小説『怯える』
徳村慎
私は彼を追いかけた。夜の闇の中。冷や汗で全身が冷えていた。頭の中は熱く血がたぎる。彼の記憶が失われるのは嫌だった。車を運転して彼より先回りして待ち構える。車から降りた。「待って」と声をかける。彼は怯えてポケットから何かを取り出す。たぶんカッターナイフだ。
彼の名前は山城士郎(やましろしろう)。紙粘土で造形するのが上手くて、私は彼に販売を持ちかけていた。販売の流通ルートを私が開拓して、売り上げの何%かが私の会社に入る仕組みだ。彼の翼をモチーフにした立体造形はネット上で少しずつ売れていた。彼と手を組んで商売が出来る事に私は少し浮かれ過ぎたのかも知れない。冗談が事件になったのだから。といっても幸い表沙汰にはならなかったのだが。
「待って」と声をかけた。「来るなッ」怯えた声が聞こえた。彼はカッターナイフを振り回す。今、行かせたら私は、どうなるのか?……私は彼の右肩を掴んだ。
シュッ。首の右側に痛みが走る。
彼は右から左に素早くカッターナイフを持ち替えていた。
あまりに生意気な事を言っていると感じたのが事の発端だ。私は夢に満ちて語る彼が私の過去をなじっているように感じた。私は「たかが粘土細工やのに。誰でも出来るやろ」と軽く馬鹿にした。私も粘土細工で色々と作っていた時期があったから、彼の才能に少し嫉妬していたのかも知れない。
馬鹿にされた事で怒鳴る彼。私は金を持たない人間が取るに足らない者だと常々感じていた。彼だってそうだ。怒鳴る彼を少し怖い目に合わせようと考えた。
彼を驚かそうとその場で呑んでいた男性2人を金で雇った。ひれ伏して謝ると思っていたら、彼はローキックで眼鏡の太った男性の攻撃を止めた。そして細身の男性の喉を殴った。太った眼鏡の包丁を奪って床に叩きつける。一瞬でそれをやってのけた。太った眼鏡のバランスを崩して倒して腹と顔面に蹴りを入れる。細身は腹に一発入れて沈んだところで首を足で押さえて息が出来ないようにした。足でも締め技が出来るのか。空手を習っていた私でさえ知らない技だった。
彼、山城は冗談だと気づかなかった。怯えていた。「殺さな、殺される」と呟く。私が彼を殺そうと思ってると感じているようだった。私は最初、それも演技だと思っていた。彼は正当防衛を主張した。そして私に向かって「これでアイツらは殺人未遂、包丁を貸した店は殺人幇助(ほうじょ)、アンタが殺人教唆(きょうさ)になる。出るトコ出たろか。ええ弁護士雇えよ」と啖呵(たんか)を切る。本気だと気づいて謝る。何故か彼は冗談を冗談だとは思っていなかった。
彼は悲しそうに語った。
「こんなの、前にも、あった。高校の美術教師が自分の生徒のデッサンを見てくれって言ったんやよ。その生徒が生意気に僕のデッサンに追いついたと言ったから、勝負をする事になって。その生徒に勝ってボロクソになじったらカッターナイフを取り出して来たから奪って軽く怪我させた。教師も怒って包丁を取り出して来たからカッターナイフで顔面を切りつけて逃げた。もちろん、警察に言ったら僕も訴える、と僕は捨て台詞を残して。これは正当防衛で、もしお前の主張が通っても、僕が女性週刊誌などのメディアに訴える事でお前は教師の職を失う、と話してからね」
私は彼に拳を当てようと動いた。彼は私の肘に当てて私の動きを止める。立ち上がりざまに私の顔面を蹴って言った。「お前も、おんなじやぞ。訴えるんやったら訴えろや。コッチも訴えたるからな。お前の会社もぶっ潰したる。女社長が生きてかれへんようにしたるわ。独立直後で噂が立って生きてけれるんか?……地獄見せたる。お前が、つらなって(辛くなって)自殺しても、お前の息子が世間の厳しい視線の中で生きてかれへんぐらいにネット上でも噂を盛り上げたるからなッ。……お前は金を汚く使う女やッ」
店の外に飛び出し遠くまでスタスタと歩く彼。車で追いかけて「待って」と言ったらカッターナイフで首を切られた。私が謝って「切られたから、おあいこやろ」と言ったら彼も謝り、この事件は闇へと葬り去られた。
しかし、それでは終わらなかったのだ。5歳の息子は自分が座った状態で立った大人が近づくと怯えて泣きじゃくるようになった。玩具を大切にしない息子に、私が声を荒げて注意すると、頭を抱えて火がついたように泣いた。最近では私の姿を見るだけで身をすくめるのだ。
私も事件がフラッシュバックして男性と飲みに行くたびに怯えるようになった。男性が軽くスキンシップで肩を叩いただけで飛び上がる。怯える私を街中が知っているかのようだった。人の中に居る事が耐えられなかった。時折、汗が噴き出してトイレに入った。スネアドラムの連打(ロール)みたいに踊り締め付ける心臓をなだめようと洗面台に両手を付いて耐えた。鏡に映るのはゾンビのような顔の私だ。睨む瞳が自分でも怖い。「殺さな、殺される」山城の言葉が頭を巡る。私は暴力を振るいたくて堪らない衝動に全身が熱くなり髪を両手でかきむしる。
カッターナイフじゃなくとも尖った物が怖いという「先端恐怖症」が時折私を襲った。ペンの先で私を示す男性の手を払いのけたり、私の行動がおかしくなっていった。怯えが暴力を生むのだと知った。そう。私は知ったのだ。彼も決して私たちを傷つけたくは無かったのだと。自分の身を守る、怯えた防衛だったのだと。
叱られた息子が私にカッターナイフを向けた、その日。私は大声で泣いてしまった。あの過ちが取り返せないことに気づいたのだ。息子を彼のようにしたくはない。それなのに。ただただ悲しかった。私は1人になると吐いた。便器に酸っぱい物が満ちていく。私は汚物に満ちていたのだ。心の中さえも。
彼は、何故かその後、全ての粘土細工を叩き壊して行方をくらましたらしい。私の手元に残った物が彼の最後の作品という事だろうか。その話を聞いてから街で彼の姿を見るような気がする。通り過ぎる人たちの中に彼の姿を感じるのだ。似ているだけだろうと思い直す。それでも日に何度も彼を見かけた。
私はお金さえ手に入れば何でも出来ると思っていた。でも、それはお金に支配されてお金のために働いてきた過去の私から逃れられていない事を証明しているだけ。やっと、それに気づいた。それでも私は変えられない。お金で人を振り回して私自身振り回されるだけだ。
こうしてビルの屋上から下を見下ろすと足が震える。今度こそ、私は確実に死ぬのだと。
「やめなさい」
振り返ると翼を広げた天使が居た。美しい金髪の巻き髪。私は涙を拭う。屋上に吹く風は余りにも強く、指先から涙の雫が飛んで行く。
「この子を育てるのが、あなたの使命です」
そう言って少女を私の前に残し、翼を力強くはばたかせて空へと飛んだ。分厚い雲の下を飛び彼方へと消えて行く。
突然、携帯電話が鳴った。出ると部下の男が怯えた声で言った。「灰原さん、あなたが融資しようとしていた紙粘土造形作家の男、山城士郎が自殺していたそうです」その時、何故か私は悟った。この少女こそが士郎の娘なのだと。
電話を切り、私は震える声で少女に尋ねた。「あなたのお名前は?」少女は眉根を寄せて少し緊張して答える。「山城知流奈(やましろちるな)」さらに尋ねると歳は10歳だという。この子は、この歳で両親を失ったのだ。確か身寄りも無かったはずだ。当分、私が預かるしか無いだろう。知流奈は私と暮らす事になった。
知流奈は行儀良く食べる事すら出来なかった。まるで自分が先に食べなければ他人に取られてしまうような感覚でバクバク食べた。私が幾ら箸置きに箸を置いて口の中に食べ物のある内は噛み続けなさい、と教えても駄目だった。
私の息子がブロックで家を作っていた。知流奈は黙って見ていたが、やがて涙を流し始めた。息子は私の見ていない所で玩具を独り占めするのが常だったらしい。「聡(さとし)。玩具を貸してあげてね」私が言っても息子は貸さない。しまいに涙を流して聡は言った。「こいつが、俺の物を奪いに来たんや。俺は俺だけの物で遊んどったのに」
知流奈が走って部屋を出て行く。私はしがみつく息子を抱いたまま追い掛けなかった。
30分経っても家に戻って来ない知流奈を探しにようやく重い腰を上げた。友人に頼んで聡は見て貰う事にした。「この子、泣きやまんかったら、散歩に連れったってね」私の言葉に頷く千秋。「福ちゃん、それより、早よ追い掛けぇや」
私もボロボロの精神状態でやっと探し当てた。知流奈はぐったりしていた。雨の中で隣の団地の非常階段の奥で眠っていたのだ。私は熱に浮かされた知流奈の服が乱れている事に気付いた。最初はトイレにでも行った時に服をスカートに入れ忘れたのだろうと思った。しかし知流奈の熱は色っぽさをも感じさせる。もしやと思いスカートの中をあらためるとパンツには男性の物だろう粘液がべっとりと付いていた。
知流奈をおぶって部屋に帰ろうとすると千秋とすれ違った。「ちょっと、千秋、ウチの子見てくれとったん違うん?」すると千秋は笑う。「今、ぐっすり眠っとるで」談笑しながらの帰り道で側溝に灰色の塊が見えた時、化け物のように思えた。嫌な視線を灰色のゴミから感じながら近づく。気付いた。これは息子の聡だ。「聡ッ。聡ッ」雨水を沢山飲んでいた。ビニール傘に雨が当たる音が強くなる。ようやく遠くから救急車のサイレンが近付いて来た。
バタバタと慌ただしく息子の葬式が終わった。元旦那が私を殴った。「お前に預けたんは、殺すためやないんやッ」何を言ってるんだ。この男は他の女を作った挙句に別れを切り出し、「俺は息子を可愛いと思ってないから、後は頼んだ」と言ったのに。どの口で言う言葉だよ。
知流奈は暗い部屋で1人遊びを始めた。「にいちゃん。ブロックで遊ぼ」などと言っている。誰と話していたか尋ねると聡とだと答える。気味が悪かった。この子のせいで聡は死んだのだ。なのにこの子は死んだ聡と会話をしている。腹が立って平手で知流奈の頬を打ち続ける。
私は肩で荒い息を吐(つ)きながら言った。「もう、聡の事は言わんといて。分かったか?」
パリパリ。何かが砕ける音がする。鏡台の上を見ると山城の紙粘土細工が割れて中からカブトムシのものに似た幼虫が出て来たのだ。私は立ち竦む。一瞬血の気が引いて目の前が暗くなった。危ない。倒れる所だった。鏡台に手を着く。鏡がぐんにゃりと曲がって私の姿が歪んだ。
私は次の瞬間倒れて眠りに入っていたのだろう。私の胎内で何故か山城の子供が出来ていた。その子供は幼虫だ。幼虫は私の内臓を食い尽くして成長している。
寝たり起きたり断続的な時間が続いた。私の所に知流奈がやって来て、「聡にいちゃん、もう直ぐ産まれるの?」とお腹をさすった。全身の痛みに耐える。私は生きねばならない。私は生きねば。……何のために?……自問自答だ。育てるから。聡を育てるから。私は死んだ事を忘れて思う。しかしもう1人の自分が言った。「もう死んだじゃない」
知流奈がコップに水を汲んで私に差し出す。「ありがと」私は一気に飲み干す。苦い。水じゃない。「何これ?」知流奈は笑って目を見開く。「生えてたキノコを混ぜたの」私は全身に悪寒が走った。
天使がやって来た。「この子を育てられなかったのですね。灰原福江さん」ああ、育てられへんかった。「まあ、良いでしょう。別の者に託(たく)す事にします。次は貴女(あなた)の元夫にでも頼みましょうか」
天使が両手で顔を擦(こす)るとゴムで出来た仮面が剥(は)がれた。中から出て来た顔は山城士郎のものだった。「知流奈は、よく出来た作品でしょ。紙粘土細工だとは誰も気付かないようだ」彼は、そう言って天井に吸い込まれて消えた。
私は病室で目が覚めた。千秋が良かった、と泣きじゃくる。「2人も殺すなんて出来ないから」と言いながら。私はケータイ電話で元旦那に連絡しようとした。しかし、繋がった途端、「苦しい……」とだけ声が聞こえたきり、音が消えた。「もしもし、もしもし、アンタ、大丈夫なんかッ?」
3年後。やつれて軽くなった身体を進ませる。山での修行を終えて街に下りて来たのだ。珠数を持った左手の人差し指を額に当てると妖気が感じられる。こっちか。もう逃がさへんで。天使が知流奈と遊んでいた。知流奈は年齢が全く変わっていない。背を向けたままで天使が言う。「分かっちゃいましたか」私は腕時計に力を与えて長い剣に変えた。「ああ。アンタも覚悟しぃや」天使は丸い粘土を投げ付ける。粘土はムカデに変わって私に巻き付く。熱い。私の皮膚が燃える。でも、怯えを見せちゃ駄目だ。左手で振り払って剣を持ち直す。上段に構えて駆け寄った。「やあああああああァ」
次の瞬間天使の翼から羽根が抜けて空を白く染めた。
(了)
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