随想「ぽつり」2015.11.14. | まことアート・夢日記

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夢日記、メタ認知、俳句モドキ、詩、小説、音楽日記、ドローイング、デジタルペイント、コラージュ、写真など。2012.1.6.にブログをはじめる。統合失調症はもう20年ぐらい通院している。

随想「ぽつり」2015.11.14.
徳村慎


生霊とは脳内のシミュレーションかも知れない。何故こんなものと戦うのか。疲れ果てた時に現れる物なのだとは分かった。「甘い」「中途半端」「何も出来ない」数々の言葉をはねのけようにも、疲れて脳内を言葉が回る。過去に言われたのか言われていないのかも定かではない。言われた気がするが、本当の所は分からない。生霊(と呼びたいのだが、やはり脳内のシミュレーションだろう物)に対して言葉で戦いを挑み勝ったもののボロボロになっている。実力が無いのだ。仕方がない。そうも思う。しかし、それだけだろうか?……僕のやって来た事は誰にでも出来る事で、存在する価値など無いのだろうか?……生霊は語る「ガッツの無い人やね。ハングリー精神が無いわ」その通りだ、その通りだが、お前には有るのか?……僕は全くの無力なのか。こうしたイメージは小説にしてしまうに限る。そうやって吐き出す事で生霊は無に還る。周りを道具にしている者に言われた、と僕は脳内の生霊に毒づく。そして今、僕自身は違うだろうか?……と自問してみれば、案外自分
自身が生霊なのだ。「気持ちわるない?(悪くない?)」と僕自身を否定するように仕向けて僕もそうやって生霊を否定したのだとも思う。南方熊楠の伝記漫画『猫楠』には自分自身の頭に霊が幾つも居るのだと書いてあった。今は、良く分かる。悲しみを共に乗り越えるような役割が果たせない時にその人の生霊を背負うのだろうか?……輪廻を断ち切るのは難しい。その人の怒りや悲しみを頭脳はずっと覚えていて繰り返す。人生で、人間にぶつかった数が少ない僕なんかは、ぶつからないように閉じようとする。しかし、間違いなのかも知れない。ぶつかりこそが最大の経験値かも知れないのだ。それでも僕は断ち切る方を選ぶ。似たり寄ったりの経験値など欲しくもない。断ち切るには好きな事を思い浮かべるのが一番だ。そうやって今までは乗り越えられた。しかし、最近の僕のガッツの無さには自信が揺らぐ。揺らがない方法は2つ考えられる。揺らぎの無い自信を他人からの評価で手に入れるか、或いは、揺らぎ続けて揺らぎの外へと想いを馳せるのだ。どちらでも良
いから手に入れたいと思う。






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