小説『RED SENSE』
徳村慎
*残酷なシーンのある、気持ちの悪いホラー小説です。お読みになる方は自己責任でどうぞ。
汚泥が海に洗われている。そこに人工の灯(あか)り。都市の蠢(うごめ)く灯りが生き物で、人類はその寄生虫であるようにも感じる。
かつて世界に広まっていた雑多な人種が集まり住む世界唯一の都市『第5東京』。かつて東北地方と呼ばれたこの地も、温暖化から進んだ熱帯化により、もう寒い土地ではない。日本の海岸線は海水面の上昇により変わり果てた。海上の人工島なども整備されてはいるが、ほぼ世界の人口は第5東京に集まっているのだ。黄色人種に黒人、白人、その他。全ての人種が。幾ら、ここにしか人が居ないとはいえ都市の喧騒に満ちた第5東京はかつての関東に存在した東京と変わらない。変わるといえば農業でさえビルの中で水耕栽培で照明によって育成されるため都市だけでの食料供給が可能となっている点だ。
そうだ。人類なんて寄生虫に過ぎないのだ。この地球を破壊し尽くして第5東京へと逃げて来たんだ。死ね。人間の群れなんて地球にとって必要無い。
世界の機関が定めた掟(おきて)が酷い物だった。世界の全人口を約5000万人に絞り込む。自然環境破壊を食い止めて人類を生存させるには必要な措置(そち)だったのだ。宝クジみたいなものだった。皆んなインターネット上の数字を選ぶのに必死だったという。世界の機関は有用な人物から選んでいて、結局は宝クジは見せかけなのだとも噂(うわさ)された。宝クジに当選した生き残りは全て第5東京へと集められたのだった。
本田真奈美(ほんだまなみ)は34歳。ビルの中で完全無菌の服装で農作業に従事する女性である。
2年前、子供が奇形で産まれて直ぐに死んでしまった事で夫とは気持ちが続かずに離婚してしまった。
奇形児は産まれやすかった。オゾンホールは何年かに一度は拡大して太陽光に含まれる有害な電磁波が降り注いだため。また、かつての中華人民共和国に多く造られていた原子力発電所の大爆発で放射能が降り注いだためでもある。畸形が産まれる事は現在では高い確率で起こる。珍しい事では無いのだが、夫の顔を見る度(たび)に産まれたばかりの奇形児を思い出してしまい、離婚するしか無かったのだ。奇形児は長く生き永らえる事はない。それでも、奇妙な産声と出産の痛みがフラッシュバックしてしまう。
今日は生理が重い。いつもより怠(だる)くて熱を持ったような頭痛。それでも出血で身体は冷えた。指先の感覚が鈍り水耕栽培の野菜をカットするのに数秒の時間を要する。少し作業効率が落ちているのに気付いた作業監督のアリスが「大丈夫?」と尋ねて来る。笑って、大丈夫です、と答える。金髪美人のアリスは気配りが得意で作業者から人気がある。大学では心理学を専攻してコーチングの資格も持っている。ひとりひとりの考えが読める彼女の気配りで、この会社が成り立つのだと真奈美は感じていた。末端の作業者が気分良く効率良く働くからこそ会社は成り立つのだ。そして、あらゆる会社が人類を支え、大きな社会を築く。
夕方、退社すると赤い夕陽が見えた。血のようだ。月経を司(つかさど)るのは狂気の月の女神ルナかも知れない。しかし神話よりも女の直感。太陽こそが女を操るのだと真奈美は考える。太陽が輝けば女も輝き、太陽が怪しい曇った光を放てば女も狂うのだ、と。
部屋に帰れば、ルームシェアをしている谷村明日香(たにむらあすか)が子供をあやしながら「夕飯はハンバーグだよ」と笑う。彼女の笑い声に何度も落ち込む心が救われた。それでも最近は彼女にも薄っすらと闇を感じるようになった。別段、理由があるのではない。それでも笑い声の向こうに少しだけ陰りを感じる。彼女も離婚を経験したのだから陰ぐらいあるのだと、自分の直感を封じ込めた。考え過ぎは良くないもんね。
明日香は家電製品の製造メーカーに勤めている。「結局はシンプルな物が長持ちして多用途なのよ」が彼女の口癖だ。大学でプロダクトデザインを学んだのに、家電のデザインとは程遠い製造現場の流れ作業の毎日。彼女を見ていると大学卒が何の潰しにも成らない事を実感出来る。
もっと言えば真奈美の勤める農業会社の作業場にも居るのだ。有名大の頭の良いと言われる学部を出ても自分と給料の変わらない、仕事の出来ない男性も多い。話をしても知識と経験がアンバランスで、勉強が出来ても何も知らないのだと感じる。もちろん有名大を出て知識と経験が合わさっている人物にも出会う。それは学歴とか学校の成績が意味を成さない事を余計に示しているように思える。ハッキリと言えば経験が全てだろう。百聞は一見にしかず。百見は一行にしかず。
明日香が急に叫んだ。ハンバーグを口に運んでいたのを止めて振り向くと、明日香は窓を見つめている。
「どうしたの?」
唾をゆっくりと飲み込んでから、恐怖に引き攣(つ)る顔で明日香が言った。「何(なん)か、人影みたいなのが見えて」
窓を見つめる。そこは、いつもと変わらない窓。キッチン用品が手前にある。中性洗剤とスポンジとまな板が立てられていて。窓の外は黒い闇だ。夜が冷たく忍び寄る。微(かす)かに振動する何かが聞こえる。チリチリ。近づく音なのか、単なる振動か。これは、身体に響く音なの?……それとも空耳(そらみみ)?
「ゴメン。見間違いやよね。疲れとるんかなァ?」と明日香は笑う。関西弁に近い彼女の言葉が少し震えた。子供を抱きしめて目を瞑(つぶ)り優しい顔をしたが、その身体も震えている。恐怖から逃れようとする彼女と恐怖も知らぬ子供を見つめた後で、また、ハンバーグへと意識を向ける。ナイフで切ると肉汁が流れた。油とほんの少し赤い液体が。
日曜はカフェに行った。少しでも部屋に居たくは無かった。あれから明日香は何かに怯えていた。しょっちゅうスマホに日記を書いているようだった。幼い子供が駄々をこねると直ぐに怒鳴った。目に涙を溜めて。急に変わった彼女の姿に、ルームシェアなんてするんじゃなかったと思い、コーヒーカップを前に溜(た)め息を吐(つ)く。カフェが無きゃ、落ち着ける場所も無い。新しい部屋を探すべきかなァ?
ひたり。足首を掴まれた感覚があった。息を飲み下を見るとテーブルの下へと入って行く手が見えた。痴漢が居たのかと怖く思いながらもテーブルの下を覗き込む。誰も居ない事に背筋が凍った。なんだったの?
月曜になった。朝からシトシトと雨が降った。ビールの缶が何本も乗っかったテーブルに突っ伏している明日香に声を掛ける。「今日、仕事は、どうすんの?」
明日香が上半身を起こす。長い黒髪が表情を隠していて少し不気味だ。「ふふふ。アイツが怒ってんのよ。もう時間の問題やん。終わりなんよ。仕事なんか行けるもんかァ」
ひとつ縛りの髪を弄(いじ)りながら尋ねる。「アイツって、元旦那さんの事?」何がなんだか分からない。
明日香は狂ったように笑う。「生きてる人間なんか怖くないわよ。ははは。アンタ呑気(のんき)ねぇ」
精神科を受診した方が良いんじゃない?……とアドバイスしようかと考えたがやめた。議論が続けば会社に遅れるから。
傘を着て外に出ると傘の向こうに人影が見えた。傘を少し上に上げて道を見た。誰も居なかった。赤いドレスの小さな人形が落ちているだけ。誰かが作ったような下手な縫(ぬ)い方の人形だった。ボタンで出来た目が可愛らしい。落し物か。真奈美は拾い上げてブロック塀の上に乗せた。誰かが早く見つけてくれると良いね。
会社の赤い照明の部屋で農作業をしていた。身体は浮き立つように軽い。でも軽過ぎる。調子が良いのだろうけど、いつもと違うのは良い事なのかな?
葉の陰に蜘蛛が見えた。無菌状態の部屋で虫が居るなんて不思議で不気味だ。一気に寒気を感じる。
良く見ると根っこが数本絡まっているだけだった。見間違いなんて。一瞬でも、この部屋に虫が居たと考えた自分に腹が立つ。急にまた寒気が走る。背中側の植物たちからゾワゾワと無数の蜘蛛が動き回るイメージが浮かんだのだ。
冷や汗をかきつつ思い切って振り返る。何も無い。動いている虫なんて居なかった。振り返るのに勇気が必要なほどに私は何を感じているんだろう。今日は変だ。
仕事を終えて雨の中を帰宅する途中で黒い猫が横切る。尻尾(しっぽ)が二股(ふたまた)に見えたが見直すと尻尾は一本だった。やっぱり、今日は変だな。私も明日香に影響されてるんだ。
部屋に戻ると鍵が開いていた。彼女の姿は無い。スマホだけが机の上に置かれていた。これを持たずに出掛けたのだろうか。妙に胸騒ぎがする。
ポチャン。キッチンの蛇口から水の音がした。確かめると蛇口は閉まっていて、蛇口から落ちて水の音を立てるのに有るはずの食器も置いていない。おかしい。
ポチャン。背後で音がする。トイレなの?
歩いて行くと目の前に光が飛んだ。脳内のノイズで見えるんだ。やっぱり疲れてるんだ。目をギュッと閉じてから見開く。大丈夫。でも不思議だ。目を閉じて開くと普通は明るく感じるような気がする。夜だからなのか目を閉じる前より暗く感じた。
トイレのドアを開ける。カチッ。電灯が消えた。え?……何?……故障?
カチッ。電灯が点(つ)いた。
便座に座る男性の屍体が見えた。全身の肌が白くふやけていて服が水に濡れてべったりと張り付いている。
叫んだ。すると電灯は消える。
カチッ。電灯が点いた。屍体などトイレには無かった。
小用を足して流す。水が流れる音に、タスケテ、と声が重なった気がする。身震いしてトイレから出る。後ろを振り返るのが怖かった。
迷信深いお婆ちゃんが言った言葉を思い出す。「塩と水を供(そな)えたら、仏さまは喜ぶんだよ。……魔除(まよ)けにもなるしね」
どこに供えるべきか迷ったが、キッチンの窓の側(そば)に、塩を盛った小皿と水を汲んだコップを置いた。
不安になりながらも明日香のスマホを手に取る。スマホに触れた瞬間に、直感で分かった。もう、明日香には会えない。
スマホのパスワードは何か?……多分、誕生日だろう。入れると見事にパスワードが解けた。
メールの下書きに『RED SENSE』という題名のものがある。他は全て日本語で題が書かれているのに、これだけが英語だ。早速開いてみる。文章はいきなり始まっていた。
誠治の金を奪ったからって、私が悪いの?
せいじ、と読むのだろう。男の名前だ。元旦那の事かと一瞬思ったが次の文章を読んで、違うんだ、と気付く。
旦那は私の浮気に気付いてたの。それに家族には誠治の金が必要だったのよ。アイツ、金で私と寝てたのに、旦那と別れてくれなんて言いやがって。ふざけやがって。今さら幽霊になって出て来るなんて。
幽霊?……死んだ人間?
トイレで見た屍体を思い出す。
もう一度殺してやる。幽霊を退治してやる!
怒りに満ちた明日香の言葉が人間というより獣のように思える。人間も心が崩れて魔物に成るのか。幽霊よりも怖い。心の奇形だ。
プクリ。水面で泡が弾(はじ)ける音がした。コップを見たら、次々に泡が弾けている。コップの中の水が急に黒く濁(にご)った。良く見ると髪の毛が入っている。何故か、水から髪の毛が生まれたのだと感じた。。塩は酸性の薬品を浴びたように変色していく。ドロドロに溶けて茶色になってしまった。
高校の時に、殴った癖(くせ)に。
明日香の言葉が疑念を生む。どういう話だろう?……男子に殴られるような事があったのか?……それでも、殴った仕返しに殺してしまったのだろうか?……余りにも酷い話だ。
ザザザ。
何もしないのに、TVが急に点いた。画面表示が斜めに曲がり膨(ふく)れ上がり急に縮んだ。勝手にチャンネルが変わる。水の中の映像だ。川に生えている藻だろうか。暗い水の中で揺れている。水中を揺れる藻の奥で人間の顔が見えた。その屍体が眼を見開き手を伸ばしたところで、画面がプツリと消える。
ひたり。
足を掴む手の感触。見ちゃいけない。でも怖くて身動き出来ない。屍体だ。屍体が見えるんだ。
ぐいっと足が引っ張られる。椅子から転げ落ちた。痛みが足首に走った。急いでテーブルの下から足を引っ張り出す。
テーブルの下には蹲(うずくま)る男の姿。恐怖に声が出ない。トイレでも、TVでも見た、屍体だ。でも、生きてる。アイツは、死んでるのに動き回るんだ。
ハッとした。明日香もアイツと呼んでいた。
電灯が消えた。暗闇の中でゴソリと近づく音。真奈美は尻もちをついたままで後ずさる。肩が椅子に当たった。椅子を避(よ)けるように後ろへと下がる。
爪先を掴まれた。思い切り蹴った。泣きながら悲鳴を上げて後ろへと進む。立ち上がろうとしたが両足を掴まれた。腕の力だけで逃げようとした。側にあったぬいぐるみみたいな物を投げつける。
カチッ。電灯が点いた。室内には誰も居ない。机の下には投げつけた物が落ちていた。塀の上に乗せた事のある赤いドレスの人形だった。落し物が守ってくれたの?……でもなんで、私の部屋に有るのよ?
自分の足首を見ると歯型がくっきりと付いていた。恐怖に唇の震えが止まらない。部屋中を視線が泳ぐ。どこにも、おかしな所などない。
朝になった。シャワーを素早く浴びて仕事へと出掛ける。とにかく、この部屋から逃げ出したかった。朝まで、少し眠っては何かの気配を感じて目が覚めるのを繰り返した。だから鏡に映る自分の顔には深い隈(くま)が出来ていた。
別人だ。呪いってあるんだ。多分、明日香がアイツに何かをしたんだ。その復讐だ。でも、私にまで呪いが降りかかる。アイツは明日香だけじゃダメなのか。アイツ、満足してないの?
会社の赤い部屋で野菜の手入れをしている。ひたり。私の足に手が触れた。ギョッとして見ると、作業監督のアリスが不気味に目を見開いて笑っていた。狂ってる?
笑い声を静かに立てながら私の服を掴んで立ち上がる。そして、大きく口を開けて身動き出来ない私の喉笛に噛み付いた。
その瞬間。爆発音がしてアリスの頭は弾(はじ)け飛んだ。肉片が赤く黄色く白く鮮やかに見える。脳内で肉片が美しいと感じてしまうのが不思議だ。死とは美なのか。
ズルリと首の無い屍体が私の身体を引っ掻くように崩れ落ちる。
「大丈夫かね?」
ビルのオーナーだ。拳銃を持っている。初老の黒人男性だが頬には以前には無かった深い傷がある。
私は訳も分からず泣き崩れた。肉片が広がった室内で赤かった肉片が急に黒ずみ部屋が消えた。後で分かった事だが私は気を失っていた。
私は少しの痛みと背骨を登る快楽の波に目が覚めた。私は涙で最初は誰に抱かれているのか分からなかった。黒人のオーナーが全裸で私を責め立てていた。千切れた服を掴んでオーナーの顔に叩きつける。オーナーが両手で顔を庇いながらも腰を動かし続けていて、私はその度に痛みと甘さを感じた。感じたくないその甘さが嫌悪感に満ちて、自殺するかオーナーを殺すか、どちらかだと考える。
何度目かの放出された精だったのだろう。黒い身体を引き離して「すまなかった。でも、もう世界が終わるんだ。別にこれぐらいで泣かなくても良いだろ」と話した。
私は顔を覆って脚を閉じた。「世界が終わるって何?」
「君はアイツを知らないのか」皺(しわ)が出来た背広を着ながら言い、ビルのオーナーは赤い照明の部屋を出て行く。手にはアリスの頭を射抜いた銃を持って。私の横にはアリスの屍体があった。屍体は裸にされていた。
ドォン。
大きな衝撃にビルが揺れた。物凄い地震だ。植物が棚から落ちた。葉が剥き出しの胸を擦(こす)る。私は自身を抱きしめる。歯を食いしばったのに泣き叫ぶ自分が居た。乖離(かいり)と言うのだろうか。後頭部の辺りから、別の自分が、この世界を見ているようだった。
地震が、おさまった。クリーンルームを出て、ロッカーで新しい作業着を着る。ロッカーの近くには白人女性が倒れていた。胸の辺りから血が流れた痕(あと)がある。ビルの階段を降りて行くと明らかに銃殺された人物が大勢居た。殺したのは、オーナー?
一階に着いて外に出た。ガラスの破片が歩道の一面に落ちている。人の群れは広い場所へと向かっていた。私は何も考えずに人の群れに加わった。
歩きながらポケットに入っていたスマホを取り出す。何故か明日香の物だった。いつポケットに入れたのか記憶が無い。私は『RED SENSE』を開く。
なんで、ちょっとの浮気でアイツに殴られなきゃいけないのよ?……大体、浮気じゃないのよ。アイツに本気なわけないでしょ。
明日香は浮気をしたんだ。それで殴られたのか。それにしても脈絡の無い文体で明日香の心理状態がかなり悪かった事が十二分(じゅうにぶん)に分かる。
大体、私が近づいたのは、小学生の時に虐(いじ)めたアイツ、誠治が反逆して足に噛み付いて来たから、さらに、その復讐だったのよ。恋なんてしてなかったのに。アイツは小学生時代の私をスッカリ忘れてた。私は清楚な服装で別人になってたもんね。活発な感じのする服装なんて好みじゃなくなってたから。アイツが別人だと思ってる事に気づいて恋人になって、私の復讐は始まったの。まずは、お金を少しずつ巻きあげたわ。それがエスカレートしてもアイツは文句も言えなかった。だって私の事を愛してたから。男ってバカよね。
明日香は虐めた男子にやり返されて、その復讐をしたんだ。女が再会する時は奪おうと思ってるものよね。私の気持ちはピタリと明日香に重なる。あの黒人のビルのオーナー。どうやって仕返ししてやろうか?
骨が変形して手術を繰り返して、ようやく歩けるまで、6年。アイツに恨みが出来ても当たり前。そうよ。6年なの。小学校時代は普通には歩けなかった。足の事で虐められたりもした。トイレの便器に溜まった水で顔を洗えと命令されて洗ったり。嫌いな男子のモノを咥(くわ)えさせられたり。ライターの火を押し付けられたりもした。蹴ったり殴られたりは一番マシな虐めだった。こんなの全部アイツのせいだ。アイツが脚を動けなくしたからだ!
真奈美の心は明日香の言葉に染まっていく。まるでウィルスに感染していくように。
私は急に隣を歩くインド系の顔立ちの男性が美味しく見えた。性的な意味ではない。食べ物のように感じたのだ。私は喉に喰らいつく。血を全身に浴びながら肉を咀嚼(そしゃく)する。周りの人間は走って逃げた。四つん這いで食べ続けると性的陶酔にも似た快楽が脳天まで、はじけた。脳内が、ピンクがかった白い気持ち良さに満ちて、私は食べる。
気がつくと私はフラフラと歩いていた。さっき四つん這いで食べていた私の姿は妄想だったのか。しかし、服は血に汚れている。一体、何が現実なのか。
公園のトイレの洗面所で水を両手ですくって飲んだ。床には女性が倒れていて、やはり銃弾を浴びたようだった。オーナーだろう。いや、街中に銃を持った人間が溢れているのか。しかし、銃刀法違反で捕まらないものだろうか。それでも黒人オーナーは所持していたのだ。隠し持つ事は出来るだろう。
スマホの『RED SENSE』を読む。
内容はさらにエスカレートしていた。明日香はアイツと呼ばれる男性を男娼に仕立て上げた。毎日毎日、色んな女と寝る。電気的に洗脳する方法があったから出来たらしい。『ドラッグ&ドロップ』と呼ばれる電子機器をアイツのコメカミに付けて操る事が愉快でたまらなかった、と記されている。
アイツを使って金儲けをしたら噂を聴いたヤクザがそこに目を付けた。私から金を取ろうとして来た。バカな奴ら。私は『ドラッグ&ドロップ』でアイツを操って、ヤクザの事務所をぶっ潰した。ははは。私の敵に回る奴らは、こうなるんだよ!
犬の糞と小さな釘とヤバい薬を小瓶に詰めて瓶の口には丸めた紙を詰めて火を付ける。こんな物を大量に作って事務所に投げ入れるように命じた。それでも生き残った者は包丁で刺し殺すようにと。
真奈美は明日香の心が脳内に進入する事に耐え切れなくなった。スマホをトイレの大きな鏡に投げつけた。大きなヒビが入って、鏡には醜い自分の姿。荒い息を整えようとトイレの外に出る。
再び地震が襲った。立って居られない。地面に投げ出されて爪を立ててしがみつく。オオバコの葉が指の間から出ている。
近くの電灯が倒れた。叫んで身をすくめる。鳥の群れが急に空から落ちて来る。地震が電磁波を起こすのか、それとも他の何かが影響しているのか?
ドオオオ。
一瞬、余りにも大きな音で、水なのだとは気づかなかった。津波だ。あらゆる物を飲み込んで押し寄せる灰色の影。
真奈美が近くの建物の階段を全力疾走で登り、窓の外を見た。階下には灰色の海が広がっていた。
心臓が破れそうな思いで壁にもたれて目を閉じる。第5東京は消えるのだろうか。噴き出す汗を拭おうともせずに揺れが時折襲いかかるのにも構わずに目を閉じたまま動かずに居た。
灰色の世界に夕陽が見えた。黄金色に染まる世界。心と身体が落ち着いてきた。しかし、自分の右手を見て背筋が凍った。明日香のスマホがしっかりと握りしめられていたから。
アイツで儲けて私は今の旦那と出逢えた。金持ちの女に見せかけて付き合ったから。金持ちじゃないけど親が払ってくれるとか、競馬で儲けたとか、適当に言っておいた。けど、旦那は更に私の上をいっていた。騙されたのは私の方だ。子供が出来ると、私の預金通帳や印鑑を奪って全額引き出すと姿をくらました。ははは。悪い事は出来ないわね。男なんて、こんなものか。そう。男ってこんなものよ。
明日香の言葉に染まる前にスマホを手放す。ダメよ。明日香に取り憑かれちゃうから。
タンッ。
頭の上から物を叩いたような音が聞こえた。屋上だろうか?……ひょっとして銃声?
私は一歩ずつ階段を登る。途中、エレベーターに近づいて半開きの扉の中を覗(のぞ)くと、下まで空洞で、落ちれば命が無いとゾッとした。
ついに屋上だ。四つん這いの女性3人に囲まれてスーツの黒人男性が倒れて居た。近くには拳銃。顔を良く見るとビルのオーナーだった。
女性たちが動いた気がしたが、全て確認すると屍体だった。四つん這いのような状態のまま死んでいるのだった。それでも顔は屋上のコンクリートに突っ伏している。私は手すりに近づく。
屋上からは第5東京の死にゆく姿が見えた。東の方向を眺めるとこのビル以外にも幾つか建物は残っていたが、後は灰色の海が広がっていた。
雨がポツポツと降り始める。この灰色の海に飲まれて、人類の半分は冷たい水の中に居るのか。
冷たい水の中。頭の中にアイツの姿が蘇る。そして不思議な事にアイツが殺されたイメージが見えた。
ディスクグラインダーで喉を切られて殺されて屍体は竹藪から濁った川へと突き落とされる。その集団に指示を出していた女性が不気味に笑う。……明日香だ。それにしても竹藪なんてどこに有るんだろう?
明日香が抱きしめる子供は、何故かアイツの血を引いているように感じた。何故かアイツに似ている。気のせいか。
私はそんな夢を見ながらビルの屋上で倒れていたらしい。数人に抱き起こされた。レスキュー隊だろうか。衰弱した私に点滴を与えて素早く毛布で包む。積み込まれたヘリコプターは第5東京の西へと向かった。西は崩壊を免(まぬが)れていた。
医療センターだろう。病室で目覚めると全てが夢の出来事のように思えた。しかし、私の手の爪の間には人間の血が黒ずんで付着している。私は確実に人間の肉を食べていたのだ。これが呪いなのか自分の意思なのかは分からない。
病室で眠ると夢を見た。水死体や初老の黒人男性が私を半裸にして責め立てる夢だ。そして明日香は夢の中で私から金を請求した。私は泣きながら支払いを済ませる。いつ果てるともない夢から覚めると夜の病室には男性の臭いがした。私の身体が火照っているのに気づいて下着を確認する。白い粘液が付いている。
突然、病室の扉が閉められた。男性が笑う声がする。私は気分が悪くなり涙が出て来た。それでもベッドから降りて扉まで走った。廊下を歩いていく男性は医者の白衣を着ている。背後から駆け寄り、首に齧(かじ)りつく。
鮮血が、夜なのに、私の視界を赤く染めた。
(了)
あとがき。
真夏のホラーって事で。何の考えも無く書き上げました。ええ。自分ではホラー小説のつもりです。(汗笑)
……以前、Amebaブログで発表した、残酷なシーンのある僕の小説は「気持ち悪い」との評価を得ました。かなり、そんな感じの封印を解き放って書いた感じです。(大汗)
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