小説『カーテンふわり君が笑う』
徳村慎
ボロいギターは開放弦からオクターブ上の12フレットまで弾くとチューニングがズレて♭(フラット)している。チョーキングで正確な音を出した。
「いっつも、そうやって弾くやんね」クスクスと笑った海冬(みふゆ)。風が室内に入って僕たちの音楽とともに踊る。海冬の電子ピアノが風のようで波のようで。
カーテンが踊った。海冬の髪のようだ。今でも、この電子ピアノの前で弾いている気がする。髭を撫でてから煙草に火を点(つ)けた。ギターには埃(ほこり)が薄っすらと付いている。手に取ってEmを押さえた。錆びついて嫌がるような弦を無理に押さえる。このギターからは魂が抜けてしまったのだと思う。いや、抜けてしまったのは僕の方だろうか。ぼんやりしていると再び過去が思い浮かぶ。
「なんでなッ?」
別れを切り出す彼女に、つい声を荒げる。僕はギターを置いた。
「だから説明したやんか! 分かってくれへんのはアンタの方やん!」
都会へ行くと突然言い出した。田舎の人間関係がこじれて、もうここには居たくは無いのだと言う。……でも、じゃあ、僕は何だったんだよ?
にゃあ。黒い猫が部屋に入って来た。僕は過去の回想から今へと時間を移動する。Emで少し凹(へこ)んだ指先を見つめる。心だって凹むよな。お前は、どう思う?……と黒い猫に訊いたけど、僕の事など、どうでも良いとばかりに部屋を出て行く。猫は良いよな。自分本位でさ。
「自分本位やわ。なんで止めるん?」海冬は言って悔しそうに俯(うつむ)く。
「分かった。もう止めへん。好きなトコへ行けよ。僕の事は忘れてくれたらええから」メトロノームに触れた。気持ち良いパステルブルーだったのに、今は悲しみに満ちていた。
「なんで? 私の気持ち分かっとったら、そんな事言えへんやろッ!」海冬は不安定なんだ。こういう時には誰も彼女を止められない。止められない悔しさを僕は、いつも酒にぶつけた。……じゃあ、僕の事を、海冬は分かってんのかよ?
「なんで、あの時、止めてくれんかったん?」海冬の声は静かで小さくて消えそうなものに変わった。
「子どもの事か?」僕はカーテンが揺れていないのに気づく。今日は風が吹いていないのか。
「育てたら良かった」まるで空耳のような小さな声で語り終えた海冬。止めても、どうせ産まんかったやんか。今と変わらんよ。心の中で詰(なじ)って苦しむ。
足音が響いた。過去から現実に戻る。帰って来たんや!
黒猫が懐かしそうに、にゃあ、と鳴く。間違いない。海冬や!
「海冬ッ」
僕は部屋を飛び出す。
「叔父さん、まだ、恋煩いなん?……もう、いつまで、そんなんなんよ」中学生の姪っ子が呆れた顔で睨む。
「ジョークやて。アメリカン・ジョークやん」と僕は両手を広げて天を仰ぐフリをする。
「日本人やろッ」とツッコむ姪っ子。ポケットから何かを取り出して手渡してくる。
「ん?……コレ」
気付いた。
「そ。ギターの弦やで。叔父さんにあげるわ。いっつも弟と遊んでくれやるし」と言いながら、まとわりつく黒い猫の鼻先を触る。
ギターの弦を張り替えた。アイツ、エレキ弦買って来たんかよ。コレはアコースティックやのになァ。苦笑しながらも少し目が潤んだ。なんで今さらギターなんや。
それでも押さえたEmは手に馴染(なじ)んで。音は綺麗(きれい)に澄み渡る。これか。これでええんかも。涙の苦笑が身体の芯に震えを作った。
さあぁっ。
風がカーテンを舞い上げて。ふわりと僕のギターと踊った。
(了)
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