小説『ウエハースと桜の茶』
徳村慎
静かに読書するこの男が、数時間前に殺人を犯したなんて、誰も気付くことなどない。
小雨が優しく春のカフェを包み、ネットや会話に興じる午後が、暖(あたた)かに緩(ゆる)やかに流れていく。
歯に心地良く砕けるウエハース。桜の茶を飲んで喉を潤(うるお)して、男は外の雨を見つめた。
後悔の焦りも哀しみもなく、怒りを殺しているでもなく。むしろ微笑(ほほえ)みで少しの幸福を、噛み締めているように思われる。
何人目なんだと男は自問して、何人でも良いのだと自分で答える。見つからないならば歩けば良い。まだぬくもりが浮かんでくる。優しい香りが思い出せる。本のページを弄び、読むでもなく捲(めく)っては戻した。
少女の面影(おもかげ)の残る店員が、この常連の男に声をかける。雨が続くみたいですね、ちょっと憂鬱になりますね。男は店員が苦手だったので、笑ってごまかそうとした。店員が自分に恋心を、抱いているのは分かっている。それでもこの人とは距離を保ちたい。初恋の少女に瓜二つなのだから。
雨は隠してくれるけどね、醜い僕の心でもね。視線を合わせて男は笑った。
笑って気取り過ぎないように、心を配っているんですね。店員も笑い返して嬉しそうに、くるりと回って別の席へ行く。
これで良いのだと目を伏せたら、雨は上がりかけていた。
目を開くと明るい光、雲間から太陽が見えている。こんな僕でも光を与える、自由の翼を授けてくれる、神に恩返しをするならば。
……罪を認めて告白しようと、警察に電話をかけていた。電話の向こうに友人が出てくれれば良いと願う。店の外に出て、初恋の少女も結婚したのか、尋ねたいとも考えた。
罰は失われた心。罪深い僕に、少年時代のような美しくはずんだ心は、失われたまま。
(了)
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