小説『緑の国の眠り姫』 | まことアート・夢日記

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まことアート・夢日記、こと徳村慎/とくまこのブログ日記。
夢日記、メタ認知、俳句モドキ、詩、小説、音楽日記、ドローイング、デジタルペイント、コラージュ、写真など。2012.1.6.にブログをはじめる。統合失調症はもう20年ぐらい通院している。

小説『緑の国の眠り姫』
徳村慎


大雨が降りしきり、海は荒れていた。僕の走る砂利の音が心臓とともに速く。彼女は、あと一歩で波に呑まれていた。抱きしめても、まだ、彼女は前に動こうとしていた。生きる意志よりも強いようだった。

これほどまでに英語が楽しかった事など無い。現国の授業は寝ていたから、日本語でさえ知らない僕が。恋ではなく師として尊敬する彼女に一歩でも近づきたくて。ネットで知り合って英語のメールをやりとりする日々が続いている。中学校で習った英単語ですら忘れて、辞書を引き引きたどたどしく綴る。それが、とっても楽しかった。

昔買ったCDの、歌詞カードを良く読むようになった。学生時代にこの情熱があれば、と苦笑する。「緑の溢れる国に住んでいるの」彼女の語る英語から風景をイメージする。「私の恋人になれるほど、あなたは強い人かしら」CDのシェリル・クロウが歌うから、僕は「いいえ、師として仰ぎます」と心の中で英語を綴る。

都会のパチンコ店で働く僕は、電子音と玉の音に塗(まみ)れている。人工的な空間は仕事さえも現実味を失わせた。彼女の住む熊野というのは自然の深い場所らしい。「何故アメリカ人が熊野に住むの?」と訊いたら「ここを私の故郷にしたいのよ」とちぐはぐに答えてくれた。

英語を教えてくれている先生の名前はラナ。彼女は精神症で脚が動かなくなっていた。いつも冗談ばかりだったのに、最近では不安と苦しみばかりの英語となった。

「生きる希望が失われたの」先生の言葉を聴いて僕は熊野に向かった。電車を乗り継ぎ遠い地へ。それでも僕は彼女の事を何も知らなかったんだ。逢える喜びばかりで僕の心は明るく染まっていたのだから。

最寄り駅から彼女の運転する車に乗って自宅へと向かう。明るく輝く黄金色の家並みにピンクの雲。夕焼けの街は美しい。その街から次第に森へと入って行く。黒い森は神秘的で木漏れ日が優しく包んでくれる。対向車線の無い田舎の山道を進むと、やがて美しいログハウスに似た家が見えた。

オレンジ色のフロアライトの灯る部屋に上がって、僕たちは明るく英語で会話した。お酒も進んで「もう心配無いよね?」と確認したら、彼女は目を伏せて微笑んだ。僕は解決したのだと思い込み、いつの間にかソファで眠ってしまっていた。

雨の音に目が覚めた。朝だった。玄関が開いていたのだ。お婆さんがやって来て大きな声で話す。耳が遠いのだろうか。

「何だか様子が変だったからのぅ。2、3日前から海の中で眠りたい、なんて冗談言っとったもんで。今日はちょいと様子見といたらなアカン思ぅて」

その言葉にハッとした。何日か前のメールにも書いてあった気がする。彼女は海へと行ったのか?

軽トラックに乗った近所のおじさんを呼び止めてラナ先生を見ていないか尋ねた。「おぅ。車に乗って、どこそ行きやったぞ。何や暗ぁい表情でのぉ。ワシも気になるさか、追いかけてみるか。まあ、乗れや」

雨はドンドン強くなる。僕たちの英語でのやりとりを聴いておじさんはため息を吐(つ)く。軽トラの中で煙草に火を点(つ)けて「間に合うんかの。間に合うとええんやけどのぉ」と焦り出した。

国道沿いに走って直ぐ、ラナ先生の車が見つかった。「間違いないわ。あのナンバーやわ」とおじさんは言った。「早(は)よぉ、ラナさんを見つけたりぃや。な。頼むわ」とおじさんと手分けして探す。雨は激しく海から霧が出ていた。大きな岩の向こうに人影が見えた気がした。気のせいだとも思ったが、僕は駆けた。

大雨が降りしきり、僕のシャツは、たちまち濡れた。海は荒れていた。渦巻き打ち寄せる波の近くで確かに人が歩いていた。一歩ずつ波へと近づく人物へと僕は走る。僕の走る砂利の音が心臓とともに速く。さらに速く。もっと速く。

「行っちゃダメだよッ」
あと一歩で荒れる海に呑まれていた。波打ち際で抱きしめても、まだ、彼女は前に動こうとしている。生きる意志よりも強いようだった。

涙を流して抱きしめたまま喚(わめ)き続ける僕に彼女は微笑んだ。僕も訳の分からない事を喚いていた「もっと英語を教えてよ!」なんて。今、考えれば、全く説得力の無い言葉だ。でも、真剣さは伝わっただろう。彼女は僕を抱きしめ返した。

精神を落ち着かせる薬を飲んでベッドでぐっすり眠る彼女の手を握って語りかけた。「ラナ先生は独りじゃないんだよ」って。

軽トラックに乗せてくれたおじさんが僕に声をかける。「ほいじゃ、もう行くさかな。食べ物も買(こ)うといたもんで、好きに食べぇよ」

「ありがとうございました」と僕が言えば、「ええから、気にせんでええ」とおじさんは手を軽く振って軽トラへと向かった。

またオレンジ色の部屋になった。この部屋も1日で随分色が変わるんだな。現実感が無いけれど、彼女の手を握るたびに僕が生きている事に気づかされた。

翌朝、まだ眠る彼女を部屋に残して、隣のお婆さんの畑に行った。「都会じゃ見た事無いやろぉ。こんなんが畑じゃわ」とお婆さんは笑う。お婆さんと一緒に採れたてのキュウリを彼女の家で食べた。少しの酢味噌が本当にキュウリの旨さを引き立てていて。これが本物の味だと知った。田舎の味わいの中には素晴らしい現実感が存在した。

電車に乗って都会へと帰る。電車が家に近くなってからメールが入った。謝り、感謝を伝える、彼女の英語が可愛く感じる。僕は音楽の鳴るイヤホンを外した。また、英語を勉強出来ると思ったら、笑みが自然とこぼれた。

次は緑の国の眠り姫に、上達したところを見せてやるんだ。

僕の乗る電車は駅のホームへと入って行く。僕は進行方向を少し見つめた。夕陽に染まるホームが幸せの国のようにも見えた。

(了)











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