.にブログをはじめる。統合失調症はもう20年ぐらい通院している。



感想
メアリ・シェリー『フランケンシュタイン』

この小説『フランケンシュタイン』を初めて読んだのは小学校3年生か4年生の頃だった。しかし、小説の内容自体は、それほど覚えていなかった。10歳ぐらいから27年ぐらいと何ヶ月か経っている僕。再び読み返すことになった。(もちろん当時学校の図書室の本ではなく、本を買い直して)

これは解説にも書いてある通り、SFである。科学的に人造人間を作る話だ。驚きなのは、SFのアイディアの祖と呼ばれるH・G・ウェルズが『モロー博士の島』を出版する前に書かれた本なのだという。

錬金術と科学が混ざり合った独特の雰囲気はアメリカのホラー作家H・P・ラヴクラフトをも思い起こさせる。もっとも、ラヴクラフトの小説で死体蘇生は科学ではなく宗教儀式として描かれる点が異なる。しかし、暗い室内での科学者(フランケンシュタイン)の作業は宗教的でもある。

それでも、主眼はそこではない。生まれたものが生んだ親に復讐する話だ。映画で言えば『2001年宇宙の旅』の宇宙船内のコンピューターの反乱や、『ターミネーター』でコンピューターとそれの生み出すロボット(ターミネーター)の人間への復讐とも重なる。

しかし、コンピューターに感情が無い点でこれらの映画は観る者に恐怖が増すのだが、フランケンシュタインの生んだ怪物は人間的に苦悩するために読む者に悲しみを与える。怪物もそれを追うフランケンシュタインも孤独である。孤独が重苦しい小説なのだ。

最後まで読んでも分からないのだが、怪物は、果たして死んだのだろうか?

生きて孤独の中で氷の世界でやがてひっそりと死んだのだろうか?……それとも生みの親を死に追いやったことで怪物は自らの死期を早めたのだろうか?

いずれにしても孤独であることに変わりはないし、生命である限り、遅かれ早かれ死ぬのだ。

読み終えて思うのだが、怪物は孤独で良かったのではないか?……僕も醜い怪物と変わりない。いや、誰しも人間は、怪物のように醜いのかも知れない。だとすると、それより先は傷つけることも傷つけられることもない怪物の孤独は一種の救いであるとも思える。

そしてフランケンシュタインを助けた船長もまた、探検を道半ばで諦める孤独で終わる。いや、船長はイギリスに帰って孤独から解放されて普通の人生を送るのだろうか?

全ての家族を失ったフランケンシュタインの孤独を僕はまだ知らない。であれば僕は小学生時代と変わらず、この小説を本当の意味で理解出来ていないとも言える。老人になり、孤独な生を終えたなら理解出来るのだろうか?……正直、理解したいような、したくないような。まあ、なるようになるさ。孤独とは何であるかは今は分からないが、孤独の悲しみが『フランケンシュタイン』には満ちていて、小説から解放されて現実に僕は戻るのだ。ああ、孤独じゃなかったんだ、と。

徳村慎





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