随想「ぽつり」2015.10.22.
徳村慎
工場のヤツらが、僕を見て何か言い合っていたが、極力気にすまいと努めた。人間の集団は不満があると苛める餌食を探す。金城も、鋭い目つきの工場のおじさんたちも、何か気に入らないことを抱えて生きているのだろう。だが、僕はそれどころではない。とりあえず、今日のところは泊まる家がある。助かったという思いでいっぱいだった。
上の文章は桐野夏生『メタボラ』より抜粋したものだ。
誰しもが何かしらの不満や不安を抱えて人間にぶつかるのだ。誰しもがいつかの被害者であり、誰しもがいつかの加害者である。親や周りの人間への共感や反発がそのまま自分を形作る。僕は小さな世界に生きている。その小さな世界を拡大すれば大きな世界にも当てはまるとも考えている。だから大きな世界も本質的に大差無いとも思う。大きなお金や人材が動くような世界と大差無いのだ、と。
今、僕は何を求めているのだろう?……と笑いたいような疑問が起こる。経済的成功か、名誉欲か。権力などの力とは何か?……僕から自由を奪える人間が居る事すら信じ難い。止めてみろ、止まっている人間をそれ以上どう止めるのだ?……と思う。誰も止めようとはしないだろう。笑い話である。
人間の求める物にはキャパシティがある。本と楽器が6畳間に溢れて、それでも欲しい物は増えるだろうが、限界は感じている。図書館に通っていた頃が懐かしい。図書館は自己の拡張である。通えば無限を手に入れられるのだ。『メタボラ』も図書館から借りて読んだものだ。そして今はネットの古本屋から買って手元に『メタボラ』が存在する。図書館に通い続けれていれば決して買わない本だろう。読みたい時に再び借りれば良いのだから。何とも物欲にまみれた話だ。
しかし物は記憶媒体である。記憶を消したい人間のみが断捨離とかを行えるのだとも思う。僕の持っている『ピアノレイキ』には「捨てファニー」という名前で断捨離に似た話が載っている。やはり今の僕には記憶を消したいという話に思える。記憶を消せる人間は或る意味強い。これからの新たな自分への希望に満ちているから。僕は本質的には変わりたくはないのだと思う。熊野に住んで時々都会を見て。石を加工したり彫刻したりして売って。
変わろうとする事が善であるかのようにネットの記事が溢れている。変わらないのではなく、僕は「変わる事が出来ない」のかもしれない。それでも周りの世界は着実に変わっていく。収穫逓増で合併が繰り返され貧富の差が激しくなる。進歩したつもりのモバイル機器でネットやメールや電話で繋がりっ放しの電子機器の奴隷。時間が無いから図書館に行かないのか、図書館に行かない事が時間を生まないのかが僕には分からなくなった。結局、田舎で暮らしていて田舎の良さを感じる暇を作れていないのではないか?
結局の所、自分への不満を他人にぶつけるのが僕ら人間なのだろう。でも自分を変える事は非常に難しい。そして変え続ける習慣を持つのは更に難しい。今のやり方が悪いのなら元の習慣に戻すのも良いやり方かもしれない。変えるのではない。自ずと変わる川の流れが目指す所だ。そして全体で見た時に変わっていないのが川の流れでもある。最近、流れが渦巻いていて違うと感じる。自然体で流れたいと願う。
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