[隋:開皇九年 陳:禎明三年]


┃江州降る

 癸巳(正月29日)、隋が使者を江南の各地に派して巡撫させた。

 隋の〔上大将軍・蘄州総管の〕王世積は蘄口にて陳が滅亡した事を聞くと、江州(湓城)の諸郡に書簡を送ってこれを伝えて説得すると共に、千金公の権如璋王世積伝では『始璋』。北周の荊州総管の権景宣の長子)に江州を攻略させた。驃騎将軍・武遂県公の史祥が先鋒となって陳軍と合戦して撃破すると、陳の江州司馬の黄偲は城を棄てて遁走し、如璋は江州城に〔無血〕入城した。
 隋の文帝はこれを聞くと大いに喜び、祥に詔を下して言った。
「朕は陳氏が代々帝号を僭称し、人民を虐げているのを〔看過できず、〕諸軍を発して彼の人民を塗炭の苦しみから救い出すよう命じた。すると小賊は慌てふためき、江湖の険を頼みに、無謀にも長江に軍船を浮かべて官軍に抵抗した。しかし、公は自ら部隊を率いると、機を捉えてこれを撃破し、賊を沈め、捕らえ、非常な功績を立てた。また、更に江州も陥としたとも聞いた。〔先日、〕行軍総管・襄邑公の賀若弼が京口(陳の南徐州)を陥とすと、次いで新義公の韓擒虎が姑熟(陳の南豫州)を陥とし〔たものだったが(→589年〈1〉参照)〕、驃騎(史祥)も〔これに負けず、〕長江を渡ると縦横無尽に進撃した。〔また、〕晋王()の軍も建業(建康)に入城し、呉・越(会稽)の地が掃討されるのも時間の問題となっている。驃騎の優れた才能と勇ましい志は朕の良く知る所である。〔驃騎は思う存分これを発揮して〕江南を攻略し、大いに褒賞を得て、名声と富貴が永く後世に語り継がれるようにせよ。」

 史祥は字を世休といい、北周の少司徒〔・荊州刺史・武平県公〕の史寧の子である。若年の頃から文武に才能を示し、北周に仕えて太子車右中士とされ、父の爵位の武遂(平?)県公を継いだ。隋が建国されると儀同・領交州事・陽城郡公とされ、州にて非常に思いやりのある政治を行なった。数年後、驃騎将軍(四品。北周で開府と共に加官されていた驃騎大将軍から大が取れたもの)とされた。

 世積がこれに続いて江州城に到ると、陳の豫章太守の徐璒、廬陵太守の蕭廉・潯()陽太守の陸仲容・巴山太守の王誦・太原太守の馬頲・斉昌太守の黄正始・安成太守の任瓘らと鄱陽・臨川の守将はみな世積に降った(詳細な時期は不明)。

 隋は鄱陽に饒州を、臨川に撫州、廬陵に吉州、宜春に袁州を置いた。また、豫章に洪州と総管府を置いた。

○隋文帝紀
 正月…癸巳,遣使持節巡撫之。
○隋地理志
 鄱陽郡…平陳,置饒州。臨川郡平陳,置撫州。廬陵郡平陳,置吉州。宜春郡平陳,置袁州。豫章郡平陳,置洪州總管府。
○周28権景宣伝
 權景宣…進爵千金郡公…子如璋嗣。位至開府、膠州刺史。
○隋40王世積伝
 平陳之役,以舟師自蘄水趣九江,與陳將紀瑱戰於蘄口,大破之。既而晉王廣已平丹陽,世積於是移書告諭,遣千金公權始璋略取新蔡。陳江州司馬黃偲棄城而遁,始璋入據其城。世積繼至,陳豫章太守徐璒、廬陵太守蕭廉、潯陽太守陸仲容、巴山太守王誦、太原太守馬頲、齊昌太守黃正始、安成太守任瓘等,及鄱陽、臨川守將,並詣世積降。以功進位柱國、荊州總管,賜絹五千段,加之寶帶,邑三千戶。
○隋55高勱伝
 及大舉伐陳,以勱為行軍總管,從宜陽公王世積下陳江州。以功拜上開府,賜物三千段。
○隋63史祥伝
 史祥字世休,朔方人也。父寧,周少司徒。祥少有文武才幹,仕周太子車右中士,襲爵武遂縣公。高祖踐阼,拜儀同,領交州事,進爵陽城郡公。祥在州頗有惠政。後數年,轉驃騎將軍。伐陳之役,從宜陽公王世積,以舟師出九江道,先鋒與陳人合戰,破之,進拔江州。上聞而大悅,下詔曰:「朕以陳叔寶世為僭逆,挻虐生民,故命諸軍救彼塗炭。小寇狼狽,顧恃江湖之險,遂敢汎舟楫,擬抗王師。公親率所部,應機奮擊,沉溺俘獲,厥功甚茂。又聞帥旅進取江州。行軍總管、襄邑公賀若弼既獲京口,新義公韓擒尋剋姑熟。驃騎既渡江岸,所在橫行。晉王兵馬即入建業,清蕩吳、越,旦夕非遠。驃騎高才壯志,是朕所知,善為經略,以取大賞,使富貴功名永垂竹帛也。」進位上開府。
○隋65李景伝
 李景字道興,天水休官人也。父超,周應、戎二州刺史。景容貌奇偉。膂力過人,美鬚髯,驍勇善射。平齊之役,頗有力焉,授儀同三司。以平尉迥,進位開府,賜爵平寇縣公,邑千五百戶。開皇九年,以行軍總管從王世積伐陳,陷陣有功,進位上開府,賜奴婢六十口,物千五百段。

 ⑴王世積…北周の開府・夏州刺史の王雅の子。堂々たる体躯をしていて腰回りは十囲ほどもあり、風格並み外れ、人傑の姿をしていた。北周の代に戦功を立てて上儀同・長子県公とされた。隋の文帝が丞相となり、尉遅迥が挙兵すると韋孝寛の指揮のもとでどの戦いでも功を立て、上大将軍とされた。隋が建国されると宜陽郡公とされた。高熲に才能を気に入られ、非常に親しく交際した。ある時、世積は密かに熲に「我らは共に周の臣である。国が滅んだ今、いったいどうするつもりか?」と言ったが、無視された。間もなく蘄州総管とされた。陳討伐の際には蘄春より江州攻略に向かい、陳将の紀瑱を蘄口にて大破した。589年(2)参照。
 ⑵権景宣…字は暉遠。軍略に優れ、主に東南方面にて活躍した。のち、その軍事を一任された。のち、基鄀硤平四州五防諸軍事・江陵防主とされ、大将軍に任ぜられた。564年、洛陽攻めに連動して豫州を攻め、降伏させた。566年、荊州総管・十七州諸軍事・荊州刺史とされた。優秀な指揮官だったが、高官の地位に就くと驕り高ぶって賄賂を貪るようになり、指揮もでたらめになって命令がころころと変わるようになった。567年、陳の湘州刺史の華皎が北周に降ってくると、これを救援し、討伐しに来た陳軍と沌口にて戦ったが大敗を喫した。間もなく病死した。567年(3)参照。
 ⑶江州…王世積伝では『新蔡』とある。新蔡は江州の北にあり、建康陥落前に魯世真らが降った事で既に隋のものとなっているはずである。また、ここに江州司馬がいるのもおかしい。よって今江州に改めた。
 ⑷隋の文帝…楊堅。普六茹堅。幼名は那羅延。生年541、時に49歳。隋の初代皇帝。在位581~。父は故・隨国公の楊忠。母は呂苦桃。妻は独孤伽羅。落ち着いていて威厳があった。若い頃は不良で、書物に詳しくなかった。振る舞いはもっさりとしていたが、優れた頭脳を有した。宇文泰に「この子の容姿は並外れている」と評され、名観相家の趙昭に「天下の君主になるべきお方だが、天下を取るには必ず大規模な誅殺を行なわないといけない」と評された。また、非常な孝行者だった。晋公護と距離を置き、憎まれた。568年に父が死ぬと跡を継いで隨国公とされた。573年、長女が太子贇(のちの宣帝)に嫁いだ。575年の北斉討伐の際には水軍三万を率いて北斉軍を河橋に破った。576年の北斉討伐の際には右三軍総管とされた。577年、任城王湝と広寧王孝珩が鄴に侵攻すると、斉王憲と共にこれを討伐した。のち定州総管とされた。577年、南兗州(亳州)総管とされた。578年、宣帝が即位すると舅ということで上柱国・大司馬とされた。579年、大後丞→大前疑とされた。580年、揚州総管とされたが、足の病気のため長安に留まった。間もなく天元帝が亡くなるとその寵臣の鄭訳らに擁立され、左大丞相となった。間もなく尉遅迥の挙兵に遭ったが、わずか68日で平定に成功した。間もなく大丞相とされた。581年、禅譲を受けて隋を建国した。583年、大興に遷都し、北伐を行なって突厥を大破した。また、天下の諸郡を廃した。585年、功臣の王誼を自殺させた。義倉を設置した。突厥の沙鉢略可汗を臣従させた。587年、後梁を滅ぼした。588年、陳討伐の軍を起こし、589年、建康を陥とした。589年(3)参照。
 ⑸史寧…字は永和。?~563。撫冥鎮の人。533年、賀抜勝が荊州刺史とされるとその軍司とされて随行した。534年、勝と共に梁に亡命した。536年、華北に戻って西魏に仕え、行涇州事として莫折後熾の乱を平定し、次いで東義州刺史を務めた。546~550年に涼州刺史とされると宇文仲和の乱・宕昌の乱を平定した。のち河陽の鎮守を任されたが、552年、再び涼州刺史とされた。553年、大将軍とされた。また、専断権を与えられた。556年、突厥と共に吐谷渾を討伐した際、連戦連勝し、突厥の人々から「中国の神智の人」と賞賛された。北周が建国されると小司徒とされた。のち荊州刺史とされ、王琳が東下している隙を突いて郢州を攻めたが陥とせなかった。荊州では蓄財に耽り不法行為を繰り返して名声を大いに落とした。560年(1)参照。
 ⑹交州…隋書地理志曰く、『隴西郡長川県に北魏は安陽郡を置き、西魏は北秦州を置き、のち交州に改めた。』《読史方輿紀要》曰く、『長川城は秦州(天水)の西北九十里→秦安県の西北にある。』
 ⑺太原…《読史方輿紀要》曰く、『太原城は九江府(江州)の東百二十里→彭沢県の東北五十里にある。』
 ⑻斉昌…《読史方輿紀要》曰く、『黄州府(武昌の北岸)の東南百十里にある。梁の斉昌郡蘄水県で、北斉はここに斉昌県と羅州を置き、北周は蘄州を置いた。』ここでは恐らく南斉昌(斉昌直近の長江南岸?にある僑郡)か?

┃上江皆平らぐ

〔これより前(588年12月頃)、隋の山南道(或いは漢東道)行軍元帥の秦王俊は諸軍を率いて漢口に進軍し、陳の都督巴峡縁江諸軍事の周羅睺と前都督郢巴武三州諸軍事・郢州刺史の荀法尚と月を跨いで対峙していた(→588年〈3〉参照)。
 また、巴州(巴陵)では荊州(公安)刺史の宜黄侯慧紀が前湘州(長沙)刺史の晋熙王叔文と合流し、楊素軍と対峙していた。〕

 のち、建康が陥落すると(正月20日参照)、隋の行軍元帥の晋王広陳叔宝後主に書簡を書かせてこれを樊毅と慧紀の子の陳正業に持たせ、毅を羅睺のもとに、正業を慧紀のもとにそれぞれ派遣し、降伏を促した。
 羅睺は書簡を受け取ると荀法尚ら諸将と共に三日間哀悼の儀式を行なったのち、軍を解散して投降した。

 慧紀と叔文・巴州刺史の畢宝らも書簡を受け取るとみな慟哭した。叔文は書簡を秦王俊に送って言った。
「愚考いたしますに、天に二つの太陽は無く、太陽とそれ以外には厳然たる序列があり、地に二人の王はおらず、王とそれ以外には必ず区別が存在します。天下が統一された今、〔もはや抵抗する理由はございません。〕僭越ながら赤誠を披露し、投降を申し出ます。」
 俊は書簡を受け取ると行軍吏部〔でもと後梁の臣の〕の柳荘と行軍元帥府の幕僚たちを巴州に赴かせ、叔文を出迎えさせた。叔文らが文武官を引き連れて漢口に赴くと、俊は喜んで手厚くもてなし、賓館に住まわせた。
 また、陳の魯山(郢州の西岸)城主の誕法澄・鄧沙弥らも投降を申し出た。俊は于仲文(11)にその受け入れをさせた。

 秦王俊は使者を首都の大興(もと長安)に派してこの事を報告した。この時、俊は使者に泣きながらこう言った。
「私は器でないのに高官とされ、いつもわずかな功すら立てられていない事を恥じていたが、今回も結局恥の上塗りになっただけであった。」
 文帝はこれを聞くとその殊勝な心がけを褒め称えた。
 
 楊素は長江を下って漢口に到り、俊と合流した(詳細な時期は不明)。

 隋は江夏に鄂州を、巴陵に岳州を置いた。

○隋地理志
 江夏郡 舊置郢州。…平陳,改置鄂州。巴陵郡 梁置巴州。平陳,改曰岳州。
○隋45秦孝王俊伝
 羅睺亦相率而降。於是遣使奉章詣闕,垂泣謂使者曰:「謬當推轂,愧無尺寸之功,以此多慚耳。」上聞而善之。
○隋48楊素伝
 湘州刺史、岳陽王陳叔慎遣使請降。素下至漢口,與秦孝王會。
○隋60于仲文伝
 陳郢州刺史荀法尚、魯山城主誕法澄、鄧沙彌等請降,秦王俊皆令仲文以兵納之。
○陳15陳慧紀伝
 至漢口,為秦王軍所拒,不得進,〔聞肅敗,盡燒公安之儲,偽引兵東下,因推湘州刺史晉熙王叔文為盟主。水軍都督周羅㬋與郢州刺史荀法尚守江夏。及建鄴平,隋晉王廣遣一使以慧紀子正業來喻,又使樊毅喻羅㬋,其上流城戍悉解甲。〕因(於是)〔慧紀〕與湘州刺史晉熙王叔文、巴州刺史畢寶等〔並慟哭俱〕請降。
○陳28晋熙王叔文伝
 禎明二年,秩滿,徵為侍中、宣毅將軍,佐史如故。未還,而隋軍濟江,破臺城,隋漢東道行軍元帥秦王至于漢口。時叔文自湘州還朝,至巴州,乃率巴州刺史畢寶等請降,致書於秦王曰:「竊以天無二日,晦明之序不差,土無二王,尊卑之位乃別。今車書混壹,文軌大同,敢披丹款,申其屈膝。」秦王得書,因遣行軍吏部柳莊與元帥府僚屬等往巴州迎勞叔文。叔文於是與畢寶、荊州刺史陳紀及文武將吏赴于漢口,秦王竝厚待之,置于賓館。
○陳28岳陽王叔慎伝
 三年,隋師濟江,破臺城,前刺史晉熙王叔文還至巴州,與巴州刺史畢寶、荊州刺史陳紀竝降。
○隋65周羅睺伝
 晉王廣之伐陳也,都督巴峽緣江諸軍事,以拒秦王俊,軍不得渡,相持踰月。遇丹陽陷,陳主被擒,上江猶不下,晉王廣遣陳主手書命之,羅睺與諸將大臨三日,放兵士散,然後廼降。
○陳13荀法尚伝
 禎明中,為都督郢巴武三州諸軍事、郢州刺史。及隋軍濟江,法尚降于漢東道元帥秦王。

 ⑴秦王俊…楊俊。字は阿祗。生年571、時に19歳。隋の文帝の第三子。母は独孤伽羅。優しい性格で、出家を希望するほど仏教を篤く信じた。隋が建国されると秦王とされた。582年、上柱国・洛州刺史・河南道行台尚書令とされた。間もなく右武衛大将軍を加えられ、関東の兵を統轄した。583年、秦州総管とされ、隴右諸州を全て管轄した。584年、崔弘度の妹を妃に迎えた。586年、山南道行台尚書令とされた。588年、山南道行軍元帥とされ、陳の郢州攻略に赴いたが、熱心な仏教信者だったため戦う事ができず、月を跨いで睨み合うだけに終わった。588年(3)参照。
 ⑵周羅睺…字は公布。生年542、時に48歳。九江尋陽の人。父は梁の南康内史。騎・射を得意とし、狩猟を好み、義侠心があって気ままに振る舞い、逃亡者を集めて私兵とし、密かに兵法を勉強した。従祖父に戒められても品行を改めなかった。陳の宣帝の時に軍功を挙げて開遠将軍・句容令とされた。のち北伐に参加し、広陵戦で流れ矢によって左目を失った。575年、北斉軍が明徹を宿預に包囲した時、敵陣に突進して斉兵を次々と蹴散らし、蕭摩訶に武勇を認められて副将とされた。577年、徐州にて北周の梁士彦と戦った際、落馬した摩訶を重囲から救い出した。578年、呉明徹が大敗を喫した際、軍を全うして帰った。579年、都督霍州諸軍事とされ、山賊を平定し、右軍将軍とされた。のち総管検校揚州内外諸軍事とされた。金銀を与えられると全て部下たちに分け与えた。のち晋陵太守→太僕卿とされた。北周が乱れると呉州に侵攻したが撃退された。581年、隋の胡墅を攻め陥とした。のち雄信将軍・都督豫章十郡諸軍事・豫章内史とされた。至徳年間(583~586)に都督南州諸軍事とされた。この時、讒言されて立場が不安定になり、ある者に叛乱を勧められたが拒否した。のち、建康に帰還すると太子左衛率とされ、信任はいっそう厚いものとなった。ある時、帝に「周左率は武将であるのに、いつも文士よりも先に詩を完成させる。文士たちはどうして左率の後になるのだ?」と言われ、孔範に「周羅睺は作詩も戦闘も他者に引けを取りません」と言われた。のち督湘州諸軍事とされ、帰ると散騎常侍とされた。588年、峡口に駐屯し、隋の峡州に侵攻した。隋軍が大挙侵攻してくると漢口にて秦王俊の軍と対峙した。588年(3)参照。
 ⑶荀法尚…陳の合州刺史・興寧県侯の荀朗の子。若年の頃から才気に溢れ、文武に優れた。出仕して江寧令とされ、興寧県侯の爵位を継いだ。太建五年(573)、呉明徹の北伐に参加した。間もなく涇令や梁・安城太守を歴任した。禎明年間(587~589)に都督郢巴武三州諸軍事・郢州刺史とされた。588年、隋軍が大挙侵攻してくると漢口にて秦王俊の軍と対峙した。588年(3)参照。
 ⑷宜黄侯慧紀…陳慧紀。字は元方。武帝(陳覇先)の従孫。読書家で、自分の才能に自信を持っていた。陳覇先の侯景討伐に従軍し、間もなく一部隊の指揮を任された。覇先が即位すると宜黄県侯・黄門侍郎とされ、文帝が即位すると安吉県令とされた。のち、海路から陳宝応を攻めた。567年、宣遠将軍・豊州刺史とされた。570年、水軍都督とされて青泥にある北周と後梁の艦船を焼き払った。578年、呉明徹が敗れると縁江都督・兗州刺史とされた。北周が淮南を攻めると海路を通って建康に逃げ帰った。580年、前軍都督とされて広陵を攻めた。のち宣毅将軍・都督郢巴二州諸軍事・郢州刺史とされた(詳細な時期は不明)。582年、溳口を守備したが、隋軍に撃退された。585年、雲麾将軍(四品)・都督荊信二州諸軍事・荊州(公安)刺史とされた。587年、後梁が滅ぶと兵を出して安平王巖らの亡命を受け入れた。隋軍が大挙侵攻してくると巴州にて抵抗した。589年(2)参照。
 ⑸晋熙王叔文…字は子才。宣帝(後主の父)の第十二子。後主の異母弟。母は袁昭容。軽率・陰険・見栄っ張りな性格だったが、非常な読書家という一面もあった。575年に晋熙王とされた。582年、宣恵将軍(四品)・丹陽尹とされた。583年正月~2月、軽車将軍(五品)・揚州刺史とされた。4月、江州(湓城。建康の西南)刺史とされた。584年、信威将軍(四品)・督湘衡武桂四州諸軍事・湘州刺史とされた。588年、任期満了で建康に帰還中に隋の侵攻に遭った。584年(2)参照。
 ⑹楊素…字は処道。生年544、時に46歳。名門弘農楊氏の出で、故・汾州刺史の楊敷の子。若年の頃から豪放な性格で細かいことにこだわらず、大志を抱いていた。西魏の尚書僕射の楊寛に「傑出した才器の持ち主」と評された。多くの書物を読み漁り、文才を有し、達筆で、風占いに非常な関心を持った。髭が美しく、英傑の風貌をしていた。 北周の大冢宰の晋公護に登用されて中外府記室とされた。武帝が親政を始めると死を顧みずに父への追贈を強く求め、許された。のち儀同とされた。詔書の作成を命じられると、たちまちの内に書き上げ、しかも文章も内容も両方素晴らしい出来だったため、帝から絶賛を受けた。575年の北斉討伐の際には志願して先鋒となった。576年に斉王憲が殿軍を務めた際、奮戦した。578年、王軌に従って呉明徹を大破し、治東楚州事とされた。のち陳の清口城を陥とした。楊堅が実権を握るとこれに取り入り、汴州刺史とされたが、滎州刺史の邵公冑の挙兵に遭って進めなくなり、そこで大将軍・行軍総管とされて討伐を命ぜられ、平定に成功した。のち柱国・徐州総管・清河郡公とされ、隋が建国されると上柱国とされた。のち新律の制定に携わった。584年、御史大夫とされ、王誼を弾劾した。のち妻の鄭氏と喧嘩した際に「私がもし天子になったら、そなたに皇后は絶対に務まらぬだろうな!」と言ってしまい、免官に遭った。585年、復帰を許されて信州総管とされ、大規模な艦船建造を行なって陳討伐に備えた。588年、行軍元帥とされて陳討伐に赴き、狼尾灘を夜襲で突破した。次いで馬鞍山や延洲にて呂忠粛を大破し、信州・荊州の攻略に成功した。589年(2)参照。
 ⑺晋王広…楊広。別名は英、幼名は阿〔麻+女〕。生年569、時に21歳。隋の文帝の第二子。母は独孤伽羅。美男で幼少の頃から利発で、学問を好み、文才に優れ、落ち着いていて威厳があり、上辺を飾るのが上手かったので、両親から特に可愛がられ、官民からも将来を期待された。北周の代に父の勲功によって雁門郡公とされた。帝が即位すると晋王・并州総管とされた。582年、上柱国・河北道行台尚書令とされた。目付役の王韶を恐れはばかり、常に可否を尋ねてから行動した。韶の出張中に壮大な庭園を作ろうとしたが、帰ってきた韶に諌められると非を認めて工事を中止した。また、後梁の明帝の娘を妃とした。584年、突厥が和平を求めてくると、弱っているのに乗じて攻め込むよう進言したが、聞き入れられなかった。文帝が蘭陵公主の再婚先を探した時、自分の妃の弟の後梁の義安王瑒に嫁がせるよう進言し、聞き入れられた。585年、沙鉢略可汗の救援に当たった。586年、雍州牧とされた。588年、淮南道行台尚書令・行軍元帥とされ、陳討伐の総指揮官とされた。建康が陥落すると戦後処理に赴き、五人の佞臣を誅殺し、図書を接収し、財宝には一切手を出さなかったため絶賛を受けた。589年(3)参照。
 ⑻陳叔宝…もと陳の後主。字は元秀。幼名は黄奴。宣帝の嫡長子。母は柳敬言。生年553、時に37歳。在位582~。細部まで技巧が凝らされた詩文を愛した。554年、西魏が江陵が陥とした際に父と共に長安に連行され、父の帰国後も人質として北周国内に留められた。562年、帰国を許され、安成王世子に立てられた。569年、父が即位して宣帝となると太子とされた。のち周弘正から論語と孝経の講義を受けた。582年、宣帝が死ぬと棺の前で弟の叔陵に斬られて重傷を負い、即位後も暫く政治を執る事ができなかった。傷が癒えたのちは弟の叔堅や毛喜を排斥し、『狎客』と呼ばれる側近たちを重用した。自分の過失を人に聞かれるのを嫌い、そのつど孔範に美化した文章を書かせて誤魔化そうとした。また、僭越な振る舞いが多かった陳暄を逆さ吊りにして刃を突きつけたり、もぐさの帽子をかぶせて火をつけたりした。隋と和平を結ぶと外難から解放されて羽目を外し、酒色に溺れ、政務を執る時以外は殆ど宴席に身を置いた。584年、臨春・結綺 ・望仙の三閣を建てた。音楽を愛好し、《玉樹後庭花》などの新曲を作製した。585年頃、直言の士の傅縡を誅殺した。587年、後梁の亡命者を受け入れた。また、直言した章華を誅殺した。588年、太子胤を廃して始安王淵を新たに太子とした。隋が侵攻した際、施文慶らの言を信じて警戒を怠った。隋軍が宮城に迫ると張貴妃・孔貴嬪と共に井戸の中に逃げ隠れたが発見され捕らえられた。589年(3)参照。
 ⑼樊毅…字は智烈。樊文熾の子で、樊文皎の甥。武芸に優れ、弓技に長けた。陸納の乱の際には巴陵の防衛に活躍した。江陵が西魏に攻められると救援に赴いたが捕らえられ、後梁の臣下となった。556年に梁の武州を攻めて刺史の衡陽王護を殺害したが、王琳の討伐を受けて捕らえられた。その後は琳に従った。560年、王琳が敗れると陳に降った。のち荊州攻略に加わり、次第に昇進して武州刺史とされた。569年、豊州(福建省東部)刺史とされた。のち左衛将軍とされた。573年、北伐に参加し、大峴山にて高景安の軍を大破した。また、広陵の楚子城を陥とし、寿陽の救援に来た援軍も撃破した。また、済陰城を陥とした。575年、潼州・下邳・高柵など六城を陥とした。578年、朱沛清口上至荊山縁淮諸軍事とされ、淮東の地の軍事を任された。清口に城を築いて北周と戦ったが撃退された。のち中領軍とされた。北周が淮南に攻めてくると都督北討諸軍事とされた。のち都督荊郢巴武四州水陸諸軍事とされ、580年、司馬消難が帰順してくると督沔漢諸軍事とされた。581年、中護軍→護軍→荊州刺史とされた。後主が即位すると征西将軍とされた。585年、中央に呼ばれて侍中・護軍将軍とされた。588年、隋の侵攻を察知すると京口と採石の防備を固めるように進言したが聞き入れられなかった。隋軍が建康に迫ると下流大都督とされた。間もなく白土岡の決戦に参加した。589年(3)参照。
 ⑽柳荘…字は思敬。名門の河東柳氏の出。父は後梁→北周に仕えた柳遐。若年の頃から深い才気・度量を有し、広く書物を読み漁り、弁舌の才能に優れた。蔡大宝に「襄陽に水鏡(後漢末の司馬徽の号)が再び現れた」と絶賛され、娘との結婚を許された。間もなく梁の岳陽王詧(のちの後梁の宣帝)に招かれて参軍とされ、のち法曹参軍とされた。詧が即位して後梁の宣帝となると中書舍人とされ、のち給事黄門侍郎・吏部郎中・鴻臚卿を歴任した。のち、楊堅(のちの隋の文帝)が北周の宰相となると使者としてそのもとに赴き、堅の依頼に応えて後梁を尉遅迥ではなく楊堅側に付かせることに成功した。隋が建国されると文帝に労をねぎらわれた。582年、隋の晋王広と後梁の明帝の娘の縁組の仲介役を務めた。靖帝が即位すると太府卿とされた。587年、後梁が滅びると隋に仕えて開府とされ、間もなく給事黄門侍郎(門下省次官)とされた。有職故実に詳しいだけでなく政治にも熟達し、政策に対する反論の大体が文帝の称賛を受けた。蘇威に「江南人で学識と事務能力の両方を兼ね備えているのは柳荘くらいしかいない」と評され、高熲にも非常に手厚くもてなされた。587年(2)参照。
 (11)于仲文…万紐于仲文。字は次武。生年545、時に45歳。太傅・柱国・燕国公の万紐于謹(于謹)の孫で、上柱国・燕国公の万紐于寔(于寔)の子。若年の頃から聡明で、父に「きっと我が一族を栄えさせてくれるだろう」と評された。九歲の時に宇文泰に「本を読むのが好きだと聞いているが、本にはどんな事が書いてあるのかな?」と問われると、「忠孝の一事のみであります」と答えて感嘆を受けた。のち《周易》・《三礼》の授業を受け、その大義に通じた。成長すると非凡な風格の青年に育ち、人々から『名公子』と呼ばれた。安固太守とされると、牛がどちらの家の物か当てる名裁きを見せた。また、権力者の宇文護の党人を捕らえる豪胆さも示し、「明断無双は于公(仲文)に有り、不避強禦(権勢家)は次武(仲文)に有り」と評された。間もなく中央に呼ばれて御正下大夫・延寿郡公とされた。のち、数々の征伐に参加して勲功を立て、儀同三司とされた。宣帝(天元帝)の時、東郡太守とされた。迥が挙兵すると普六茹堅に付き、敗れると長安に遁走し、家族を皆殺しにされた。間もなく大将軍・河南道行軍総管とされ、洛陽に赴いて檀讓を討伐するよう命ぜられ、平定に成功した。その途中、宇文忻を説得して安堵させた。功により柱国・河南道大行台とされたが、禅定の時期と重なったため赴任しなかった。のち叔父の于翼が疑われて捕らえられると弁護して解放させる事に成功した。のち行軍元帥とされて突厥を攻撃した。のち尚書省の多くの問題を摘発し、帝に明断ぶりを褒め称えられた。584年、広通渠の工事の監督を行なった。588~589年の伐陳の際には基州(章山。江陵の東北)より討伐に赴いた。588年(2)参照。

┃三呉平定

〔これより前、陳は後梁から亡命してきた蕭巖を平東将軍(三品)・開府儀同三司・東揚州(会稽)刺史とし、蕭瓛を安東将軍(三品)・侍中・呉州(呉郡)刺史としていた。〕
 瓛は非常に良く州民の心を摑んだ。三呉(呉郡・呉興・会稽)の地の父老は口々にこう言った。
「〔さすが〕我が君(梁の武帝?)の子〔孫〕である。」
 陳の後主陳叔宝)が捕らえられると、呉人は瓛を君主に戴いた。呉人は梁の武帝・簡文帝・後梁の宣帝・明帝らがみな第三子でありながら皇帝に即位したのを見てきた。瓛は自分が後梁の明帝の第三子である事を以て、大いに自負心を持っていた。この時、謝異という者がおり、梁・陳の興廃について一つも間違えることなく言い当てた事から、江南の人々から非常に敬い信じられていた。その異が陳滅亡時に避難先として選んだのが瓛だったため、以後瓛はますます人々の期待を集めるようになった。
 また、会稽の人々も蕭巖を君主に戴いた。
 隋は〔上柱国・〕右衛大将軍・褒国公の宇文述に討伐を命じた。述は行軍総管の元契張黙言らを率い、水陸より同時に進軍した。この時、伐陳開始の際に海路より呉郡攻略に向かっていた〔上柱国・青州総管・〕落叢公の燕栄の水軍が海(東シナ海)より到来し、述の指揮下に入った。文帝は詔を下して言った。
「公(宇文述)は大いなる勲功と高い声望と忠義さは前々から世の知る所となっている。今、金陵(建康)の賊徒は既に掃討されたが、遠く東方の呉・会稽の地では蕭巖・蕭瓛がまだ抵抗を続けている。公は軍を率いて彼の地を平定し、国威を振るわせ、統治を行き渡らせよ。公の明略(優れた智謀)に勝利の勢いが合わされば、巖らはたちどころに降伏してくるであろう。もし武器を用いることなく平定し、人民に安寧を得さしめる事ができたら、それは朕の意にかなうことであり、公の大きな功績であるぞ。」
 この時、陳の貞威将軍(七品)・晋陵太守の永新侯君範鄱陽王伯山の長子)は晋陵を発って瓛のもとに逃れ、軍勢を合わせた。瓛は述軍の到来を知ると晋陵城の東に柵を築き、水路にも兵を置いて呉郡への進路を塞いだのち、呉郡の留守を王哀《通鑑》では王褒)に任せ、自らは義興より太湖に入って述を後方より奇襲しようとした。しかし述は柵をすぐに突破して瓛に当たり、別働部隊(燕栄?)に呉郡を攻めさせた。呉郡を守っていた王哀は恐れおののき、道士に変装して逃げ去り、城は陥落した。瓛軍はこれを聞くと戦意を喪失した。述はそこを突いて一戦で瓛軍を大破し、瓛の司馬の曹勒叉を斬った。
 瓛は残兵を集めて〔呉郡の西の太湖の中にある〕包山に立て籠ったが、燕栄引き入る精兵五千の攻撃を受けて敗れ、側近数人だけを連れて民家に隠れた。〔しかし結局〕捕らえられ、述のもとに送られた。
 述が〔次いで蕭巖討伐に向かって会稽の西十二里にある〕奉公埭に進軍すると、巖・永新侯君範らは会稽を差し出して降伏を申し出た。述はこれを受け入れた。巖らは面縛(両手を後ろ手にして縛り、顔を前に突き出してさらす)して道の左側に立って述を迎えた。かくて三呉の地はことごとく平定された。
 瓛と巖は長安に送られ、斬首された(詳細な時期は不明)。

 隋は晋陵に常州を、呉県に蘇州を、銭塘県に杭州を置いた。また、会稽県に呉州と総管府を置いた。

○隋地理志
 毗陵郡平陳,置常州。…吳郡陳置吳州。平陳,改曰蘇州。…會稽郡梁置東揚州。陳初省,尋復。平陳,改曰吳州,置總管府。…餘杭郡平陳,置杭州。
○周48蕭巖伝
 及陳亡,百姓推巖為主,以禦隋師。為總管宇文述所破,伏法於長安。
○周48蕭瓛伝
 及陳亡,吳人推為主以禦隋師。戰而敗,與巖同時伏法。
○隋61宇文述伝
 陳主既擒,而蕭瓛、蕭巖據東吳之地,擁兵拒守。述領行軍總管元契、張默言等討之,水陸兼進。落叢公燕榮以舟師自海至,亦受述節度。上下詔曰:「公鴻勳大業,名高望重,奉國之誠,久所知悉。金陵之寇,既已清蕩,而吳、會之地,東路為遙,蕭巖、蕭瓛,並在其處。公率將戎旅,撫慰彼方,振揚國威,宣布朝化。以公明略,乘勝而往,風行電掃,自當稽服。若使干戈不用,黎庶獲安,方副朕懷,公之力也。」陳永新侯陳君範自晉陵奔瓛,并軍合勢。見述軍且至,瓛懼,立柵於晉陵城東,又絕塘道,留兵拒述。瓛自義興入太湖,圖掩述後。述進破其柵,廻兵擊瓛,大敗之,斬瓛司馬曹勒叉。前軍復陷吳州,瓛以餘衆保包山,燕榮擊破之。述進至奉公埭,蕭巖、陳君範等以會稽請降。述許之,二人面縛路左,吳、會悉平。以功拜一子開府,賜物三千段,拜安州總管。
○隋74燕栄伝
 伐陳之役,以為行軍總管,率水軍自東萊傍海,入太湖,取吳郡。既破丹陽,吳人共立蕭瓛為主,阻兵於晉陵,為宇文述所敗,退保包山。榮率精甲五千躡之,瓛敗走,為榮所執,晉陵、會稽悉平。檢校揚州總管。
○隋79蕭瓛伝
 陳主以為侍中、安東將軍、吳州刺史,甚得物情,三吳父老皆曰:「吾君〔之〕子也。」及陳亡,吳人推瓛為主。吳人見梁武、簡文及詧、巋等兄弟並第三而踐尊位,瓛自以巋之第三子也,深自矜負。有謝異者,頗知廢興,梁、陳之際,言無不驗,江南人甚敬信之。及陳主被擒,異奔於瓛,由是益為眾所歸。褒國公宇文述以兵討之,瓛遣王哀守吳州,自將拒述。述遣兵別道襲吳州,哀懼,衣道士服,棄城而遁。瓛眾聞之,悉無鬬志,與述一戰而敗。瓛將左右數人逃于太湖,匿於民家,為人所執,送於述所,斬之長安,時年二十一。
○陳28陳君範伝
 長子君範 ,太建中拜鄱陽國世子,尋為貞威將軍、晉陵太守,未襲爵而隋師至。

 ⑴蕭巖…字は義遠。後梁初代の宣帝の第五子で安平王。優しくおおらかな性格で、人の心を掴むのを得意とした。侍中・荊州刺史・尚書令・太尉・太傅を歴任した。581年、長安に派遣され隋の文帝の即位を祝った。587年、隋が侵攻してくると陳に亡命し、平東将軍(三品)・開府儀同三司・東揚州(会稽)刺史とされた。587年(2)参照。
 ⑵蕭瓛…字は欽文。後梁二代の明帝の第三子で義興王。幼い頃から令名高く、優れた文章を書くことができ、明帝に特に可愛がられた。中軍将軍・荊州刺史とされ、587年、隋が侵攻してくると陳に亡命し、安東将軍(三品)・侍中・呉州刺史とされた。587年(2)参照。
 ⑶宇文述…字は伯通。生年546、時に44歳。上柱国の宇文盛の子。騎・射を得意とした。人相見に「将来きっと位人臣を極める」と評された。謙虚で沈着な性格だったため、大冢宰の宇文護に非常に目をかけられ、護の親信を兼任した。武帝が親政を行なうと左宮伯とされ、のち次第に昇進して英果中大夫・濮陽郡公とされた。尉遅迥が挙兵すると行軍総管とされて討伐に赴き、懐州の包囲を破った。その後も多くの武功を挙げ、上柱国・褒国公とされた。隋が建国されると右衛大将軍とされた。588年、行軍総管とされて陳討伐に赴き、589年、石頭城を陥とした。589年(2)参照。
 ⑷元契…566年以前に信州蛮の討伐に赴いた開府の元契と同一人物か? のち上大将軍とされ、隋の時に突厥の阿波可汗への使者とされた。585年(2)参照。
 ⑸張黙言…伐陳の際に行軍総管とされ、賀若弼の指揮のもと白土岡にて陳軍と戦った。589年(2)参照。
 ⑹燕栄…字は貴公。范陽→弘農郡華陰県の人。父は北周の大将軍の燕偘(侃)。非常に剛直で厳格な性格で、武芸に巧みだった。北周に仕えて中侍上士とされ、のち武帝の伐斉に参加し、功を挙げて開府儀同三司・高邑県公とされた。隋が建国されると大将軍・落叢郡公とされ、晋州(平陽)刺史とされた。583年、河間王弘の突厥討伐にて功を挙げ、上柱国・青州総管とされた。青州に赴任すると並外れた力を持つ者を伍伯(刑罰の執行を担当)とし、官民のうち罪を犯した者がいれば必ず彼らに詰問させて鞭打たせ、境内を肅然とさせた。伐陳の際には東海(萊?)より呉郡攻略に向かった。588年(2)参照。
 ⑺鄱陽王伯山…字は肅之。550~589。陳の二代文帝(宣帝の兄)の第六子。母は厳淑媛。565年に晋安王に封ぜられた。のち呉郡太守とされると、十余歳の身ながら職務に精励して役所をよく治めた。569年に中護軍・安南将軍とされ、のち中領軍→中衛将軍・揚州刺史とされたが、事件に連座して免官となった。572年、復帰して安左将軍→鎮右将軍・特進とされた。574年、安南将軍・南豫州刺史とされた。577年、安前将軍・祠部尚書とされた。579年、軍師将軍・尚書右僕射とされた。580年、僕射とされた。581年、左僕射とされた。582年正月、翊前将軍・侍中とされ、3月、安南将軍・湘州刺史とされたが、拝命する前に侍中・中衛将軍・光禄大夫とされた。586年、鎮右将軍とされた。587年、中衛将軍→鎮衛大将軍とされた。寛大・温厚な性格な上、美男で、しかも諸王の中で最高齢だったため、後主から非常な礼遇を受け、朝廷で儀式や宴会が行なわれる際はいつもその幹事とされた。589年正月に逝去した。589年(1)参照。
 ⑻包山…《読史方輿紀要》曰く、『蘇州府(呉郡)の西南八十五里の太湖中にある。《志》曰く、「四面を湖に包まれていることからこの名前が付いた。周回四十余里あり、みかんを産し、数千家が住んでいる。」またの名を洞庭山という。』
 ⑼奉公埭…《読史方輿紀要》曰く、『会稽県の西十二里にある。もと固陵といい、南朝の時には西陵牛埭と呼ばれた。陳末に西陵埭は奉公埭とも呼ばれた。』

┃淮南道行台省の廃止
〔これより前(588年10月23日)隋が寿春(寿陽。揚州)に淮南道行台省を置き、〔上柱国・雍州牧の〕晋王広をその尚書令とし、陳討伐に当たらせていた。〕
 2月、乙未(1日)、隋が淮南道行台省を廃止した。

○隋文帝紀
 二月乙未,廢淮南行臺省。

┃郷正・里長の設置
〔吏部尚書・納言(門下省長官)?の〕蘇威が五百家の中から一人郷正を選んで五百家の訴訟を処理させるよう提言した。これに〔内史令(中書省長官)の〕李徳林が反論して言った。
「もともと郷官に訴訟に関わらせるのを禁止したのは、郷官が〔地元出身であるためそこにいる〕親戚に肩入れし、判決が不公平になってしまったからであります。今、郷正に五百家の訴訟を処理させたりなどすれば、その贔屓の弊害が一層酷くなってしまう恐れがあります。それに、今、国家は吏部に県令を選任させておりますが、天下の六・七百万戸の人民の内からたった数百人の県令を選ぶだけでも無能な人物が出てしまって難儀しているのです。ここから考えますに、一郷の内から五百家を良く統治できる人材を選ぶのは絶対に無理であります。それに、現在、辺境の小県の内には五百家に満たないものがあります。その場合は二つの県から一郷を管理する者を選ぶしか無くなりますが、県を跨いで統治するというのは果たして許されることなのでしょうか?」
 文帝が諸官を東宮に集めて議論させた所、太子勇以下、多くが徳林の意見に賛同の意を示した。しかし、結局帝は威の意見に従った。
 丙申(2日)、五百家を郷とし、正を一人置いた。また、百家を里とし、長一人を置いた。

○隋文帝紀
 二月…丙申,制五百家為鄉,正一人;百家為里,長一人。
○隋42李徳林伝
 威又奏置五百家鄉正,即令理民間辭訟。德林以為「本廢鄉官判事,為其里閭親戚,剖斷不平,今令鄉正專治五百家,恐為害更甚。且今時吏部,總選人物,天下不過數百縣,於六七百萬戶內,詮簡數百縣令,猶不能稱其才,乃欲於一鄉之內,選一人能治五百家者,必恐難得。又即時要荒小縣,有不至五百家者,復不可令兩縣共管一鄉。」勑令內外羣官,就東宮會議。自皇太子以下,多從德林議。

 ⑴蘇威…字は無畏。生年542、時に48歳。西魏の度支尚書で宇文泰の腹心の蘇綽の子。北周の大冢宰の宇文護に礼遇を受けて娘の新興公主を嫁にもらった。ただ、山寺に暮らして仕官せず、隠遁生活を送った。のち高熲の推挙を受けて楊堅に会い、楊堅が即位して文帝となると太子少保・邳国公とされた。間もなく納言・度支尚書・大理卿・京兆尹・御史大夫の五職を兼任し、税を軽くする事と法律を寛大にする事を提言して聞き入れられた。間もなく刑部尚書とされ、律令の改訂に携わった。のち少保・御史大夫の官を解かれ、京兆尹が廃止されると検校雍州別駕とされた。のち遷都を進言した。583年、郡の廃止を進言し、新律の改訂を行なった。また、民部尚書とされた。585年、河南諸州にて水害が発生すると、救済の指揮を執った。586年、山東の地を巡視した。587年、吏部尚書とされた。588年、河北諸州にて飢饉が発生すると救済を指揮した。588年(1)参照。
 ⑵李徳林…字は公輔。生年532、時に58歳。博陵安平の人。祖父は湖州戸曹従事、父は太学博士。美男。幼い頃から聡明で書物を読み漁り、文才に優れた。高隆之から「天下の偉器」、魏収から「文才はいつか温子昇に次ぐようになる」と評され、いつか宰相になるということで収から公輔の字を授けられた。話術にも長けた。560年頃から次第に中央の機密に関わるようになり、565年には詔の作成にも携わるようになった。北周の武帝はその詔を読むと「天上の人」と絶賛した。母が亡くなると悲しみの余り熱病に罹り、全身にできものができたが、すぐに平癒した。のち中書侍郎とされた。北斉が滅びると北周に仕えて内史上士とされ、詔勅や規則の作成および山東(北斉)の人物の登用を一任された。普六茹堅が丞相となるとその腹心とされ、堅に大丞相・仮黄鉞・都督中外諸軍事となるよう勧めた。のち堅が尉遅迥討伐軍の三将を交代しようとした際反対した。宇文氏の皆殺しに反対し、堅の怒りを買って出世の道を閉ざされた。隋が建国されると内史令とされた。583年、郡の廃止に反対した。587年、病を押して帝の河東巡行に付き従い、陳討伐について議論し、帝に「陳を平定したら、七宝を以て公を飾り、山東の人士の誰よりも富貴の身にさせよう」と言われた。588年(2)参照。
 ⑶北周・北斉では州都・郡県正以下の職はみな州郡県の長官が現地にて登用し、政治に関わらせていた(辟召制)が、583年12月に郡を廃した際、彼らを郷官と呼んで政治に関わらせない事とした。
 ⑷太子勇…楊勇。字(或いは幼名、鮮卑名)は睍地伐。楊堅の長子。妻は元孝矩の娘。北周の代に祖父の楊忠の軍功によって博平侯とされ、堅が宰相となると世子とされ、大将軍・左司衛・長寧郡公とされた。この時、父の同母弟の楊瓚を宮中に呼ぶ役目を任されたが失敗した。尉遅迥の乱の平定後、洛州総管・東京小冢宰とされた。間もなく上柱国・大司馬・領内史御正とされ、近衛軍を統括した。のち再び洛州総管とされ、父の堅が隋を建国すると長安に呼び戻された。隋が建国されると皇太子とされた。582年、咸陽に駐屯し、突厥の侵攻に備えた。586年、洛陽の鎮守を任された。586年(1)参照。

┃豫章攻略

 隋が〔柱国・〕安州(安陸。郢州の西北)総管の韋洸を江州総管とし、二万の兵を率いて九江(江州)の地を攻略させた。
 これより前、〔上開府・〕襄州総管の韋世康はある事件に関連して免官とされていた。
 丁酉(2月3日)、〔もと?〕襄州総管の世康を安州総管とした。

 陳の豫章太守の徐璒は〔隋に降ったものの〕郡から離れず日和見の態度を取っていた。洸はそこで開府の呂昂と長史の馮世基に兵を与えて相次いで進軍させた。
 昂らが〔豫章治所の南昌〕城下に到ると、璒は偽りの降伏を申し入れ、夜に二千の兵を率いて昂の陣を襲撃した。昂は世基と力を合わせてこれを迎撃して大破し、璒を捕虜とした

 馮世基は上党の生まれで、頭脳明晰で知略に優れていた。

○隋文帝紀
 二月…丁酉,以襄州總管韋世康為安州總管。
○隋47韋世康伝
 開皇七年,將事江南,議重方鎮,拜襄州刺史。坐事免。未幾,授安州總管。
○隋46馮世基伝
 馮翊郭均、上黨馮世基,並明悟有幹略,…此四人俱顯名於當世,然事行闕落,史莫能詳。
○隋47韋洸伝
 及陳平,拜江州總管,率步騎二萬,略定九江。陳豫章太守徐璒據郡持兩端,洸遣開府呂昂、長史馮世基以兵相繼而進。既至城下,璒偽降,其夜率所部二千人襲擊昂。昂與世基合擊,大破之,擒璒於陣。

 ⑴韋洸…字は世穆。韋世康の弟。剛毅な性格で優れた才能を有し、若年の頃から弓馬を得意とした。北周に仕え、武功を立てて開府・衛国県公とされ、隋の文帝が丞相となった時(580年)、季父の韋孝寛の指揮のもと尉遅迥を相州に撃破し、その功により柱国・襄陽郡公とされた。突厥が辺境に侵攻し、太子勇が咸陽に駐屯した時(582年)、原州道に出撃して突厥を擊破した。間もなく江陵総管とされたが、すぐ母の病気を以て長安に帰った。586年、安州総管とされた。588年、行軍総管とされて陳討伐に赴いた。588年(2)参照。
 ⑵韋世康…生年531、時に59歳。名高い隠者の韋敻の子。韋孝寛の甥。宇文泰の娘の襄楽公主を娶った。父と同じく無欲で古人のような気高い道徳観を持ち、物を得たり失ったりする事に関心を持たなかった。北斉討平に従軍し、司州総管府長史とされ、平定したばかりの東中国を良く統治した。のち上開府・司会中大夫とされた。尉遅迥が挙兵すると丞相の楊堅に絳州(玉壁)刺史とされ、動揺の沈静化に成功した。581年、隋が建国されると礼部尚書→吏部尚書とされた。584年、後梁の明帝が長安にやってくるとその接待役を任された。587年、襄州総管・襄州刺史とされた。587年(2)参照。
 ⑶隋80譙国夫人伝には『高祖遣總管韋洸安撫嶺外,陳將徐璒以南康拒守。』とあり、通鑑もこれを採用し、胡三省も『徐璒は豫章より退いて南康に立て籠ったのである』と注を付けている。また、柳荘伝に『十一年,徐璒等反於江南』とあるのに通鑑は南康の戦いで『洸擊斬徐璒』と記している。今は豫章の治所の南昌と間違えたものと判断した。

┃湘州義挙

 これより前、建康が陥落し、晋熙王叔文らが降ったのち、隋の行軍元帥・清河公の楊素は部将の龐暉に兵を与えて江南の地を攻略させていた。暉が南下して湘州(長沙)に到ると、州内の将兵たちは抵抗の意志を持たず、次々と投降を申し出た。
 この時、陳の都督湘衡桂武四州諸軍事・智武将軍・湘州刺史の岳陽王叔慎は文武の幕僚たちを招いて酒宴を開いた。宴も酣となった時、嘆息してこう言った。
「忠義の道も、ここに尽き果てたか!」
 長史の謝基はこれを聞くとひれふして涙を流したが、湘州助防の遂興侯正理は立ち上がって言った。
「『主辱めらるれば、臣死す』(《史記》韓長孺伝。主君が辱めを受ければ、臣下は死を賭して報復する)! 諸君はまさか陳国の臣で無いわけがあるまい? 国難の時である今こそ、まことに命を捧げる時ではないか! もし失敗して死んだとしても臣節を世に示す事はできる。青門外[1]にて生き延びたりなどしたら、死んでも死にきれないぞ! こたびの一挙は躊躇ってはならぬ! 後から加わるような者は斬って捨てるぞ!」
 幕僚たちはみなこれに従い、生贄の血を啜って義挙の完遂を誓った。
 正理は遂興侯詳の子である。
 叔慎らは謀議の結果、偽りの降伏文書を送って騙し討ちにする事に決した。暉はこれを信じ、取り決められた日に城内に入り、数百の兵を城門に残して、数十の供のみを連れて州庁に入った。叔慎らはそこであらかじめ用意しておいた伏兵を発して縛り上げ、その姿を暉の兵たちに示すと、兵たちは〔驚いて〕みな投降した。叔慎らは暉らをみな斬首した。
 叔慎が射堂に居を構えて兵を糾合すると、数日の内に五千の兵が集まった。衡陽太守の樊通と武州(武陵)刺史の鄔居業も救援に駆けつけることを約束した。

○陳15陳詳伝
 陳詳…子正理嗣。
○陳28岳陽王叔慎伝
 禎明元年,出為使持節、都督湘衡桂武四州諸軍事、智武將軍、湘州刺史。三年,隋師濟江,破臺城,前刺史晉熙王叔文還至巴州,與巴州刺史畢寶、荊州刺史陳紀竝降。隋行軍元帥清河公楊素兵下荊門,別遣其將龐暉將兵略地,南至湘州,城(州)內將士,莫有固志,克日請降。叔慎乃置酒會文武僚吏,酒酣,叔慎歎曰「君臣之義,盡於此乎!」長史謝基伏而流涕,湘州助防遂興侯正理在坐,乃起曰:「主辱臣死,諸君獨非陳國之臣乎?今天下有難,實是致命之秋也。縱其無成,猶見臣節,青門之外,有死不能。今日之機,不可猶豫,後應者斬。」眾咸許諾,乃刑牲結盟。仍遣人詐奉降書於龐暉,暉信之,克期而入,叔慎伏甲待之。暉令數百人屯于城門,自將左右數十人入于廳事,俄而伏兵發,縛暉以徇,盡擒其黨,皆斬之。叔慎坐于射堂,招合士眾,數日之中,兵至五千人。衡陽太守樊通、武州刺史鄔居業,皆請赴難。

 ⑴陳28岳陽王叔慎伝には『荊門(或いは荊州〈公安〉)を突破したのち』とあるが、巴州を手に入れない限りは湘州には行きにくいと考え、今採らなかった。
 ⑵岳陽王叔慎…字は子敬。陳叔慎。生年572、時に18歳。後主の弟で、宣帝の第十六子。後主の異母弟。母は淳于姫。若年の頃から頭が良く、十歲にして優れた文章を書く事ができた。582年に岳陽王とされた。586年、丹陽尹とされた。日夜後主の傍に侍り、命を受けて詩を作った。その出来栄えはいつも素晴らしく、常に帝に褒め称えられた。587年?、都督湘衡桂武四州諸軍事・湘州刺史とされた。587年(1)参照。
 [1]秦の東陵侯の召平は秦が滅亡すると平民となり、長安の青門外にて瓜を育てて暮らした。正理はこの召平のように平民となってまで生きたくはないと言ったのである。
 ⑶遂興侯詳…字は文幾。523~564。陳の皇室の遠縁。陳覇先が杜龕の討伐に赴いた際、安吉・原郷・故鄣の三県を攻略した。のち、その地に置かれた陳留郡の太守とされた。王琳が東伐の軍を起こすと湓城を奇襲したが、敗れて逃走した。周迪が叛乱を起こすと、濡城の別営を奇襲して迪の妻子を捕らえた。のち、陳宝応の討伐に加わった。564年、周迪が挙兵すると、都督とされて討伐に赴いたが大敗を喫し、戦死した。564年(4)参照。

┃鵝羊山・横橋江の戦い

 一方、隋は〔開府・〕文城公の薛冑を湘州刺史として赴任させていた。冑は道中にて龐暉が死んだ事を知ると、増援を求めた。隋はそこで行軍総管の劉仁恩を救援に向かわせた。しかし、その到着前に冑軍は鵝羊山にて正理・樊通らの襲撃に遭った。大合戦は早朝から日没まで続いた。隋軍は〔多勢を活かし、〕一部隊が疲れたら後詰の部隊と交代させるのを繰り返して戦いを続けた。正理軍は無勢だったため戦い続けることができず、遂に大敗を喫した。冑は勝利の勢いに乗じて湘州城に入り、叔慎を生け捕りにした。
 この時、鄔居業は兵を率いて武州より救援に向かっていたが、横橋江に出た所で叔慎の敗北を知ると、新康口に留まった。劉仁恩は横橋江に到ると川沿いに陣地を築き、二晩に亘って対峙した。それから合戦を行なうと、居業も敗北を喫し〔、捕らえられた〕。仁恩は叔慎・正理・居業など一党十余人を漢口にいる秦王俊のもとに送った。俊は叔慎らをみな斬首した。叔慎はこの時まだ十八歳の若さだった。

 薛冑は字を紹玄といい、北周の開府・基州刺史の薛端の子である。幼い頃から頭が良く、多くの珍しい書物を読み漁り、その大意に通暁し、政務に熟達した。いつも注釈が作者の考えと合っていない事を嘆き、自分の意向に沿って取捨・判断を加えた所、学者たちから称賛を受けた。また、気概があり、功名心があった。
 出仕して帥都督とされ、北周の明帝の時(557~560)に父の文城郡公の爵位を継いだ。のち上儀同とされ、司金中大夫・徐州総管府長史・合州刺史を歴任した。大象年間(579~580)に開府儀同大将軍とされた。

○周35・隋56薛冑伝
〔薛端〕子冑,字紹玄。幼聰敏,涉獵羣(每覽異)書,雅達政事(便曉其義)。〔常歎訓注者不會聖人深旨,輒以意辯之,諸儒莫不稱善。性慷慨,志立功名。〕起家帥都督。〔周明帝時,襲爵文城郡公。〕累遷上儀同,歷(尋拜)司金中大夫、徐州總管府長史、合州刺史。大象中,位至開府儀同大將軍。
○陳28岳陽王叔慎伝
 未至,隋遣中牟(內陽)公薛冑為湘州刺史,聞龐暉死,乃益請兵,隋又遣行軍總管劉仁恩救之。未至,薛冑兵次鵝羊山,叔慎遣正理及樊通等拒之,因大合戰,自旦至于日昃,隋軍迭息迭戰,而正理兵少不敵,於是大敗。冑乘勝入城,生擒叔慎。是時,鄔居業率其眾自武州來赴,出橫橋江,聞叔慎敗績,乃頓于新康口。隋總管劉仁恩兵亦至橫橋,據水置營,相持信宿,因合戰,居業又敗。仁恩虜叔慎、正理、居業及其黨與十餘人,秦王斬之于漢口。叔慎時年十八。

 ⑴劉仁恩…出身不詳。才気に優れ、文武に秀でていた。徐州刺史を務め、580年、尉遅迥が挙兵すると蘭陵に拠る畢義緒を討った。のち毛州(相州陽平郡。鄴の東北)刺史とされると天下第一の治績を挙げ、584年、それが評価されて刑部尚書とされた。のち荊州刺史とされ、588年、行軍総管とされて楊素と共に長江上流の攻略に当たり、白沙を陥とした。延洲の戦いでは勝利に大いに貢献した。589年(2)参照。
 ⑵鵝羊山…《読史方輿紀要》曰く、『長沙府の北二十里にある。またの名を石宝山・束華山という。』
 ⑶横橋…《読史方輿紀要》曰く、『横龍橋は長沙府の東北百二十里→湘陰県の西百十里→沅江県の西十八里にある。またの名を横橋という。』
 ⑷新康口…《読史方輿紀要》曰く、『玉潭江は大溈山・県の西百五十里の芙蓉山・湘郷県北境の豊山より発し、三水が合流したのち県城の西南を流れ、県治の東をめぐって新康口に到ったのち湘江に注ぐ。』
 ⑸薛端…字は仁直。516?~558? 名門河東薛氏の出。本名は沙陁。剛直な性格。北魏に仕えたが天下の乱れを以て職を棄てて郷里に帰った。534年に孝武帝が関中に亡命した際、宇文泰の命により楊氏壁を守備し、何度も東魏軍を撃退した。のち中央に呼ばれ、大丞相府戸曹参軍とされた。のち数々の戦いに参加して功を挙げた。のち吏部郎中とされると、「古人が官職を設けたのは当世の急務を解決するためだったのだから、無能な者を就けるくらいなら空席にした方がマシだ」と言い、才能・品行のある者を用いて権力者に忖度しなかったため泰に褒められ、端(まっすぐの意)の名を与えられた。550年の北斉討伐の際には泰の推薦を受けて別道元帥の李弼の首席幕僚とされた。のち儀同・吏部尚書とされ、宇文氏の姓を与えられた。556年、開府・軍司馬とされた。北周が建国されると工部中大夫→民部中大夫とされ、公とされた。晋公護が孝閔帝を廃そうとした時これに反対し、蔡州刺史に左遷された。間もなく基州刺史とされたが、間もなく病死した。


 589年(5)に続く