[隋:開皇九年 陳:禎明三年]



┃霧気四塞
 春、正月、乙丑朔(1日)、陳の後主が元旦に群臣を集めて朝会(元会)を挙行した。
 この時、建康の周囲に深い霧が立ち込めた。その匂いは酸っぱ辛かった(原文『辛酸』。単に辛く苦しい目に遭ったという意味か?)。
 帝は〔酒を大いに飲んで〕昏睡状態に陥り、晡時(午後4時頃)になってようやく〔目が覚めて〕お開きにした

 この月、陳の鎮衛大将軍の鄱陽王伯山が逝去した(享年40)。

○資治通鑑
 陳主昏睡,至晡時乃
○陳後主紀・南史陳後主紀
 三年春正月乙丑朔,〔朝會,〕霧氣(大霧)四塞。〔入人鼻皆辛酸。後主昏睡,至晡時乃罷。〕
○陳28鄱陽王伯山伝
 三年正月薨,時年四十。

 ⑴陳の後主…陳叔宝。字は元秀。幼名は黄奴。宣帝の嫡長子。母は柳敬言。生年553、時に37歳。在位582~。細部まで技巧が凝らされた詩文を愛した。554年、西魏が江陵が陥とした際に父と共に長安に連行され、父の帰国後も人質として北周国内に留められた。562年、帰国を許され、安成王世子に立てられた。569年、父が即位して宣帝となると太子とされた。のち周弘正から論語と孝経の講義を受けた。582年、宣帝が死ぬと棺の前で弟の叔陵に斬られて重傷を負い、即位後も暫く政治を執る事ができなかった。傷が癒えたのちは弟の叔堅や毛喜を排斥し、『狎客』と呼ばれる側近たちを重用した。自分の過失を人に聞かれるのを嫌い、そのつど孔範に美化した文章を書かせて誤魔化そうとした。また、僭越な振る舞いが多かった陳暄を逆さ吊りにして刃を突きつけたり、もぐさの帽子をかぶせて火をつけたりした。隋と和平を結ぶと外難から解放されて羽目を外し、酒色に溺れ、政務を執る時以外は殆ど宴席に身を置いた。584年、臨春・結綺 ・望仙の三閣を建てた。音楽を愛好し、《玉樹後庭花》などの新曲を作製した。585年頃、直言の士の傅縡を誅殺した。587年、後梁の亡命者を受け入れた。また、直言した章華を誅殺した。588年、太子胤を廃して始安王淵を新たに太子とした。隋が侵攻した際、施文慶らの言を信じて警戒を怠った。588年(3)参照。
 ⑵霧を吸って昏睡状態になった…ともとれる。
 ⑶資治通鑑では『罷』が『寤』になっていて、午後4時頃にようやく目が覚めた、という感じになっている。
 ⑷鄱陽王伯山…字は肅之。生年550、時に40歳。文帝(宣帝の兄)の第六子。母は厳淑媛。565年に晋安王に封ぜられた。のち呉郡太守とされると、十余歳の身ながら職務に精励して役所をよく治めた。569年に中護軍・安南将軍とされ、のち中領軍→中衛将軍・揚州刺史とされたが、事件に連座して免官となった。572年、復帰して安左将軍→鎮右将軍・特進とされた。574年、安南将軍・南豫州刺史とされた。577年、安前将軍・祠部尚書とされた。579年、軍師将軍・尚書右僕射とされた。580年、僕射とされた。581年、左僕射とされた。582年正月、翊前将軍・侍中とされ、3月、安南将軍・湘州刺史とされたが、拝命する前に侍中・中衛将軍・光禄大夫とされた。586年、鎮右将軍とされた。587年、中衛将軍→鎮衛大将軍とされた。寛大・温厚な性格な上、美男で、しかも諸王の中で最高齢だったため、後主から非常な礼遇を受け、朝廷で儀式や宴会が行なわれる際はいつもその幹事とされた。587年(2)参照。

┃賀若弼渡河

 これより前、隋の上開府・呉州(広陵。建康の東北)総管の賀若弼は朝廷に、長江沿岸の防人を交代させる際に必ず広陵に一度集結させるよう求め、許可された。これ以後、歴陽にはたびたび旗幟(旗指物)が林立し、幕営(テント)がひしめくようになり、陳人はこれを〔対岸から〕見るたび大軍が攻めてくると勘違いし、そのつど国中の兵馬を集めて守りに就いた。のち、ただ防人が交代しただけと知ると軍を解散した。その後、何度もこれが繰り返されたので、やがて陳人は対岸に大軍が集まっても警戒しないようになった
 また、兵にたびたび長江沿岸にて狩猟をさせ、その際、わざと騒がしく行なった。何度もこれが繰り返されたので、陳人は今回、弼が陳討伐に赴く際も狩猟をするのかと考えて警戒を怠った。
 また、陳に老馬を売って陳の船を大量に買い、これを人目の付かない所に隠し、おんぼろ船を五六十艘買ってこれを〔人目の付く山陽〕瀆の中に停泊させた。このため、陳人の斥候は広陵には戦艦がないと誤認した。
〔そののち?〕葦や荻(河川敷などの湿地に生える草)を揚子津(山陽瀆の入口に高く積み上げて艦船を覆い隠し、渡河する際にこれを取り払って山陽瀆と長江を開通させた
 また、戦艦に黄色の迷彩を施し、枯れた荻と同じ色にした。このため、陳人は戦艦を枯れた荻と誤認し、その存在に気づかなかった。

 この日(正月1日、弼は渡江する前に酒を地に注ぎ、こう誓って言った。
「弼はただいまより、朝廷の命を奉じ、〔軍を率いて〕遠方に国威を振るわせ、罪ある者を伐ち民を救い、凶暴なる者を切り払いに行くつもりです。上天よ、長江よ、我が心をご照覧ください。もし善を助け悪を懲らしめるおつもりなら、我が軍の渡河を成功させてください。もし私の心に嘘偽りがあるなら、失敗させて魚の餌にしてください。その時は死んでも恨む事はございません。」
 かくて軍を率いて広陵より長江を渡ると、陳人に気づかれることなく対岸の京口(陳の南徐州)に上陸する事に成功した⑺⑻

○陳後主紀
 是日,隋總管賀若弼自北道廣陵濟京口。
○隋52・北68賀若弼伝
 開皇九年,大舉伐陳,以弼為行軍總管。將渡江,酹酒而呪曰:「弼親承廟略,遠振國威,伐罪弔民,除兇翦暴。上天長江,鑒其若此。如使福善禍淫,大軍利涉;如事有乖違,得葬江魚腹中,死且不恨。」先是,弼請緣江防人每交代之際,必集歷陽。於是大列旗幟,營幕被野。陳人以為大兵至,悉發國中士馬。既知防人交代,其眾復散。後以為常,不復設備。及此,弼以大軍濟江,陳人弗之覺也。〔平陳後六年,弼撰其畫策上之,謂為御授平陳七策。上弗省,曰:「公欲發揚我名,我不求名,公宜自載家傳。」七策:「其一,請廣陵頓兵一萬,番代往來。陳人初見設備,後以為常,及大兵南伐,不復疑也。其二,使兵緣江時獵,人馬喧噪。及兵臨江,陳人以為獵也。其三,以老馬多買陳船而匿之,買弊船五六十艘於瀆內。陳人覘以為內國無船。其四,積葦荻於揚子津,其高蔽艦。及大兵將度,乃卒通瀆於江。其五,塗戰船以黃,與枯荻同色,故陳人不預覺之。…」〕
○陳31蕭摩訶伝
 會隋總管賀若弼鎮廣陵,窺覦江左,後主委摩訶備禦之任,授南徐州刺史,餘竝如故。禎明三年正月元會,徵摩訶還朝,賀若弼乘虛濟江,襲京口,摩訶請兵逆戰,後主不許。

 ⑴賀若弼…字は輔伯。生年544、時に46歳。父は北周の開府・中州刺史の賀若敦。若年の頃から気骨があり文武に才能があった。父が愚痴を言って晋公護の怒りを買い、自殺させられた際、江南平定の夢を託された。また、錐で舌を刺されて口を慎むよう戒められた。のち斉王憲に用いられて記室とされ、間もなく当亭県公・小内史とされた。烏丸軌(王軌)と一緒に太子贇(天元帝)の悪行を告発した時、途中で態度を変えて軌に詰られた。579年の淮南平定の際には多くの計策を立てて成功に大きく貢献し、その功により揚州総管・揚州刺史とされ、襄邑県公に改められた。尉遅迥が挙兵したのに乗じて陳が侵攻してくるとこれを撃退したが、丞相の楊堅(のちの隋の文帝)に疑われて無理矢理交代させられた。581年、呉州総管とされた。「騏驎〔閣〕上に我ら二人の名を無からしむるなかれ」と気概を持ち、陳攻略十策を進言して帝に褒め称えられ、宝刀を授けられた。588年、行軍総管とされて陳討伐に赴いた。588年(2)参照。
 ⑵隋52賀若弼伝には歴陽(和州。建康の西南)とある。北68賀若弼伝に載る《御授平陳七策》には「広陵に一万の兵を駐屯させて順々に交代させ…」とある。歴陽は廬州(合肥)総管の韓擒虎の管轄地のような気がするので、今、後者を採った。
 ⑶高熲の「江北(隋)と江南(陳)は寒暖の差により穀物の収穫の時期が異なり、江南が早く、江北が遅うございます。そこでもし彼ら(陳)の収穫の時期に兵馬を集めて攻撃の姿勢を示し、彼らに兵を集めさせて守りを固めさせたのち、我らが即座に軍を解散すれば、彼らは収穫の時期を逸して苦しむのに対し、我らは彼らの後にやってきた収穫期に悠々と収穫を行なうことができます。また、このような事を再三繰り返せば、賊どもは我らが兵を集めてもいつもの冷やかしだと考えて油断するでしょう。その隙を突いて長江を押し渡って戦えば、兵たちは〔得意の陸戦ができるし、背水の陣の格好になるしで〕勇気百倍となるでしょう」の策の一環か?587年(2)参照。
 ⑷山陽瀆…《読史方輿紀要》曰く、『山陽瀆は淮安府(もと淮州、隋の楚州。のち山陽県)の城東にある。古の邗溝である。淮水に入る場所を末口という。《春秋左氏伝》哀公九年(前486年)に『呉が邗溝を築き、長江と淮水を繋いだ』とある。《通典》がいう『邗江は東北に進んで射陽湖に通じ、更に西北に進んで末口より淮水に入り、糧道とされた』というのがこれである。秦漢から南北朝に至るまで、長江〜淮水一帯を通る際は必ずこの運河が使われた。』『邗溝は山陽(もと淮州、隋の楚州)から揚州府(広陵)の南二十里までに通じる。』『邗溝は長江より入って欧陽戍(揚州府の西七十五里→儀真県の東北十里)を経、六十里進んだ先に広陵城に到る。』587年4月に隋が改修工事を行ない、陳討伐の際の水上運送路とした。587年(1)参照。
 ⑸揚子津…《読史方輿紀要》曰く、『揚子橋(津)は揚州府(広陵)の南二十里にある。いにしえより長江の交通の要であり、ここから長江を渡って京口に至るまでの距離は四十里だった。』
 ⑹怪しくて逆に目立ちそうな気もするが…。
 ⑺韓擒虎が夜に渡河しているので、賀若弼軍も夜に渡河したように思われる。
 ⑻蕭摩訶伝には『蕭摩訶は南徐州刺史だったが、正月の元会に参加するために京口を留守にしていた。賀若弼はその虚に乗じて長江を渡ったのである』とあるが、摩訶が南徐州刺史だったのは最高でも587年までで、以降は永嘉王彦か南海王虔だと思われる。南史陳後主紀にも『江州刺史の南平王嶷と南徐州刺史の永嘉王彦を翌年の元会に参加させるために建康に呼びつけた』とある。
 
┃韓擒虎渡河
 また、〔隋の廬州(合肥)総管の〕韓擒虎も夜に五百の兵を率いて横江浦より長江を渡り、対岸に上陸する事に成功した。朝方、擒虎は兵を分けて朝方に採石を襲わせた。この時、守兵はみな酔っていた(元日だから?)ので、陥とす事ができた。

 この時、梁の太尉の王僧弁の子で開府の王頒が数百人の兵を率い、擒虎の先鋒となって長江を渡河した。
 頒は字を景彦という。若年の頃から才気並み外れ、文武に優れた。父の僧弁が侯景の平定に赴く際(551年)、人質として江陵に留められ、江陵が西魏に陥とされると関中に連行された。のち、父が陳覇先に殺された(555年)のを聞くと、泣き叫んで気絶した。間もなく目を覚ましたものの、絶え間なく泣き続け、骨と皮だけになるまで痩せ細った。喪が開けたのちも常に質素な生活を続け、藁の上で眠った。北周の明帝は〔その孝心を〕褒め称え、召して左侍上士とした。のち、昇進を重ねて漢中太守とされ、間もなく儀同三司とされた。
 開皇年間(581~600)の初めに蛮族を平定した功を以て開府・蛇丘県公とされた。のち、取陳の策を献じると、文帝はその立派な内容を見て驚き、頒を呼び出して直接話をした。話が終わると頒は〔父の事を想って〕すすり泣き、帝の襟を正させた。陳討伐が実施されると〔父を殺した陳氏に復讐するため、〕参加を志願して許された。

 頒はこの戦いで奮戦し、重傷を負った。頒はもう二度と戦う事ができなくなるのを恐れ、悲しみの余りむせび泣いた。その夜に泣き疲れて眠りに就くと、人から薬を貰う夢を見、ハッとして目を覚ますと傷が痛くなくなっていた。人々は孝心が天に通じた結果の奇跡だと考えた。

○陳後主紀
 總管韓擒虎趨橫江,濟,〔分兵晨襲〕採石,〔取之。〕
○隋52韓擒虎伝
 及大舉伐陳,以擒為先鋒。擒率五百人宵濟,襲採石,守者皆醉,擒遂取之。
○隋72王頒伝
 王頒字景彥,太原祁人也。祖神念,梁左衞將軍。父僧辯,太尉。頒少俶儻,有文武幹局。其父平侯景,留頒質於荊州,遇元帝為周師所陷,頒因入關。聞其父為陳武帝所殺,號慟而絕,食頃乃蘇,哭泣不絕聲,毀瘠骨立。至服闋,常布衣蔬食,藉藁而臥。周明帝嘉之,召授左侍上士,累遷漢中太守,尋拜儀同三司。開皇初,以平蠻功,加開府,封蛇丘縣公。獻取陳之策,上覽而異之,召與相見,言畢而歔欷,上為之改容。及大舉伐陳,頒自請行,率徒(兵)數百人,從韓擒先鋒夜濟。力戰被傷,恐不堪復鬬,悲感嗚咽。夜中因睡,夢有人授藥,比寤而創不痛,時人以為孝感。

 ⑴韓擒虎…宇文擒虎。字は子通。生年538、時に52歳。開府・中州刺史の韓雄の子。あらゆる書物の大要に通じ、宇文泰に才能を認められてその子どもたちの遊び相手とされた。のち儀同・新安太守とされ、父と同じように河南の地で北斉と戦った。伐斉の際、父の宿敵だった独孤永業を説得して降伏させた。のち范陽の平定に参加し、上儀同・永州刺史とされた。578年頃に陳が光州に迫ると行軍総管とされ、これを撃退した。579年、淮南平定に参加し、合州を陥とした。のち和州刺史とされ、陳の侵攻を何度も撃退した。581年、文武両道を評価され、廬州総管とされた。588年、陳討伐に赴いた。588年(2)参照。
 ⑵横江浦…《読史方輿紀要》曰く、『和州(歴陽)の東南二十五里にあり、江南の採石の渡し場と相い対した。長江を渡る際の要所だった。』
 ⑶採石…《読史方輿紀要》曰く、『採石山は太平府(南豫州)の西北二十五里、和州横江の東二十五里、江寧府(建康)の西南八十五里にあり、長江沿岸の要害である。横江より長江を渡る者は必ず採石を通って金陵(建康)に赴いた。長江の渡し場で一番の要衝だった。《志》曰く、採石は昔ここで石を採っていたためそう命名された。石が江中に突出しており、渡江する者はここから上陸した。』《元和郡県図志》曰く、『採石戍は当塗県の西北三十五里にある。西は烏江、北は建業に接し、南一里ほどの牛渚山上に城があり、和州の横江渡と相い対した。』
 ⑷王僧弁…字は君才。?~555。北魏から梁に亡命した王神念の次子。膂力に乏しかったが、そのぶん智謀に優れた。梁の湘東王繹に仕え、侯景の乱が起こるとその大軍から巴陵を守り切りって形勢を一気に逆転させ、反転攻勢を行なって一挙に景を滅ぼした。のち江陵が陥落して元帝(湘東王繹)が西魏に殺されると、その遺児を建康にて擁立して実権を握ったが、のち陳覇先のクーデターに遭って殺された。
 ⑸侯景…字は万景。503~552。懐朔鎮の人。身長七尺に満たず、胴長短足で、目鼻は疎らで整った容姿を持ち、額は広く頬骨は高く、赤ら顔で髭が薄かった。右足が左足より短かったため、弓や馬の扱いに不得手であったが、その代わり智謀に優れていた。性格は残虐で軍法を厳しく執行したが、気前が良かったため兵士からの評判は良く、戦えば十中八九勝利を得た。同郷の高歓と非常に仲が良かった。しばしば功を立てて鎮の功曹史や外兵史とされ、爾朱栄が洛陽を陥とすと私兵を率いてこれに仕え、大いに才能を買われて滏口の決戦の際には先鋒を任された。爾朱氏が高歓に滅ぼされると歓に仕えて河南の軍事を一任された。歓の死後叛乱を起こしたが敗れて梁に亡命したが、そこでも叛乱を起こし、都の建康を陥として漢を建国したが、552年、王僧弁・陳覇先の連合軍に敗れて流浪の身となり、最後は部下に殺された。
 ⑹陳覇先…陳の武帝。503~559歳。梁代に交州の乱の平定に活躍し、侯景が乱を起こすと王僧弁と共にこれを平定した。のち、僧弁を攻め殺して梁の実権を握り、北斉軍の侵攻を二度退けた。557年、皇帝となり、陳を建国した。559年(3)参照。
 ⑺明帝…宇文毓。宇文泰の長子で、北周の二代皇帝。535~561。優れた人格を備え、独孤信の長女を妻とした。行華州事・宜州刺史・岐州刺史を歴任し、岐州で善政を行なって州民から高い支持を得た。557年、二代目天王となり、559年、称号を皇帝に改めた。560年、宰相の宇文護の警戒を受け、毒殺された。560年(3)参照。
 ⑻隋の文帝…楊堅。普六茹堅。幼名は那羅延。生年541、時に49歳。隋の初代皇帝。在位581~。父は故・隨国公の楊忠。母は呂苦桃。妻は独孤伽羅。落ち着いていて威厳があった。若い頃は不良で、書物に詳しくなかった。振る舞いはもっさりとしていたが、優れた頭脳を有した。宇文泰に「この子の容姿は並外れている」と評され、名観相家の趙昭に「天下の君主になるべきお方だが、天下を取るには必ず大規模な誅殺を行なわないといけない」と評された。また、非常な孝行者だった。晋公護と距離を置き、憎まれた。568年に父が死ぬと跡を継いで隨国公とされた。573年、長女が太子贇(のちの宣帝)に嫁いだ。575年の北斉討伐の際には水軍三万を率いて北斉軍を河橋に破った。576年の北斉討伐の際には右三軍総管とされた。577年、任城王湝と広寧王孝珩が鄴に侵攻すると、斉王憲と共にこれを討伐した。のち定州総管とされた。577年、南兗州(亳州)総管とされた。578年、宣帝が即位すると舅ということで上柱国・大司馬とされた。579年、大後丞→大前疑とされた。580年、揚州総管とされたが、足の病気のため長安に留まった。間もなく天元帝が亡くなるとその寵臣の鄭訳らに擁立され、左大丞相となった。間もなく尉遅迥の挙兵に遭ったが、わずか68日で平定に成功した。間もなく大丞相とされた。581年、禅譲を受けて隋を建国した。583年、大興に遷都し、北伐を行なって突厥を大破した。また、天下の諸郡を廃した。585年、功臣の王誼を自殺させた。義倉を設置した。突厥の沙鉢略可汗を臣従させた。587年、後梁を滅ぼした。588年(3)参照。

┃杜彦渡河
 この時、行軍総管の杜彦韓擒虎に続いて進軍し、南陵(北江州を攻撃した。陳軍は長江に沿って陣地を築いていたが、儀同〔・樅陽太守〕の樊子蓋に精兵を率いさせてこれを陥とし、六百余艘の船を鹵獲した。かくて長江の渡河に成功すると、南陵城を攻めて陥とし、守将の許翼を捕虜とした。

 樊子蓋生年545、時に45歳)は字を華宗といい、廬江(合肥)の人である。祖父の樊道則は梁の越州(合浦)刺史。父の樊儒侯景の乱の際に北斉に亡命し、仁州(鍾離の西北)刺史にまで至った。子蓋は出仕すると武興王()府行参軍とされ、のち慎(廬江郡に属す)県令・東汝北陳二郡太守・員外散騎常侍を歴任し、富陽県侯(邑五百戸)とされた。北周が北斉を滅ぼすと北周に仕えて儀同三司・治郢州(竟陵)刺史とされ、隋が建国されると儀同の身分を以て郷兵を領し、のち樅陽(南陵の対岸)太守とされた。

○隋55杜彦伝
 平陳之役,以行軍總管與新義公韓擒相繼而進。軍至南陵,賊屯據江岸,彥遣儀同樊子蓋率精兵擊破其柵,獲船六百餘艘。渡江,擊南陵城,拔之,擒其守將許翼。
○隋63樊子蓋伝
 樊子蓋字華宗,廬江人也。祖道則,梁越州刺史。父儒,侯景之亂奔于齊,官至仁州刺史。子蓋解褐武興王行參軍,出為慎縣令,東汝、北陳二郡太守,員外散騎常侍,封富陽縣侯,邑五百戶。周武帝平齊,授儀同三司,治郢州刺史。高祖受禪,以儀同領鄉兵,後除樅陽太守。平陳之役,以功加上開府,改封上蔡縣伯,食邑七百戶,賜物三千段,粟九千斛。

 ⑴杜彦…雲中の人(本姓は独孤渾か吐斤?)。父の杜遷は葛栄の乱を避けて豳州(長安の西北)に移住した。勇猛果敢な性格で、騎・射を得意とした。北周に仕えて左侍上士とされ、のち柱国の陸通の指揮のもと陳将の呉明徹を土州にて撃破した。更に叛蛮を攻め、その渠帥を斬った。のち郢州賊帥の樊志を討平し、その功を以て大都督とされた。間もなく儀同・治隆山(陵州。成都の南)郡事とされた。翌年、隴州(もと東秦州)刺史・永安県伯とされた。隋の文帝が丞相となると、韋孝寛の指揮のもと尉遅迥を相州に撃破し、上開府・襄武県侯・魏郡(相州)太守とされた。隋が建国されると丹州(延安の東南)刺史とされ、爵位を公に進められた。6年後、中央に呼ばれて左武衛将軍とされた。588年(2)参照。
 ⑵南陵…《読史方輿紀要》曰く、『太平府(南豫州)の西南百六十里→繁昌県の西南十里の赭圻城に梁は南陵郡・県を置き、赭圻城をその治所とした。陳はここに北江州を置いた。』

┃桃葉山駐屯
〔行軍元帥の〕晋王広は大軍を率いて六合(方州)の桃葉山下に駐屯し、行軍総管の宇文述に三万を与えて建康の石頭城を攻撃させた。

○資治通鑑
 晋王廣帥大軍屯六合鎮桃葉山。
○南史陳後主紀
 及晉王廣軍於六合鎮,其山名桃葉。
○隋61宇文述伝
 平陳之役,復以行軍總管率眾三萬,自六合而濟。時韓擒、賀若弼兩軍趣丹陽,述進據石頭,以為聲援。

 ⑴晋王広…楊広。別名は英、幼名は阿〔麻+女〕。生年569、時に21歳。隋の文帝の第二子。母は独孤伽羅。美男で幼少の頃から利発で、学問を好み、文才に優れ、落ち着いていて威厳があり、上辺を飾るのが上手かったので、両親から特に可愛がられ、官民からも将来を期待された。北周の代に父の勲功によって雁門郡公とされた。帝が即位すると晋王・并州総管とされた。582年、上柱国・河北道行台尚書令とされた。目付役の王韶を恐れはばかり、常に可否を尋ねてから行動した。韶の出張中に壮大な庭園を作ろうとしたが、帰ってきた韶に諌められると非を認めて工事を中止した。また、後梁の明帝の娘を妃とした。584年、突厥が和平を求めてくると、弱っているのに乗じて攻め込むよう進言したが、聞き入れられなかった。文帝が蘭陵公主の再婚先を探した時、自分の妃の弟の後梁の義安王瑒に嫁がせるよう進言し、聞き入れられた。585年、沙鉢略可汗の救援に当たった。586年、雍州牧とされた。588年、淮南道行台尚書令・行軍元帥とされ、陳討伐の総指揮官とされた。588年(2)参照。
 ⑵桃葉山…《読史方輿紀要》曰く、『六合県の南六十里にある。隋は初め六合鎮をここに置いた。』
 ⑶宇文述…字は伯通。生年546、時に44歳。上柱国の宇文盛の子。騎・射を得意とした。人相見に「将来きっと位人臣を極める」と評された。謙虚で沈着な性格だったため、大冢宰の宇文護に非常に目をかけられ、護の親信を兼任した。武帝が親政を行なうと左宮伯とされ、のち次第に昇進して英果中大夫・濮陽郡公とされた。尉遅迥が挙兵すると行軍総管とされて討伐に赴き、懐州の包囲を破った。その後も多くの武功を挙げ、上柱国・褒国公とされた。隋が建国されると右衛大将軍とされた。588年、行軍総管とされて陳討伐に赴いた。588年(2)参照。

┃付け焼き刃の防備
 丙寅(正月2日)、陳の採石戍主の徐子建が派していた使者が建康に急を告げた。
 丁卯(3日)後主はこれを受けて高官たちを集めて軍議を開いた。
 戊辰(4日)、詔を下して言った。
「犬羊のごとき者どもが恐れ知らずにも郊畿に侵攻してきた。〔賊は弱体であるが、〕蜂やサソリのように小さくても毒があるゆえ、素早く打ち払わねばならぬ。よって、朕自ら六軍を率い、天下を祓い清める事とした。京師内外はみな厳戒態勢を取れ。」
 かくて驃騎将軍(一品)の蕭摩訶を皇畿大都督とし、〔忠武将軍(四品)・南豫州刺史の〕樊猛を上流大都督とし、〔征西将軍(二品)・〕護軍将軍の樊毅を下流大都督とし、〔安左将軍(三品)・〕中領軍の魯広達を都督とし、〔車騎将軍(一品)の〕司馬消難施文慶を大監軍とした。
 また、驃騎大将軍(特一品)・司徒の豫章王叔英を知石頭軍戍事とした。
 また、多くの金帛を出して諸軍の士気を高めたり募兵を行なったりするのに使い、兵を分けて各地の要害を鎮守させ、僧尼や道士もみな徴兵して兵役に就かせた。
 忠武将軍(四品)〔・都官尚書の〕の孔範はもともと武士と接していなかったので、募兵しても武士は来ず、ただ商人などの軽薄な者たちが多く集まり、高句麗・百済・崑崙など諸外国の人々がその指図を受けた。

 かくて忠武将軍・南豫州刺史の樊猛と左衛将軍の蒋元遜と寧遠将軍(五品)の南康王方泰らに青龍艦八十艘を与えて白下近辺に向かわせ、六合から来る隋水軍の迎撃に当たらせた。
 また、散騎常侍の皐文奏(11)に兵を与えて代わりに南豫州を鎮守させ〔、韓擒虎を迎撃させ〕た。
 また、これより前、帝は〔中書令の〕蔡徴(12)を冷遇していたが、隋が渡江してくるに及び、その有能さを見込んで権知(臨時)中領軍(近衛軍を統率)とした(13)。徴は中領軍とされると身を粉にして日夜職務に勤しんだ。帝はその仕事ぶりを褒め称え、こう言った。
「賊を撃破する事ができたらきっと労に報いよう。」

 己巳(5日)、白虹(霧や霧雨などの時に見られる白色の虹)が太陽を挟んだ。
 占い師は言った。
「白虹が太陽を咥えるのは、臣下が君主に叛く前兆である。」
 また、こう言った。
「徳の無い君主が滅びる前兆である。」

○隋文帝紀
 九年春正月己巳,白虹夾日。
○陳後主紀
 景寅,採石戍主徐子建馳啟(至)告變。丁卯,召公卿入議軍旅。戊辰,內外戒嚴(乃下詔曰:「犬羊陵縱,侵竊郊畿,蠭蠆有毒,宜時掃定,朕當親御六師,廓清八表,內外並可戒嚴。」於是)以驃騎將軍蕭摩訶〔為皇畿大都督,樊猛為上流大都督,〕護軍將軍樊毅〔為下流大都督〕、中領軍魯廣達並為都督,〔司馬消難、施文慶並為大監軍,重立賞格,分兵鎮守要害,僧尼道士盡皆執役。〕遣南豫州刺史樊猛帥舟師出白下,散騎常侍皐文奏將兵鎮南豫州。
○隋天文志
 九年正月己巳,白虹夾日。占曰:「白虹銜日,臣有背主。」又曰:「人主無德者亡。」是月,滅陳。
○陳14南康王方泰伝
 三年,隋師濟江,方泰與忠武將軍南豫州刺史樊猛、左衞將軍蔣元遜領水軍於白下,往來斷遏江路。
○陳28豫章王叔英伝
 三年,隋師濟江,叔英知石頭軍戍事。
○陳29蔡徴伝
 禎明三年,隋軍濟江,後主以徵有幹用,權知中領軍。徵日夜勤苦,備盡心力,後主嘉焉,謂曰「事寧有以相報」。
○陳31蕭摩訶伝
 後主多出金帛,頒賞諸軍。
○陳31樊猛伝
 時猛與左衛將軍蔣元遜領青龍八十艘為水軍,於白下遊弈,以禦隋六合兵。
○南77孔範伝
 後主多出金帛,募人立功,範素於武士不接,莫有至者,唯負販輕薄多從之,高麗、百濟、崑崙諸夷並受督。

 ⑴蕭摩訶…字は元胤。生年532、時に58歳。口数が少なく、穏やかで謙虚な性格だったが、戦場に出ると闘志満々の無敵の猛将となった。もと梁末の群雄の蔡路養の配下で、陳覇先(陳の武帝)が路養と戦った際(550年)、少年の身ながら単騎で覇先軍に突撃して大いに武勇を示した。路養が敗れると降伏し、覇先の武将の侯安都の配下とされた。556年、幕府山南の決戦では落馬した安都を救う大功を挙げた。のち留異・欧陽紇の乱平定に貢献し、巴山太守とされた。573年、北伐に参加すると、北斉の勇士を次々と討ち取って決戦を勝利に導く大功を挙げた。その後も数々の戦功を立てた。578年、呉明徹が大敗を喫した際、騎兵を率いて包囲を突破した。579年、北周が淮南に侵攻してくると歴陽に赴いたが、結局何もできずに引き返した。北周が乱れると和州・呉州に侵攻したが撃退された。581年、長江以北の地を攻めた。582年、宣帝が死に、始興王叔陵が叛乱を起こすと後主に付き、平定に大きく貢献した。この功により車騎大将軍・南徐州刺史・綏建郡公とされ、更に叔陵が蓄えていた巨万の金帛を全て与えられた。587年、侍中・驃騎大将軍・左光禄大夫とされ、特別に黄色の門と門前の馬柵、庁舎と官邸に鴟尾を使用することを許された。また、娘が皇太子妃とされた。588年(3)参照。
 ⑵樊猛…字は智武。樊毅の弟。騎射を得意とした。侯景の乱が起こると建康の救援に赴き、青溪の戦いで大いに奮戦した。建康が陥ちると兄と共に江陵の湘東王繹(のちの元帝)に仕え、湘州司馬とされた。成都の武陵王紀が攻めてくるとこれを迎撃し、自ら紀父子三人を捕らえて斬った。のち司州刺史とされた。元帝が西魏に殺されると王琳に仕えたが、琳が陳に敗れると陳に仕えた。のち永陽太守→安成王府司馬→廬陵内史→始興平南府長史・領長沙内史とされ、章昭達の江陵攻めの際には峽口を襲い、周軍の艦船を焼き払い、その功により富川県侯とされた。のち都督荊信二州諸軍事・宣遠将軍・荊州刺史とされ、のち、左衛将軍とされた。定州刺史の周法尚が北周に寝返ると討伐に赴いたが大敗を喫した。586年、都督南豫州諸軍事・忠武将軍(四品)・南豫州刺史とされた。586年(2)参照。
 ⑶樊毅…字は智烈。樊文熾の子で、樊文皎の甥。武芸に優れ、弓技に長けた。陸納の乱の際には巴陵の防衛に活躍した。江陵が西魏に攻められると救援に赴いたが捕らえられ、後梁の臣下となった。556年に梁の武州を攻めて刺史の衡陽王護を殺害したが、王琳の討伐を受けて捕らえられた。その後は琳に従った。560年、王琳が敗れると陳に降った。のち荊州攻略に加わり、次第に昇進して武州刺史とされた。569年、豊州(福建省東部)刺史とされた。のち左衛将軍とされた。573年、北伐に参加し、大峴山にて高景安の軍を大破した。また、広陵の楚子城を陥とし、寿陽の救援に来た援軍も撃破した。また、済陰城を陥とした。575年、潼州・下邳・高柵など六城を陥とした。578年、朱沛清口上至荊山縁淮諸軍事とされ、淮東の地の軍事を任された。清口に城を築いて北周と戦ったが撃退された。のち中領軍とされた。北周が淮南に攻めてくると都督北討諸軍事とされた。のち都督荊郢巴武四州水陸諸軍事とされ、580年、司馬消難が帰順してくると督沔漢諸軍事とされた。581年、中護軍→護軍→荊州刺史とされた。後主が即位すると征西将軍とされた。585年、中央に呼ばれて侍中・護軍将軍とされた。588年、隋の侵攻を察知すると京口と採石の防備を固めるように進言したが聞き入れられなかった。588年(3)参照。
 ⑷魯広達…字は遍覧。群雄の魯悉達の弟。生年約531、時に約59歳。王僧弁の侯景討伐に従軍した。562年、周迪討伐に参加し、一番の武功を立てて呉州刺史とされた。567年、南豫州刺史とされた。華皎との決戦の際には先陣を切って奮戦し、戦後に巴州刺史とされた。570年、青泥にある後梁・北周の船を焼き払った。巴州では善政を行ない、官民の請願によって任期が二年延長された。北伐では大峴城にて北斉軍を大破し、西楚州を陥として北徐州刺史とされた。のち右衛将軍とされ、576年に北兗州刺史とされ、のち晋州刺史とされた。578年、合州刺史とされた。のち仁威将軍・右衛将軍とされ、579年、北周が淮南に侵攻してくると救援に赴いたが何もできずに引き返し、免官とされた。580年、北周の郭黙城を陥とした。間もなく平西将軍・都督郢州以上十州諸軍事とされ、隋の南伐時には溳口を守備したが、元景山に敗れ逃走した。のち(?)都督縁江諸軍事とされた。582年、安左将軍とされた。583年、平南将軍・南豫州刺史とされた。584年、安南将軍とされた。間もなく中央に呼ばれて侍中・安左将軍・綏越郡公とされた。周羅睺が讒言されると弁護した。588年、中領軍とされた。588年(1)参照。
 ⑸司馬消難…字は道融。北斉の太尉の司馬子如の長子。幼い頃から聡明で、歴史書を読み漁り、風格があった。ただ見栄っ張りで、名誉を求める所があった。高歓の娘の高氏を娶った。北豫州刺史とされると汚職を働き、御史中丞の畢義雲の捜査を受けた。また、浮気癖があったため高氏に嫌われ、讒訴された。また、上党王渙を匿ったという嫌疑もかけられると、身の危険を感じて遂に叛乱を起こして北周に降り、小司徒・大将軍・滎陽公とされた。この時救援に来てくれた楊忠と義兄弟となり、たいへん親密な間柄となった。忠の子の楊堅とも叔父・甥のような親密な関係となった。571年に柱国、573年に大司寇とされた。575年、東伐の際には前二軍総管とされた。間もなく梁州(漢中)総管とされた。579年、大後丞とされ、娘が静帝の后とされた。楊堅が丞相となると尉遅迥と連携して挙兵し、陳に人質を送って司空・大都督水陸諸軍事とされたが、討伐軍が来ると戦わずして陳に逃亡した。間もなく北周の江州を襲ったが、撃退された。582年頃に征東将軍・東揚州刺史とされた。583年、車騎将軍(一品)とされた。583年(1)参照。
 ⑹施文慶…呉興烏程の人。微賤の吏門の出。頭の回転が速く記憶力が良く、勉強家・読書家だった。太子時代の後主に仕えて事務処理能力を認められ、主書(東宮主書?もしくは即位後の中書主書?)に抜擢され、帝が即位すると中書舍人とされた。この時、始興王叔陵が乱を起こし、隋軍が国境に迫るという難局にあり、迅速な事務処理が求められたが、これを良く取り捌いてみせたので、帝から寵用を受けるに至った。また、宣帝が即位して以降弛緩していた政治を引き締め直し、官吏たちに全力で仕事に当たらせた。沈客卿らを推挙した功により、朝廷内外の事務を一任された。のち太子左衛率とされ、舍人はそのままとされた。585年頃、傅縡を死に追いやった。588年、湘州刺史とされたが、赴任する前に隋の侵攻に遭い、沙汰止みにならないよう後主に非常事態ではないと嘘をついて警戒を怠らせた。588年(3)参照。
 ⑺豫章王叔英…字は子烈。宣帝の第三子。後主の異母弟。母は曹淑華。幼少の頃からおおらかで優しかった。560年に建安侯とされ、569年に都督東揚州諸軍事・東揚州刺史・豫章王とされた。法律を守らず、人や馬を勝手に自分のものにしたため、弾劾を受けて官位を剥奪された。573~4年、南徐州刺史とされた。579年、江州刺史とされた。582年に後主が即位すると征南将軍・開府儀同三司とされた。583年、中衛大将軍とされた。586年、驃騎将軍とされた。587年、驃騎大将軍・司空(司徒?)とされた。587年(2)参照。
 ⑻孔範…字は法言。会稽山陰の人。読書家。宣帝の時に宣恵江夏王長史とされた。後主が即位すると都官尚書とされ、江総らと共に『狎客』の一員となった。立ち居振る舞いが上品で、作る文章も華麗で、五言詩を得意としたので、後主からもっとも親愛を受けた。帝が何か悪事を犯した時には美化した文章を書いてこれを誤魔化す役目を任された。孔貴嬪が帝から非常な寵愛を受けているのを知ると、義兄妹の関係を結び、それによっていよいよ帝から寵遇を受けるようになり、どのような意見でも聞き入れられるに至った。帝に将軍たちから兵を奪うよう進言して自分のもとに所属させ、武将たちの心を離れさせた。後主が「周左率(羅睺)は武将であるのに、いつも文士よりも先に詩を完成させる。文士たちはどうして左率の後になるのだ?」と聞くと、「周羅睺は作詩も戦闘も他者に引けを取りません」と答えた。隋が侵攻してくると「長江は天が創りたもうた堀であり、飛び越えてこれるわけが無い 」と言って警戒を疎かにさせた。588年(3)参照。
 ⑼南康王方泰…南康王曇朗の長子。幼少の頃から粗暴で、不良少年たちと一緒にやりたい放題行なったが、不幸な境遇に免じて特別に容赦された。572年に使持節・都督広衡等十九州諸軍事・平越中郎将・広州刺史とされると暴政を行ない、弾劾を受けて免官となった。574年に豫章内史とされたが、また暴政を行なった。のち弾劾を受けて免官とされ、謹慎処分とされた。579年、復帰を許され寧遠将軍とされたが、大閲兵式のさい生母が病気だと言って参加せず、下町に行って人妻を犯し、逮捕しようとした警官も傷つけたため、再び官爵を剥奪された。間もなく赦され、元の官爵に復帰した。579年(2)参照。
 ⑽白下…《読史方輿紀要》曰く、『白下城は応天府(建康の近北)の治所の北十四里にある。石頭城の東北にある。』
 (11)皐文奏…豊州刺史を務め、579年、北周が淮南に侵攻してくると三千の兵を率いて陽平郡に赴いた。579年(3)参照。
 (12)蔡徴…字は希祥。本名は覧。守度支尚書の蔡景歴の子。美男で、弁才があり、優れた見識と並外れた記憶力を有していた。七歲の時に母を亡くした際、喪の服し方が成人のそれと同じだった。継母の劉氏にいじめられたがこれに恭しく接し、王祥の面影を見た父に名を徴、字を希祥に改められた。南徐州刺史の陳覇先(のちの陳の武帝)に仕えて主簿とされ、のち多くの職を歴任したが、どこでも能吏の評を得た。太建年間(569~582)の初めに太子(後主)少傅丞とされ、のち太子中舍人・兼東宮領直とされた。至徳二年(584)、廷尉卿とされ、間もなく吏部郎とされた。のち太子中庶子・中書舍人とされ、詔誥の作成に携わった。間もなく寧遠将軍(五品)・左民尚書とされた。後主に才能を高く評価されて日に日に信任を受け、将軍たちから奪った兵を分け与えられた。588年、吏部尚書・安右将軍(三品)とされた。常に十日に一度東宮に赴き、太子胤に古今の成功失敗の事例や現在の政務について論述した。また、廷尉寺の訴訟案件の判決を大小と無く全て任された。また、募兵を行なって私兵を組織する事を許された。面倒見がよく、人心を掴むのを得意としていたため、1ヶ月の間に1万人近くが集まった。間もなく中書令とされると「閑職に回されたため怨み言を言っている」と讒言を受け、誅殺されかかった。588年(2)参照。
 (13)これより前、徴に募兵を行なわせて私兵を組織させた際、徴は面倒見がよく、人心を掴むのを得意としていたため、1ヶ月の間に1万人近くが集まった事があった。588年(1)参照。

┃諸将を信ずるなかれ
 この時、建康にはなお十余万の兵士がいたが、後主は臆病な性格で、かつ軍事に疎かったため、ただ日夜泣いて暮らすだけで、建康の軍の差配は〔大監軍の〕施文慶に任せきりにしていた。
 文慶は以前から諸将が自分を憎んでいる事を知っており、彼らが功を立ててしまうと〔制御できなくなって自分の身が危うくなるのを〕危惧していた。そこで、帝にこう意見して言った。
「彼らはつねづね待遇に不満を抱き、反抗的でありますので、危急の時であっても信じるのは非常に危のうございます。」
 以降、諸将の要求や献策は全て握りつぶされるようになった。

○南史陳後主紀
 都下甲士尚十餘萬人。
○南77施文慶伝
 後主性怯懦,不達軍事,晝夜啼泣,臺內處分,一以委之。文慶既知諸將疾己,恐其有功,乃奏曰:「此等怏怏,素不服官,迫此事機,那可專信。」凡有所啟請,經略之計,並皆不行。

 ⑴施文慶は孔範の行なった奪兵策(諸将の兵を奪う策)に加担していた。

┃京口攻略

〔これより前、賀若弼は長江渡河に成功すると京口(南徐州)を攻撃していた。〕
 蕭摩訶は迎撃に赴きたいと後主に求めたが、拒否された。
 庚午(正月6日)、弼が京口(南徐州)を陥とし、刺史の黄恪・城主の荘元始と兵五千余(《通鑑》では『六千余』)を捕らえた。
 弼は非常に厳しい軍律を兵に課して一切の略奪を禁じ、酒を買っただけでも即座に斬首した。また、五千余の捕虜に食糧と勅書を持たせて解放し、各地にて人々を説得させた。これにより、隋軍の行く先々で陳人の降伏が相次ぐようになった。

○資治通鑑
 弼軍令嚴肅,秋毫不犯,有軍士於民間酤酒者,弼立斬之。所俘獲千餘人,弼皆釋之,給糧勞遣,付以敕書,令分道宣諭。於是所至風靡。
○隋文帝紀
 辛未,賀若弼拔陳京口。
○陳後主紀
 庚午,賀若弼攻陷南徐州(時弼攻下京口,)〔緣江諸戍望風盡走〕。
○隋52・北68賀若弼伝
 襲陳南徐州,拔之,執其刺史黃恪。軍令嚴肅,秋毫不犯,有軍士於民間沽酒者,弼立斬之。〔…其七,臣奉敕,兵以義舉。及平京口,俘五千餘人,便悉給糧勞遣,付其敕書,命別道宣喻。是以大兵度江,莫不草偃。」〕
○陳31蕭摩訶伝
 賀若弼乘虛濟江,襲京口,摩訶請兵逆戰,後主不許。
○南77孔範伝
 尋而隋將賀若弼陷南徐州,執城主莊元始。

 ⑴庚午…隋文帝紀には『辛未(7日)』とある。
 ⑵南史陳後主紀にある『三十万枚を陳の各地にばらまき、江南の人々を説得した』の一環か?

┃南豫州攻略
 韓擒虎が上陸した時、南豫州刺史の樊猛は建康におり、その第六子の樊巡が摂行南豫州事として南豫州(姑孰)を治めていた。
 辛未(正月7日)、擒虎が姑孰を攻め、半日で陥とし、巡ら猛の家族を捕らえた。また、〔南豫州の救援に向かっていた〕皐文奏も破って建康に追い返した。また、水軍都督の高文泰も破った。
 江南の父老たちはもともと擒虎に武威と信望があるのを知っていたため、昼夜絶え間なくその軍門にご機嫌伺いに訪れた。

 癸酉(9日)、隋が〔上柱国・〕尚書右僕射〔・魯国公〕の虞慶則585年〈2〉参照)を右衛大将軍とした。

○隋文帝紀
 韓擒虎拔陳南豫州。癸酉,以尚書右僕射虞慶則為右衞大將軍。
○陳後主紀
 辛未,韓擒虎又陷南豫州(進拔姑孰),文奏敗還。
○隋52韓擒虎伝
 進攻姑熟,半日而拔,次於新林。江南父老素聞其威信,來謁軍門,晝夜不絕。陳人大駭,其將樊巡、…相繼降之。
○陳31樊猛伝
 隋將韓擒虎之濟江也,猛在京師,第六子巡攝行州事,擒虎進軍攻陷之,巡及家口竝見執。
○南77孔範伝
 韓擒陷南豫州,敗水軍都督高文泰。

┃新蔡降る
 韓擒虎が渡江した時、魯広達の長子の魯世真は新蔡にいた。世真は擒虎の渡江の報を聞くと、弟の魯世雄と共に配下を引き連れてこれに降った。
 擒虎は世真に手紙を書かせ、広達を説得させた。広達はこの時兵を率いて建康に駐屯しており、これを読むと〔子の不始末の〕責任を取り、廷尉に自分を処罰してくれるよう求めた。後主は広達に言った。
「世真は路中大夫〔のような節義は持っていなかったが、〕公は国家の重臣であり、朕が特に頼りとする者である。〔世真と公はまるで違う。それなのに、〕どうして自らの身を嫌疑の輩と同じ所に置こうとするのか?」
 かくて〔信頼の証に〕黄金を与え、即日陣地に帰らせた。

 樊巡・魯世真など降伏が相次ぐ様を晋王広が朝廷に報告すると、文帝は大いに喜び、群臣を酒宴に招いて〔喜びを分かち合った〕。

○隋52韓擒虎伝
 陳人大駭,其將樊巡、魯世真、田瑞等相繼降之。晉王廣上狀,高祖聞而大悅,宴賜羣臣。
○陳31・南67魯広達伝
 初,隋將韓擒虎之濟江也,廣達長子世真在新蔡,乃與其弟世雄及所部奔擒虎,〔擒虎〕遣使致書,以招廣達,〔廣達〕時屯兵京師,乃自劾廷尉請罪。後主謂之曰:「世真雖異路中大夫,公國之重臣,吾所恃賴,豈得自同嫌疑之間乎?」加賜黃金,即日還營。

 ⑴新蔡…《読史方輿紀要》曰く、『蘄州の東百七十里の黄梅県(あるいは九江府〈江州〉の北七十里)に、東晋は南新蔡郡および永興県を置き、梁末に魯悉達が新蔡に割拠して北江州刺史とされ、新蔡を治所とした。のち、陳の永定三年(559)に北斉がこれを奪取し、郡を廃して永興県を置き、斉昌郡に属させた。隋の開皇の初めに新蔡県が置かれ、蘄州に属した。』新蔡は陳の北伐(573年)の際に陳将の湛陁が攻略した。その後、北周の南伐(579年)の際に杞公亮が司州(黄城)を陥とし、580年に魯広達が郭黙城(江州の東北)を奪回した。ここから考えるに、579年の時に江州の対岸は北周に制圧されたが、580年の周末の動乱の際にある程度奪回していたのかもしれない。あるいは陳代に置かれた北江州(南陵)に僑郡として置かれていた…のかもしれない。前者だと王世積の管轄のような気もする。
 ⑵路中大夫…前漢の斉の孝王の配下。呉楚七国の乱の際、斉が包囲されると景帝に急を告げる役目を任された。帰還した際反乱軍に捕らえられ、「漢は既に敗れた」と城内に嘘を言うよう脅迫され、承諾したが、城下に行くと援軍はやってくると言って怒りを買い、殺された。

┃隋軍、建康に迫る

 賀若弼は北道より、韓擒虎は南道より同時に建康に向けて進軍を開始し、長江沿岸の砦の守兵たちはこれを聞くと戦わずに逃げ去った。弼は兵を分派して曲阿の要衝を占拠させ、〔東方からの援軍が来るのを阻止してから〕入城した。

 後主は驃騎大将軍(特一品)・司徒の豫章王叔英を朝堂に、蕭摩訶を〔建康の東北の〕楽遊苑に、樊毅を〔西北の〕耆闍寺に、魯広達を〔東の〕白土岡の南に、忠武将軍(四品)〔・都官尚書〕の孔範を宝田寺⑸⑹にそれぞれ駐屯させた。

 己卯(正月15日)、鎮東大将軍(一品)〔・呉興内史の〕任忠が呉興より馳せ参じた。そこで〔南の〕朱雀門に駐屯させた。

○陳後主紀
〔時弼攻下京口,緣江諸戍望風盡走,弼分兵斷曲阿之衝而入。…〕至是隋軍南北道竝進。後主遣驃騎大將軍、司徒豫章王叔英屯朝堂,蕭摩訶屯樂遊苑,樊毅屯耆闍寺,魯廣達屯白土岡,忠武將軍孔範屯寶田寺。己卯,鎮東大將軍任忠自吳興入赴,仍屯朱雀門。
○陳28豫章王叔英伝
 尋令入屯朝堂。
○陳31魯広達伝
 及賀若弼進軍鍾山,廣達率眾於白土崗南置陣,與弼旗鼓相對。
○陳31任忠伝
 及隋兵濟江,忠自吳興入赴,屯軍朱雀門。
○南77孔範伝
 範與中領軍魯廣達頓于白塔寺。

 ⑴曲阿…《読史方輿紀要》曰く、『鎮江府(京口)の東南六十里の丹陽県に置かれた。東南百里に常州府(晋陵)がある。』『曲阿の要衝は、恐らく武進・丹徒・句容の三県一帯にあるものだろう』
 ⑵楽遊苑…《読史方輿紀要》曰く、『応天府の北七里→覆舟山の南にある。』
 ⑶耆闍寺…《読史方輿紀要》曰く、『応天府の東(西?)北にある。またの名を祗闍寺という。東晋の代に鶏籠(鳴)山の西に建てられた。』『鶏鳴山は覆舟山の西南にある。応天府の西北七里にある。』
 ⑷白土岡…《読史方輿紀要》曰く、『応天府の東十三里にある。《金陵記》曰く、「白土岡は周回十里、高さ十丈(約30m)あり、鐘山の南麓であり、南は秦淮河に至る。」』
 ⑸宝田寺…《読史方輿紀要》曰く、『恐らく白土岡の南にある。』《南朝仏寺志》曰く、『白土岡の北にある。』
 ⑹南77孔範伝では『魯広達と共に白塔寺に駐屯した』とある。《南朝仏寺志》曰く、『白塔寺はもと祗洹寺といい、鳳凰楼の西にあり、今の新橋の西にある。』《読史方輿紀要》曰く、『新橋は応天府の西南の秦淮河上にある。』
 ⑺任忠…字は奉誠、幼名は蛮奴。汝陰(合肥)の人。幼い頃に親を喪って貧しい生活を送り、郷里の人から軽んじられたが、境遇にめげることなく努力して知勇に優れた青年に育った。梁の鄱陽王範→王琳に仕え、琳が東伐に向かった際、本拠襲撃を図った陳将の呉明徹を撃破した。王琳が敗れると降伏し、華皎の乱が起こるとこれに加わったが、陳と内通していたため、皎が敗北したのちも引き続き陳に用いられた。のち右軍将軍とされ、北伐が起こるとこれに参加し、歴陽〜合肥方面の城を次々と陥とした。更に霍州も陥とした。578年の北伐軍大敗の際は指揮下の軍を無事帰還させた。間もなく都督寿陽、新蔡、霍州等縁淮諸軍事・霍州刺史・寧遠将軍とされ、淮西の地の軍事を任された。のち中央に戻って左衛将軍とされた。579年、大閲兵式の際に陸軍十万を率いた。北周が淮南に侵攻してくると平北将軍・都督北討前軍事とされ、秦郡に赴いたが結局何もできずに引き返した。580年、南豫州刺史・督縁江軍防事とされ、歴陽を攻めたが撃退された。582年、鎮南将軍とされた。583年、侍中・領軍将軍・梁信郡公とされた。のち孔範の奪兵策に遭い、兵を奪われた。587年頃、呉興内史とされ、東揚州刺史の蕭巖らを監視した。薛道衡に大したことが無いと評された。588年(3)参照。
 
┃馬鞍山・磨刀澗の戦い

 これより前、陳の荊州(公安)刺史の宜黄侯慧紀は隋軍が渡江したのを知ると、公安の留守を長史の陳文盛らに任せ、自ら三万の兵と楼船千余隻を引き連れて長江を下り、建康の救援に向かおうとした。この時、隋の行軍元帥の楊素588年〈3〉参照)が信州より長江を下ってきていたため、部将で南康内史の呂忠粛陸倫らを派遣して迎撃させた。
 忠粛は岐亭に駐屯して峡口を守備し、私財を全てなげうって軍資金に充て、北岸の岩を穿って三本(南史陳慧紀伝では『五本』)の鉄鎖を南岸にまで渡し、隋水軍の進撃を食い止めた。
 楊素劉仁恩はそこでまず砦から陥とす事にし、上陸して馬鞍山と磨刀澗の要害を巡って四十余度も戦った。隋軍の死者は五千余人にも達し、陳人はその鼻をことごとく取って手柄の証拠とした。〔しかし、〕間もなく隋軍が優勢に転じ、陳軍を連破した。この時、陳兵を三度捕らえて三度解放した。忠粛は〔支えきれなくなり、遂に〕夜陰に紛れて逃走した。ここに至って素は鉄鎖の除去に成功した。

○隋48楊素伝
 陳南康內史呂仲肅屯岐亭,正據江峽,於北岸鑿岩,綴鐵鎖三條,橫截上流,以遏戰船。素與仁恩登陸俱發,先攻其柵。仲肅軍夜潰,素徐去其鎖。
○陳15・南65陳慧紀伝
 及隋師濟江,〔慧紀率將士三萬人,船艦千餘乘,沿江而下,欲趣臺城。〕元帥清河公楊素下自巴硤,慧紀遣其將(南康太守)呂忠肅(呂肅)、陸倫等〔將兵據巫峽,以五條鐵鎖橫江,肅竭其私財以充軍用,〕拒之。〔隋將楊素奮兵擊之,四十餘戰,爭馬鞍山及磨刀澗守險。隋軍死者五千餘人,陳人盡取其鼻,以求功賞。既而隋軍屢捷,獲陳之士,三縱之。〕…是時,隋將韓擒虎及賀若弼等已濟江據蔣山, 慧紀聞之,留其長史陳文盛等居守。

 ⑴宜黄侯慧紀…陳慧紀。字は元方。武帝(陳覇先)の従孫。読書家で、自分の才能に自信を持っていた。陳覇先の侯景討伐に従軍し、間もなく一部隊の指揮を任された。覇先が即位すると宜黄県侯・黄門侍郎とされ、文帝が即位すると安吉県令とされた。のち、海路から陳宝応を攻めた。567年、宣遠将軍・豊州刺史とされた。570年、水軍都督とされて青泥にある北周と後梁の艦船を焼き払った。578年、呉明徹が敗れると縁江都督・兗州刺史とされた。北周が淮南を攻めると海路を通って建康に逃げ帰った。580年、前軍都督とされて広陵を攻めた。のち宣毅将軍・都督郢巴二州諸軍事・郢州刺史とされた(詳細な時期は不明)。582年、溳口を守備したが、隋軍に撃退された。585年、雲麾将軍(四品)・都督荊信二州諸軍事・荊州(公安)刺史とされた。587年、後梁が滅ぶと兵を出して安平王巖らの亡命を受け入れた。587年(2)参照。
 ⑵呂忠粛…隋46劉仁恩伝・48楊素伝では『呂仲粛』、陳15陳慧紀伝では『呂忠粛』、南65陳慧紀伝では『呂粛』とある。隋書と南史は恐らく隋の文帝の父の楊忠の名を避けたのであろう。よって今は陳15陳慧紀伝の記述に従った。
 ⑶岐亭…《読史方輿紀要》曰く、『西陵峡口にある。』
 ⑷峡口…《読史方輿紀要》曰く、『西陵峡は荊州府の夷陵州の西二十五里にある。峡谷の長さは二十里あり、断崖絶壁が続く。三峡(巫峡・帰峡・西陵峡)のひとつである。』
 ⑸劉仁恩…出身不詳。才気に優れ、文武に秀でていた。徐州刺史を務め、580年、尉遅迥が挙兵すると蘭陵に拠る畢義緒を討った。のち毛州(相州陽平郡。鄴の東北)刺史とされると天下第一の治績を挙げ、584年、それが評価されて刑部尚書とされた。のち荊州刺史とされ、588年、行軍総管とされて楊素と共に長江上流の攻略に当たり、白沙を陥とした。588年(3)参照。
 ⑹馬鞍山…《読史方輿紀要》曰く、『夷陵州の西北三十里にある。劉備が陸遜に敗れた時、馬鞍山に登って周囲に兵を配置した。《夷陵志》曰く、夷陵の要害は、石鼻・馬鞍・猇亭がある。』

┃延洲の戦い
 呂忠粛は荊門の延洲まで逃げ、そこで守りを固めた。
 忠粛は別帥の廖世寵に大舫(火舫の誤り?可燃物を搭載した船を並べて繋いだもの)を率いさせ、偽りの降伏をさせて〔懐に入り込んだ所で火計を行なって〕隋艦を焼き払い、それから改めて決戦を挑もうとした。
楊素はこれを聞き入れた。〕この時、隋軍は衆色(青・赤・黄・白・黒?)で塗装した五隻の黄龍艦を有しており、その全長はみな十余丈(30m余)あった。隋軍はこれを先頭に置き、五隻は舳先を連ねて流れに従って勢いよく東下していた。
 廖世寵らが隋軍に近づいた時、強風が吹き荒れ高波が起こり、雲霧が発生して辺り一面が暗くなった。世寵らはこれに震え上がり、誤って自分たちを焼いてしまった。
 素は巴蜑(巴一帯の川沿いに住む異民族)人の兵千人を五牙艦四隻に分乗させ、高所より大弩を射、更に柏檣(北史では『檣竿』。拍竿? テコと滑車を利用して敵艦を打つ竿状の兵器。五牙艦には6つ装備されていた)を用いて陳の軍船十余隻を粉砕した。陳軍はここにおいて大敗を喫し、二千余人が捕虜とされた。この時、強風も高波もたちどころに収まった。呂忠粛は身一つでかろうじて逃走に成功し、残兵を収容しつつ東方に走った。
 この勝利は劉仁恩宇文㢸の計策に依る所が大きかったが、特に仁恩の計策の貢献度合いが頗る高かった。そのため仁恩は上大将軍とされ、非常な名声を博した。

○資治通鑑
 忠肅復據荊門之延洲,素遣巴蜑【蜑亦蠻也。居巴中者曰巴蜑。此水蜑之習於用舟者也】千人,…以拍竿碎其十餘艦。…陳慧紀屯公安,悉燒其儲蓄,引兵東下,於是巴陵以東無復城守者。
○隋46劉仁恩伝
 與素破陳將呂仲肅於荊門, 仁恩之計居多,授上大將軍,甚有當時之譽。
○隋48楊素伝
 仲肅復據荊門之延洲。素遣巴蜑卒千人,乘五牙四艘,以柏檣(檣竿)碎賊十餘艦,遂大破之,俘甲士二千餘人,仲肅僅以身免。
○隋56宇文㢸伝
 劉仁恩之破陳將呂仲肅也,㢸有謀焉。
○陳15・南65陳慧紀伝
〔肅乃遁保延洲。別帥廖世寵領大舫詐降,欲燒隋艦,更決一死戰。於是有五黃龍備眾色,各長十餘丈,驤首連接,順流而東,風浪大起,雲霧晦冥,陳人震駭,不覺火自焚。隋軍乘高艦,張大弩以射之,陳軍〕戰〔大〕敗,〔風浪應時頓息。肅收餘眾東走。〕

 ⑴荊門山…《読史方輿紀要》曰く、『夷陵州の東南九十里→宜都県の西北五十里の長江南岸にある。北岸に虎牙山があり、荊門山と相い対する。』
 ⑵延洲…《読史方輿紀要》曰く、『迤洲は宜都県の東南六十里→枝江県(江陵の西百八十里)の東北十余里にあり、またの名を延洲という。』『荊門山の東にある。』
 ⑶宇文㢸…字は公輔。祖父は北魏の鉅鹿太守、父は北周の宕州刺史。 気概があって一本筋が通っており、博学多識だった。北周に仕えて礼部上士とされ、五礼(国家の儀礼制度)の修定を行なった。のち次第に昇進して少吏部とされ、八人を県令に選任すると、みな優れた政績を挙げたので、人を見る目があると称賛された。のち、内史都上士とされた。武帝が洛陽攻めを図ると、これに反対し、晋州を攻めることを提案した。晋州城の戦いの際には三輔の豪俠の若者数百人を募って別動隊を組織して戦い、三箇所に傷を受けてもなお闘志を失わなかった。北斉滅亡後、上儀同・武威県公とされた。578年、突厥が甘州を攻めると監軍とされ、献策をしたが聞き入れられなかった。のち淮南平定に参加し、間もなく安楽県公・澮州刺史→南司州刺史とされた。580年、司馬消難が陳に帰順し、陳が樊毅らを援軍に派遣してくると、その迎撃に赴き、漳口にて撃破して三千人を捕虜とした。のち黄州刺史とされ、間もなく南定州刺史とされた。隋が建国されると平昌県公とされ、中央に呼ばれて尚書右丞とされた。西羌が隋に帰順するとその安撫を任された。のち尚書左丞とされると、厳しい態度で職務に当たり、百官を恐れ憚らせた。583年、突厥が甘州に侵攻してくると行軍司馬とされ、竇栄定と共に擊破した。帰還すると太僕少卿→吏部侍郎とされた。陳討伐の際、信州道の諸軍の指揮を委ねられ、更に行軍総管を兼任した。588年(2)参照。


 589年(2)に続く