[隋:開皇八年 陳:禎明二年]


┃親餞
 11月、丁卯(2日)、隋の文帝が自ら伐陳軍を見送りに出た。
 また、陳の後主の身柄に上柱国・万戸公の懸賞を懸けた。

 壬申(7日)、陳が鎮南将軍(二品)・江州刺史の南平王嶷を郢荊湘三州諸軍事・征西将軍(二品)・郢州刺史とし(前任は荀法尚)、安北将軍(三品)・南徐州刺史の永嘉王彦を使持節・都督江巴東衡三州諸軍事・安南将軍・江州刺史とし、軍師将軍(四品)の南海王虔を安北将軍・南徐州刺史とした。
 虔は字を承恪といい、後主の第五子である。母は龔貴嬪。至徳元年(583)に南海王とされた。間もなく武毅将軍(九品)とされ、幕僚を置くことを許された。のち、軍師将軍とされた。

 乙亥(10月)、隋の文帝が〔大興(もと長安)の東方の〕定城(潼関の西三十里に赴き、伐陳軍を整列させ、訓戒を行なった。
 丙子(11日)、〔北方の〕河東(蒲州)に赴いた。

 この日、陳が皇弟の陳叔栄を新昌王とし、陳叔匡を太原王とした。
 叔栄は字を子徹といい、宣帝後主の父)の第三十三子である。母は秦姫
 叔匡は字を子佐といい、宣帝の第三十四子である。母は申婕妤
 
 12月、庚子(5日)文帝が河東より大興に帰還した。

○資治通鑑
 十一月,丁卯,隋主親餞將士
○隋文帝紀
 十一月丁卯,車駕餞師。詔購陳叔寶位上柱國、萬戶公。乙亥,行幸定城,陳師誓眾。丙子,幸河東。十二月庚子,至自河東。
○陳後主紀
 十一月丁卯,詔曰:「夫議獄緩刑,皇王之所垂範,勝殘去殺,仁人之所用心。自畫冠既息,刻吏斯起,法令滋章,手足無措。朕君臨區宇,屬當澆末,輕重之典,在政未康,小大之情,興言多愧。眷茲狴犴,有軫哀矜,可克日於大政殿訊獄。」
 壬申,以鎮南將軍、江州刺史南平王嶷為征西將軍、郢州刺史,安北將軍、南徐州刺史永嘉王彥為安南將軍、江州刺史,軍師將軍南海王虔為安北將軍、南徐州刺史。景子,立皇弟叔榮為新昌王,叔匡為太原王。
○陳28高宗二十九王伝
 申婕妤生南安王叔儉、南郡王叔澄、岳山王叔韶、太原王叔匡。…秦姬生新寧王叔隆、新昌王叔榮。
○陳28新昌王叔栄伝
 新昌王叔榮字子徹,高宗第三十三子也。禎明二年,立為新昌王。
○陳28太原王叔匡伝
 太原王叔匡字子佐,高宗第三十四子也。禎明二年,立為太原王。
○陳28南平王嶷伝
 尋為使持節、都督郢荊湘三州諸軍事、征西將軍、郢州刺史。未行而隋軍濟江。
○陳28永嘉王彦伝
 授散騎常侍、使持節、都督江巴東衡三州諸軍事、平南將軍【[三六]「平南將軍」後主紀禎明二年作「安南將軍」】、江州刺史。未行,隋師濟江。
○陳28南海王虔伝
 龔貴嬪生南海王虔、錢塘王恬。…南海王虔字承恪,後主第五子也。至德元年,立為南海王。尋為武毅將軍,置佐史,進號軍師將軍。禎明二年,出為平北將軍【[三七]「平北將軍」後主紀作「安北將軍」】、南徐州刺史。

 ⑴隋の文帝…楊堅。普六茹堅。幼名は那羅延。生年541、時に48歳。隋の初代皇帝。在位581~。父は故・隨国公の楊忠。母は呂苦桃。妻は独孤伽羅。落ち着いていて威厳があった。若い頃は不良で、書物に詳しくなかった。振る舞いはもっさりとしていたが、優れた頭脳を有した。宇文泰に「この子の容姿は並外れている」と評され、名観相家の趙昭に「天下の君主になるべきお方だが、天下を取るには必ず大規模な誅殺を行なわないといけない」と評された。また、非常な孝行者だった。晋公護と距離を置き、憎まれた。568年に父が死ぬと跡を継いで隨国公とされた。573年、長女が太子贇(のちの宣帝)に嫁いだ。575年の北斉討伐の際には水軍三万を率いて北斉軍を河橋に破った。576年の北斉討伐の際には右三軍総管とされた。577年、任城王湝と広寧王孝珩が鄴に侵攻すると、斉王憲と共にこれを討伐した。のち定州総管とされた。577年、南兗州(亳州)総管とされた。578年、宣帝が即位すると舅ということで上柱国・大司馬とされた。579年、大後丞→大前疑とされた。580年、揚州総管とされたが、足の病気のため長安に留まった。間もなく天元帝が亡くなるとその寵臣の鄭訳らに擁立され、左大丞相となった。間もなく尉遅迥の挙兵に遭ったが、わずか68日で平定に成功した。間もなく大丞相とされた。581年、禅譲を受けて隋を建国した。583年、大興に遷都し、北伐を行なって突厥を大破した。また、天下の諸郡を廃した。585年、功臣の王誼を自殺させた。義倉を設置した。突厥の沙鉢略可汗を臣従させた。587年、後梁を滅ぼした。588年(2)参照。
 ⑵陳の後主…陳叔宝。字は元秀。幼名は黄奴。宣帝の嫡長子。母は柳敬言。生年553、時に36歳。在位582~。細部まで技巧が凝らされた詩文を愛した。554年、西魏が江陵が陥とした際に父と共に長安に連行され、父の帰国後も人質として北周国内に留められた。562年、帰国を許され、安成王世子に立てられた。569年、父が即位して宣帝となると太子とされた。のち周弘正から論語と孝経の講義を受けた。582年、宣帝が死ぬと棺の前で弟の叔陵に斬られて重傷を負い、即位後も暫く政治を執る事ができなかった。傷が癒えたのちは弟の叔堅や毛喜を排斥し、『狎客』と呼ばれる側近たちを重用した。自分の過失を人に聞かれるのを嫌い、そのつど孔範に美化した文章を書かせて誤魔化そうとした。また、僭越な振る舞いが多かった陳暄を逆さ吊りにして刃を突きつけたり、もぐさの帽子をかぶせて火をつけたりした。隋と和平を結ぶと外難から解放されて羽目を外し、酒色に溺れ、政務を執る時以外は殆ど宴席に身を置いた。584年、臨春・結綺 ・望仙の三閣を建てた。音楽を愛好し、《玉樹後庭花》などの新曲を作製した。585年頃、直言の士の傅縡を誅殺した。587年、後梁の亡命者を受け入れた。また、直言した章華を誅殺した。588年、太子胤を廃して始安王淵を新たに太子とした。588年(2)参照。
 ⑶南平王嶷…陳嶷。字は承嶽。後主の第二子。母は高昭儀。品行方正で優れた才能と度量を有し、数歳にして早くも成人のような思慮分別や立ち居振る舞いをした。至德元年(583)に南平王とされた。間もなく信武将軍・南琅邪彭城二郡太守とされ、佐史を置くことを許された。584年、平南将軍(三品)・揚州刺史とされた。587年、江州刺史とされた。588年、鎮南将軍(二品)とされた。588年(1)参照。
 ⑷永嘉王彦…陳彦。字は承懿。後主の第三子。母は呂淑媛。至徳元年(583)に永嘉王とされた。間もなく忠武将軍とされた。587年、南徐州刺史とされた。588年、安北将軍(三品)とされた。588年(1)参照。
 ⑸龔貴嬪…もと張貴妃の主人で良娣(太子妃の次の位)。後主の寵愛を受け、第五子の南海王虔と第十一子の銭塘王恬を産んだ。585年、望仙閣が建てられるとそこに住んだ。584年(3)参照。
 ⑹定城…《読史方輿紀要》曰く、『西安府(長安)の東二百里→華州の東七十里→華陰県の東十里にある(潼関は東四十里)。《述征記》曰く、「定城は潼関を去ること三十里にある。後漢末に鎮遠将軍の段煨が建てたものである。道の両側に城がある。』
 ⑺秦姫…宣帝の第三十二子の新寧王叔隆と第三十三子の新昌王叔栄を産んだ。
 ⑻申婕妤…宣帝の第二十四子の南安王叔倹・第二十五子の南郡王叔澄・第二十七子の岳山王叔韶・第三十四子の太原王叔匡を産んだ。

┃必克
 この月(11月〈12月?〉、隋の伐陳軍が巴・蜀・沔・漢から下流の広陵に至るまでの数十道より一斉に侵攻を開始した。

 隋軍が長江に臨んだ時、淮南道行軍元帥府長史の高熲は夜、陣幕の中に座り、淮南道行台尚書吏部郎・兼掌文翰の薛道衡にこう言った。
「こたびの一挙で、江東を平定する事ができるだろうか? 試しに何か申してみよ。」
 道衡は答えて言った。
「そもそも、大事の成功失敗を論じる際は、何よりもまず真理を以て判断せねばなりません。もともと、禹貢(《尚書》の一篇。地理を記す)に載る九州(冀州・兗州・青州・徐州・揚州・荊州・豫州・梁州・雍州)の地こそ、王者の治めるべき封域でありましたが、後漢末に群雄が競い起こり、孫権兄弟(孫策・孫権)が呉・楚の地に割拠して以来〔南北に分裂してしまいました〕。のち、晋の武帝司馬炎)が即位して間もなくこれを併呑したものの、永嘉の乱が起こって晋が南遷すると(317年)、再び分裂するに至りました。これより以後、戦争が止むことはありませんでしたが、災いが極まれば幸いが訪れるのがこの世の習いであります。また、郭璞東晋の卜者)は『江東は王が割拠して三百年後に、再び中国と合する』との言葉を遺しました。今、その年数はまさに満ちようとしております。これが必ず勝つことができる理由の一つ目であります。
 また、いにしえより、国の興亡はみな『徳ある者は栄え、徳無き者は滅びる』の法則に従っております。今、我らが主上(隋の文帝)は謙虚・倹約を旨とされ、政治に勤しんでおられますが、一方、叔宝(陳の後主)は豪華な宮殿を造営し、酒色に耽っております。叔宝の行ないは上下の心をばらばらにし、人も神も共に憤っております。これが必ず勝つことができる理由の二つ目であります。
 また、国家の根本は人事にありますが、彼の国の大臣たちはみな無能揃いであり、尚書令の江総は詩と酒にうつつを抜かす男で国家経営の才能など無く、小人物の施文慶を抜擢して政治を委ね、大将の蕭摩訶任蛮奴任忠らも大した才能は無く、一部隊の将が適当な者であります。これが必ず勝つことができる理由の三つ目であります。
 また、我らは有道の国でありしかも国力は大きいのに対し、彼らは無徳の国でしかも国力は小さく、その兵数も推量するに十万以下しかありません。もし彼らが西は巫峽から東は滄海に至るまでの長い国境に兵を分散配置すれば、当然薄く広くなって弱くなり、各個撃破される結果となります。かといって要所に兵を集中させると、ある地を守っている間にある地を失う結果になり、ジリ貧となります。これが必ず勝つことができる理由の四つ目であります。
 我らの席巻の勢はかくのごとく明らかであります。お疑い召されませぬよう。」
 熲は喜んで言った。
「君の成功失敗の分析はとても分かりやすいゆえ、今すっかり迷いが晴れた。もともと君には学問方面での活躍を期待していたが、まさか謀略の才能もあるとは思わなかったぞ。」

○資治通鑑
 道衡曰:「克之。嘗聞郭璞有言:『江東王三百年,復與中國合。』今此數將周,一也。主上恭儉勤勞,叔寶荒淫驕侈,二也。國之安危在所委任,彼以江總為相,唯事詩酒,拔小人施文慶,委以政事,蕭摩訶、任蠻奴為大將,皆一夫之用耳,三也。
○陳後主紀
 十一月…是月,隋遣晉王廣眾軍來伐,自巴、蜀、沔、漢下流至廣陵,數十道俱入。
○隋57薛道衡伝
 及八年伐陳,授淮南道行臺尚書吏部郎,兼掌文翰。王師臨江,高熲夜坐幕下,謂之曰:「今段之舉,克定江東已不?君試言之。」道衡答曰:「凡論大事成敗,先須以至理斷之。禹貢所載九州,本是王者封域。後漢之季,羣雄競起,孫權兄弟遂有吳、楚之地。晉武受命,尋即吞併,永嘉南遷,重此分割。自爾已來,戰爭不息,否終斯泰,天道之恒。郭璞有云:『江東偏王三百年,還與中國合。』今數將滿矣。以運數而言,其必克一也。有德者昌,無德者亡,自古興滅,皆由此道。主上躬履恭儉,憂勞庶政,叔寶峻宇雕牆,酣酒荒色。上下離心,人神同憤,其必克二也。為國之體,在於任寄,彼之公卿,備員而已。拔小人施文慶委以政事,尚書令江總唯事詩酒,本非經略之才,蕭摩訶、任蠻奴是其大將,一夫之用耳。其必克三也。我有道而大,彼無德而小,量其甲士,不過十萬。西自巫峽,東至滄海,分之則勢懸而力弱,聚之則守此而失彼。其必克四也。席卷之勢,其在不疑。」熲忻然曰:「君言成敗,事理分明,吾今豁然矣。本以才學相期,不意籌略乃爾。」

 ⑴高熲…字は昭玄。独孤熲。生年541、時に48歳。またの名を敏という。父は北周の開府・治襄州総管府司録の高賓。幼少の頃から利発で器量があり、非常な読書家で、文才に優れた。武帝の治世時(560~578)に内史下大夫とされた。のち、北斉討平の功を以て開府とされた。578年、稽胡が乱を起こすと越王盛の指揮のもとこれを討平した。この時、稽胡の地に文武に優れた者を置いて鎮守するよう意見して聞き入れられた。楊堅が丞相となり、登用を持ちかけられると欣然としてこれを受け入れ、相府司録とされた。尉遅迥討伐軍に迥の買収疑惑が持ち上がると、監軍とされて真贋の見極めを行ない、良く軍を指揮して勝利に導いた。この功により柱国・相府司馬・義寧県公とされた。堅が即位して文帝となると尚書左僕射・兼納言・渤海郡公とされた。帝に常に『独孤』とだけ呼ばれ、名を呼ばれないという特別待遇を受けた。左僕射の官を蘇威に譲ったがすぐに復職を命ぜられた。また、新律の制定に携わった。間もなく伐陳の総指揮を任された。陳の宣帝が死ぬと喪中に攻め込むのは礼儀に悖るとして中止を進言し聞き入れられた。のち北辺に赴いて突厥対策に当たった。間もなく営新都大監とされ、新都の建設の差配を行なった。間もなく行軍元帥とされ、寧州道より討伐に赴いた。585年、左領軍(十二軍の戸籍・賦役・訴訟を司る)大将軍とされ、輸籍法を提案した。また、宇文忻に兵権を与えぬよう進言した。587年頃に阿波可汗が捕らえられると生かすよう進言した。後梁を廃した際には長江・漢水一帯の地の安撫を任された。588年、元帥府長史とされて陳討伐に赴き、実際の総指揮を執った。588年(2)参照。
 ⑵薛道衡…字は玄卿。生年535、時に54歳。薛孝通(爾朱天光や北魏の節閔帝に重用された)の子。六歲の時(540年)に父を亡くしたが、めげることなく学問に打ち込んだ。十代前半で《国僑賛》を作り、その出来栄えがあまりに良かったため、人々から一目置かれるようになった。北斉の武成帝の代に兼散騎常侍とされ、周・陳二国の使者の接待を任された。のち待詔文林館とされ、盧思道や李徳林と名声を等しくし、親しく交際した。のち中書侍郎とされ、太子の侍読(教師)を兼任した。太子が即位して後主となると次第に親任されるようになったが、頗る追従の譏りを受けた。のち、侍中の斛律孝卿と共に政治に参与すると、北周に対抗する策を事細かに孝卿に述べたが、聞き入れられなかった。北斉が滅びると長安に連行され、司禄上士とされた。580年、可頻謙討伐に従って摂陵州刺史とされ、581年、儀同・摂卭州刺史とされた。この時、天下は既に普六茹堅(のちの隋の文帝)に帰していると言って、益州総管の梁睿に即位を勧めさせた。隋が建国されると罪を犯して官爵を剥奪された。583年、典軍書とされて河間王弘と共に突厥を討伐した。帰還すると内史舍人とされた。584年、使者とされて陳に赴いた。このとき陳に属国になるよう要求しようとしたが、文帝に断られた。陳で作った詩文はどれも陳の人々に気に入られ、愛誦された。585年、陳の使者の王話と阮卓の接待役を任された。585年(2)参照。
 ⑶江総…字は総持。名門済陽考城の江氏の出で、西晋の散騎常侍の江統(《徙戎論》の著者)の十世孫。七歲にして父を喪い、母方のもとで育てられた。幼くして聡明で、人情に厚く寛大温厚で善良そのものな性格をしていた。品行は非常に正しく、容姿も抜きん出ていた。舅で当時名声のあった呉平侯勱に可愛がられ、「きっと将来私より有名になるだろう」と言われた。家伝の書物数千巻を一日中読み続けて、手を止めることが無かった。梁の武帝に賞賛を受けるほどの文才を有し、五言詩と七言詩を最も得意とした。尚書侍郎とされると張纘・王筠・劉之遴と忘年の交わりを結んだ。のち太子中舍人とされ、侯景が建康に侵攻してくると小廟を守備した。台城が陥ちると会稽郡に避難し、そこに数年滞在した。第九舅の蕭勃が広州に割拠するとこれを頼った。563年に中書侍郎とされて建康に帰り、のち次第に昇進して太子中庶子・掌東宮管記とされた。のち左民尚書とされた。のち太子叔宝(後主)に太子詹事に推挙された時、吏部尚書の孔奐に「江は潘・陸の様な華やかさはあるが、園・綺のような質実さは無い」と言われて反対を受けたが、結局叔宝のごり押しによって就任する事ができた。のち太子と夜通し酒を飲んだり、太子の側室の陳氏を養女としたり、家に招いて一緒に遊んだりしたため、宣帝の怒りを買い、免官とされたが、間もなく復帰して太常卿とされた。後主が即位すると祠部尚書・領左驍騎将軍とされ、人事に携わった。583年、吏部尚書とされた。584年、尚書僕射とされた。586年、尚書令とされた。588年、中権将軍に進んだ。588年(2)参照。
 ⑷施文慶…呉興烏程の人。微賤の吏門の出。頭の回転が速く記憶力が良く、勉強家・読書家だった。太子時代の後主に仕えて事務処理能力を認められ、主書(東宮主書?もしくは即位後の中書主書?)に抜擢され、帝が即位すると中書舍人とされた。この時、始興王叔陵が乱を起こし、隋軍が国境に迫るという難局にあり、迅速な事務処理が求められたが、これを良く取り捌いてみせたので、帝から寵用を受けるに至った。また、宣帝が即位して以降弛緩していた政治を引き締め直し、官吏たちに全力で仕事に当たらせた。沈客卿らを推挙した功により、朝廷内外の事務を一任された。のち太子左衛率とされ、舍人はそのままとされた。585年頃、傅縡を死に追いやった。586年(2)参照。
 ⑸蕭摩訶…字は元胤。生年532、時に57歳。口数が少なく、穏やかで謙虚な性格だったが、戦場に出ると闘志満々の無敵の猛将となった。もと梁末の群雄の蔡路養の配下で、陳覇先(陳の武帝)が路養と戦った際(550年)、少年の身ながら単騎で覇先軍に突撃して大いに武勇を示した。路養が敗れると降伏し、覇先の武将の侯安都の配下とされた。556年、幕府山南の決戦では落馬した安都を救う大功を挙げた。のち留異・欧陽紇の乱平定に貢献し、巴山太守とされた。573年、北伐に参加すると、北斉の勇士を次々と討ち取って決戦を勝利に導く大功を挙げた。その後も数々の戦功を立てた。578年、呉明徹が大敗を喫した際、騎兵を率いて包囲を突破した。579年、北周が淮南に侵攻してくると歴陽に赴いたが、結局何もできずに引き返した。北周が乱れると和州・呉州に侵攻したが撃退された。581年、長江以北の地を攻めた。582年、宣帝が死に、始興王叔陵が叛乱を起こすと後主に付き、平定に大きく貢献した。この功により車騎大将軍・南徐州刺史・綏建郡公とされ、更に叔陵が蓄えていた巨万の金帛を全て与えられた。587年、侍中・驃騎大将軍・左光禄大夫とされ、特別に黄色の門と門前の馬柵、庁舎と官邸に鴟尾を使用することを許された。また、娘が皇太子妃とされた。588年(1)参照。
 ⑹任忠…字は奉誠、幼名は蛮奴。汝陰(合肥)の人。幼い頃に親を喪って貧しい生活を送り、郷里の人から軽んじられたが、境遇にめげることなく努力して知勇に優れた青年に育った。梁の鄱陽王範→王琳に仕え、琳が東伐に向かった際、本拠襲撃を図った陳将の呉明徹を撃破した。王琳が敗れると降伏し、華皎の乱が起こるとこれに加わったが、陳と内通していたため、皎が敗北したのちも引き続き陳に用いられた。のち右軍将軍とされ、北伐が起こるとこれに参加し、歴陽〜合肥方面の城を次々と陥とした。更に霍州も陥とした。578年の北伐軍大敗の際は指揮下の軍を無事帰還させた。間もなく都督寿陽、新蔡、霍州等縁淮諸軍事・霍州刺史・寧遠将軍とされ、淮西の地の軍事を任された。のち中央に戻って左衛将軍とされた。579年、大閲兵式の際に陸軍十万を率いた。北周が淮南に侵攻してくると平北将軍・都督北討前軍事とされ、秦郡に赴いたが結局何もできずに引き返した。580年、南豫州刺史・督縁江軍防事とされ、歴陽を攻めたが撃退された。582年、鎮南将軍とされた。583年、侍中・領軍将軍・梁信郡公とされた。のち孔範の奪兵策に遭い、兵を奪われた。587年頃、呉興内史とされ、東揚州刺史の蕭巖らを監視した。588年(1)参照。
 ⑺薛道衡は北斉時代に斛律孝卿に北周に対抗する策を事細かに述べたりしている。

┃中流対峙

 隋の山南道行軍元帥の秦王俊が諸軍を率いて漢口に進軍した。陳は周羅睺を都督巴峽縁江諸軍事とし、〔前〕都督郢巴武三州諸軍事・郢州刺史の荀法尚と共にこれを迎撃させた。
 羅睺は強兵数万を率いて鸚鵡洲に駐屯した。隋の行軍総管〔で俊の妃の兄〕の崔弘度は攻撃の許可を求めたが、〔熱心な仏教信者の〕俊は殺生をする事を憂慮し、許さなかった。かくて隋軍は長江を渡ることができず、月を跨いで睨み合う長期戦となった。

 荀法尚は陳の合州刺史・興寧県侯の荀朗の子である。若年の頃から才気に溢れ、文武に優れた。出仕して江寧令とされ、興寧県侯の爵位を継いだ。太建五年(573)、呉明徹の北伐に参加した。間もなく通直散騎侍郎・涇(太平府〈南豫州〉の南百七十五里→寧国府〈宣城〉の西南百五里)令とされ、のち梁(寿陽)・安城(成? 吉安府〈廬陵〉の西百二十里)太守を歴任した。禎明年間(587~589)に都督郢巴武三州諸軍事・郢州刺史とされた。

○隋45秦孝王俊伝
 伐陳之役,以為山南道行軍元帥,督三十總管,水陸十餘萬,屯漢口,為上流節度。陳將周羅睺、荀法尚等,以勁兵數萬屯鸚鵡洲,總管崔弘度請擊之。俊慮殺傷,不許。
○隋65周羅睺伝
 晉王廣之伐陳也,都督巴峽緣江諸軍事,以拒秦王俊,軍不得渡,相持踰月。
○陳13荀法尚伝
〔荀朗…合州刺史。…子法尚嗣。〕法尚少俶儻,有文武幹略,起家江寧令,襲爵興寧縣侯。太建五年,隨吳明徹北伐。尋授通直散騎侍郎,除涇令,歷梁、安城太守。禎明中,為都督郢巴武三州諸軍事、郢州刺史。

 ⑴秦王俊…楊俊。字は阿祗。生年571、時に18歳。隋の文帝の第三子。母は独孤伽羅。優しい性格で、出家を希望するほど仏教を篤く信じた。隋が建国されると秦王とされた。582年、上柱国・洛州刺史・河南道行台尚書令とされた。間もなく右武衛大将軍を加えられ、関東の兵を統轄した。583年、秦州総管とされ、隴右諸州を全て管轄した。584年、崔弘度の妹を妃に迎えた。586年、山南道行台尚書令とされた。588年、山南道行軍元帥とされ、陳討伐に赴いた。588年(2)参照。
 ⑵周羅睺…字は公布。生年542、時に47歳。九江尋陽の人。父は梁の南康内史。騎・射を得意とし、狩猟を好み、義侠心があって気ままに振る舞い、逃亡者を集めて私兵とし、密かに兵法を勉強した。従祖父に戒められても品行を改めなかった。陳の宣帝の時に軍功を挙げて開遠将軍・句容令とされた。のち北伐に参加し、広陵戦で流れ矢によって左目を失った。575年、北斉軍が明徹を宿預に包囲した時、敵陣に突進して斉兵を次々と蹴散らし、蕭摩訶に武勇を認められて副将とされた。577年、徐州にて北周の梁士彦と戦った際、落馬した摩訶を重囲から救い出した。578年、呉明徹が大敗を喫した際、軍を全うして帰った。579年、都督霍州諸軍事とされ、山賊を平定し、右軍将軍とされた。のち総管検校揚州内外諸軍事とされた。金銀を与えられると全て部下たちに分け与えた。のち晋陵太守→太僕卿とされた。北周が乱れると呉州に侵攻したが撃退された。581年、隋の胡墅を攻め陥とした。のち雄信将軍・都督豫章十郡諸軍事・豫章内史とされた。至徳年間(583~586)に都督南州諸軍事とされた。この時、讒言されて立場が不安定になり、ある者に叛乱を勧められたが拒否した。のち、建康に帰還すると太子左衛率とされ、信任はいっそう厚いものとなった。ある時、帝に「周左率は武将であるのに、いつも文士よりも先に詩を完成させる。文士たちはどうして左率の後になるのだ?」と言われ、孔範に「周羅睺は作詩も戦闘も他者に引けを取りません」と言われた。のち督湘州諸軍事とされ、帰ると散騎常侍とされた。588年、峡口に駐屯し、隋の峡州に侵攻した。588年(1)参照。
 ⑶鸚鵡洲…《読史方輿紀要》曰く、『武昌府(郢州)の西南六十里→汝南城の南にある。』
 ⑷崔弘度…宇文弘度。字は摩訶衍。敷州刺史の宇文説(崔説)の子。人並み外れた筋力と逞しい体躯を持ち、髭や容貌は非常に立派だった。貴族の出身だったため尊大で、下の者に非常に厳しく、よく鞭打ちの罰を加えた。十七歳の時に北周の大冢宰の宇文護に引き立てられて親信とされた。護の子の中山公訓が蒲州刺史とされた時(566年?)、望楼から飛び降りて傷一つ負わなかった。のち北斉討伐に参加して上開府・鄴県公とされた。間もなく汝南公神挙と共に范陽の盧昌期の乱(578年)を平定した。579年、淮南を攻め、肥口・寿陽などを陥とした。この功により上大将軍とされた。尉遅迥が挙兵すると行軍総管とされて討伐に赴いた。妹が迥の子に嫁いでおり、迥から金品を貰ったと疑われたが、肝心の戦いでは長安の勇士数百人を率いて大いに活躍し、尉遅迥の首を取る大功を挙げ、上柱国とされた。ただ、迥に堅を罵らせる時間を与えたのを問題視され国公にはされず、武鄉郡公にとどめられた。のち突厥が侵攻してくると行軍総管とされて原州に出陣し、突厥が撤退すると霊武に1ヶ月あまり駐屯したのち帰還して華州刺史とされた。584年、妹が秦王俊に嫁いだ。586年、襄州総管とされた。厳正に法律を執行し、悪人を駆逐した。587年、後梁を滅ぼした。588年、行軍総管とされて陳の長江中流一帯の攻略に赴いた。588年(2)参照。
 ⑸荀朗…字は深明。518~565。侯景の乱が起こると兵を集めて巣湖一帯に割拠した。侯景が西伐に失敗して建康に逃げ帰ると、その後軍を大破した。のち、陳覇先(武帝)に従って北斉軍を大破した。臨川王蒨(文帝)が南皖口の守備に赴くと、これに従った。560年、王琳が平定されると都督霍晉合三州諸軍事・合州刺史とされた。560年(3)参照。

┃狼尾灘・白沙の戦い

 上柱国・〔信州道?〕行軍元帥の楊素が水軍を率いて三峡に向かい、流頭灘に至った。陳将の戚欣は青龍艦百余艘と数千の兵を率いて狼尾灘を守備し、その進路を遮断した。狼尾灘は峻険な地にあったため、隋の将兵はどう攻めていいものか思い悩んだ。
〔ある将は言った。
「堂々と戦いましょう。我らは大軍で、しかも川を下るという優位性もあります。きっと勝つことができましょう。」〕
 すると素は言った。
「我が軍の勝敗はこの一挙にかかっている! もし白昼堂々川を下れば、我らがどう攻めるかが彼奴らに筒抜けになって〔容易に対処されてしまうし、〕川を下るという優位性も、灘の流れが非常に荒く、人が制御できるものではないので失われる。この点から考えるに、夜陰に紛れて戦った方が良いだろう。」
 開府・元帥府司馬の李安も諸将に言った。
「水戦は北人の得意とする所ではない上、陳人は艦船を要害に停泊させている。ゆえに、陳人はきっと油断して警戒を怠っているだろう。夜襲を行なえば賊を破る事ができる。」
 かくて夜襲を仕掛ける事に決した。素は自ら黄龍艦数千艘を率い、兵に枚(声を出さないために口に含む板)を含ませ、安を先鋒として長江を下った。
 また、開府の王長襲に歩兵を率いさせて南岸より欣の別柵を攻撃させ、大将軍〔・荊州刺史〕の劉仁恩に甲騎(重騎兵)を率いさせて北岸より白沙を攻撃させた。夜明け頃、各軍は欣を挟撃し、これを敗走させた。素は欣の兵をみな捕虜とすると、慰労したのち解放し、少しも酷いことをしなかったので、陳人は大いに喜んだ。

 帝はこれを聞くと李安の戦いぶりを褒め称え、詔書を下して慰労して言った。
「陳賊は水戦巧者を自認している上、要害に拠っていたため、いよいよ増長し、官軍は恐れおののいて攻めてこないだろうと高をくくっていた。しかし、開府()が自ら水軍を率いて夜襲を敢行するや、賊徒は撃破されて捕虜とされ、官軍の士気は増し、賊人の肝は潰れる結果となった。これはまことに朕の期待に添うものであり、この報を聞いた時、とても嬉しかった。」

 素は水軍を率いて長江を東下した。艦船は長江を覆い、旌旗や甲冑は日に照り映え、〔威風辺りを払った〕。素は平乗大船に乗り、その出で立ちは雄々しく立派だった。陳人はその姿を遠くから望見すると、恐れてこう言った。
「清河公(楊素)は江神である。」

○資治通鑑
 素曰:「勝負大計,在此一舉。若晝日下船,彼見我虛實,灘流迅邀,制不由人,則吾失其便;不如以夜掩之。」素親帥黃龍數千艘,銜枚而下,遣開府儀同三司王長襲引步卒自南岸擊昕別柵,大將軍劉仁恩帥甲騎自北岸趣白沙
○隋48楊素伝
 及大舉伐陳,以素為行軍元帥,引舟師趣三硤。軍至流頭灘,陳將戚欣,以青龍百餘艘、屯兵數千人守狼尾灘,以遏軍路。其地險峭,諸將患之。素曰:「勝負大計,在此一舉。若晝日下船,彼則見我,灘流迅激,制不由人,則吾失其便。」乃以夜掩之。素親率黃龍數千艘,銜枚而下,遣開府王長襲引步卒從南岸擊欣別柵,令大將軍劉仁恩率甲騎趣白沙北岸,遲明而至,擊之,欣敗走。悉虜其眾,勞而遣之,秋毫不犯,陳人大悅。素率水軍東下,舟艫被江,旌甲曜日。素坐平乘大船,容貌雄偉,陳人望之懼曰:「清河公即江神也。」
○隋50李安伝
 平陳之役,以為楊素司馬,仍領行軍總管,率蜀兵順流東下。時陳人屯白沙,安謂諸將曰:「水戰非北人所長。今陳人依險泊船,必輕我而無備。以夜襲之,賊可破也。」諸將以為然。安率眾先鋒,大破陳師。高祖嘉之,詔書勞曰:「陳賊之意,自言水戰為長,險隘之間,彌謂官軍所憚。開府親將所部,夜動舟師,摧破賊徒,生擒虜眾,益官軍之氣,破賊人之膽,副朕所委,聞以欣然。」

 ⑴楊素…字は処道。生年544、時に45歳。名門弘農楊氏の出で、故・汾州刺史の楊敷の子。若年の頃から豪放な性格で細かいことにこだわらず、大志を抱いていた。西魏の尚書僕射の楊寛に「傑出した才器の持ち主」と評された。多くの書物を読み漁り、文才を有し、達筆で、風占いに非常な関心を持った。髭が美しく、英傑の風貌をしていた。 北周の大冢宰の晋公護に登用されて中外府記室とされた。武帝が親政を始めると死を顧みずに父への追贈を強く求め、許された。のち儀同とされた。詔書の作成を命じられると、たちまちの内に書き上げ、しかも文章も内容も両方素晴らしい出来だったため、帝から絶賛を受けた。575年の北斉討伐の際には志願して先鋒となった。576年に斉王憲が殿軍を務めた際、奮戦した。578年、王軌に従って呉明徹を大破し、治東楚州事とされた。のち陳の清口城を陥とした。楊堅が実権を握るとこれに取り入り、汴州刺史とされたが、滎州刺史の邵公冑の挙兵に遭って進めなくなり、そこで大将軍・行軍総管とされて討伐を命ぜられ、平定に成功した。のち柱国・徐州総管・清河郡公とされ、隋が建国されると上柱国とされた。のち新律の制定に携わった。584年、御史大夫とされ、王誼を弾劾した。のち妻の鄭氏と喧嘩した際に「私がもし天子になったら、そなたに皇后は絶対に務まらぬだろうな!」と言ってしまい、免官に遭った。585年、復帰を許されて信州総管とされ、大規模な艦船建造を行なって陳討伐に備えた。588年、行軍元帥とされて陳討伐に赴いた。588年(2)参照。
 ⑵流頭灘…《読史方輿紀要》曰く、『夷陵州の西百里にある。』
 ⑶もと後梁の大将軍の戚昕(585年に陳の公安を襲撃し、撃退された)か?
 ⑷狼尾灘…《読史方輿紀要》曰く、『流頭灘の下流にあり、西陵(夷陵)の西にある。』《通典》曰く、『今の夷陵郡宜都県界にある。』
 ⑸李安…字は玄徳。唐朝李氏の一族だとされる。鮮卑大野氏? 父の李蔚(岡?)は北周に仕えて朔州総管・相州総管・相(朔?)燕恒三州刺史・襄武県公とされた。美男で、弓馬の扱いに長けていた。北周の天和年間(566~572)に出仕して右侍上士とされ、襄武公の爵位を継いだ。間もなく儀同・少師右上士とされ、文帝が丞相とされると取り立てられて近習とされ、職方中大夫とされた。趙王招が堅を殺害しようとした時、叔父で梁州刺史の李璋が弟の李悊を仲間に誘って内応させようとし、悊がどうしたらいいか相談してくると、「丞相は父のようなお方である。どうして背く事ができようか?」と言って迷わず帝に密告した。間もなく開府・趙郡公とされた。隋が建国されると内史侍郎→尚書左丞→黄門侍郎とされた。588年、伐陳の際には楊素の司馬とされて上流の攻略に赴いた。588年(2)参照。
 ⑹劉仁恩…出身不詳。才気に優れ、文武に秀でていた。徐州刺史を務め、580年、尉遅迥が挙兵すると蘭陵に拠る畢義緒を討った。のち毛州(相州陽平郡。鄴の東北)刺史とされると天下第一の治績を挙げ、584年、それが評価されて刑部尚書とされた。のち荊州刺史とされ、588年、行軍総管とされて楊素と共に長江上流の攻略に当たった。588年(2)参照。
 ⑺白沙…《読史方輿紀要》曰く、『白沙駅は夷陵州の西百二十里にある(? これでは狼尾灘の向こうの流頭灘の更に向こうになってしまう。八十里の誤りではないか?)。』
 ⑻楊素は『五牙』(艦上は旗や幟で飾り、また、五層の櫓を建て、その高さは百余尺(約30m)もあった。また、左右前後に六つの拍竿(テコと滑車を利用して敵艦を打つ竿状の兵器)を据え付け、その高さはどれも五十尺(約15m)あった。また、八百人もの兵士を収容する事ができた)・『黄龍』(兵士百人を乗せる事ができた)・『平乗』・『舴艋』という艦種を建造していた。

┃江中に闘船無し
〔去年、隋が後梁を滅ぼした時、義興王瓛陳慧紀伝では『晋熙王』)と安平王巖は文武官や住民など十万余人(陳慧紀伝では『二万余』)を引き連れて陳に亡命した。のち、徳教学士の沈君道が夢において宮殿の前で長人(巨人)に会い、こう言われた。
「どうして突然叛徒の蕭氏を受け入れ、国を誤らせるような事をしたのか!」
 後主は君道からこの事を聞くと、蕭巖・蕭瓛を忌むようになり、二人が引き連れてきた人々を各地に分散し、巖を東揚州(会稽)刺史とし、瓛を呉州(呉郡)刺史とした。
 また、領軍の任忠を呉興内史とし、二州を監視させた。
 また、南平王嶷を江州刺史とし、永嘉王彦を南徐州刺史としていた[→587年(2)]。〕
 間もなく、帝は二王を翌年の元会(新年拝賀の儀式)に参加させるために建康に呼びつけた。この時、長江沿岸の諸防にある艦船をみな二王の還都に従わせ、艦隊の威容をもと後梁の人々に見せつけて叛心を失わせようとした。このため、長江には〔建康周辺以外〕一隻も軍艦がいなくなってしまった。上流諸州の軍艦は楊素軍の侵攻の対応に追われ、建康に行くことはできなかった。

○資治通鑑
 江濱鎭戍聞隋軍將至,相繼奏聞;施文慶、沈客卿並抑而不言。
○陳後主紀
〔諸軍既下,〕緣江(江濱)鎮戍,相繼奏聞。時新除湘州刺史施文慶、中書舍人沈客卿掌機密用事,並抑而不言,故無備禦。〔…尋召二王赴期明年元會,命緣江諸防船艦,悉從二王還都為威勢,以示梁人之來者,由是江中無一鬬船。上流諸州兵,皆阻楊素軍不得至。〕

 ⑴11月7日に江州刺史の南平王嶷を郢荊湘三州諸軍事・郢州刺史とし、南徐州刺史の永嘉王彦を都督江巴東衡三州諸軍事・江州刺史とし、南海王虔を安北将軍・南徐州刺史としていたが、赴任する前に隋の侵攻に遭った。

┃湘州刺史交代
 これより前、信威将軍(四品)・督湘衡武桂四州諸軍事・湘州刺史の晋熙王叔文は在職既に久しく(584年5月〜)、大いに州民の支持を得ていた。後主は湘州が長江の上流にある事を以て密かに叔文を警戒し(もし叛乱を起こされた時、水戦は上流の方が有利だから?)、〔交代させる事にした〕。ただ、帝は平素から〔近臣以外の〕臣下に対し少恩しか与えていないのを自覚していたため、誰を選んでも自分の役に立ってくれないだろうと心配し、そこでやむなく〔自分の腹心で中書舎人・太子左衛率の〕施文慶を抜擢して都督・湘州刺史とし、精兵を配して西上するよう命じ、同時に叔文に建康に帰還するよう命じた。
 文慶は重鎮の湘州の刺史となれることに非常に喜んだが、ただ都の外にいる間に後任の者に讒言されるのを恐れ、そこで自分の党人〔で中書舎人〕の沈客卿を前もって自分の後任に推薦しておいた。しかし、文慶が出発する前に、隋軍の侵攻の報が相次いで入ってきた。

○資治通鑑
 自度素與羣臣少恩,恐不為用,無任者,乃擢施文慶為都督、湘州刺史,配以精兵二千
○陳28晋熙王叔文伝
 禎明二年,秩滿,徵為侍中、宣毅將軍,佐史如故。未還,而隋軍濟江,破臺城,隋漢東道行軍元帥秦王至于漢口。時叔文自湘州還朝,至巴州。
○陳31施文慶伝
 有施文慶者,吳興烏程人,起自微賤,有吏用,後主拔為主書,遷中書舍人,俄擢為湘州刺史。未及之官,會隋軍來伐,四方州鎮,相繼以聞。文慶、客卿俱掌機密,外有表啟,皆由其呈奏。文慶心悅湘州重鎮。
○南77施文慶伝
 禎明三年,湘州刺史晉熙王叔文在職既久,大得人和,後主以其據有上流,陰忌之。自度素與羣臣少恩,恐不為用,無所任者,乃擢文慶為都督、湘州刺史,配以精兵,欲令西上,仍徵叔文還朝。文慶深喜其事,然懼居外,後執事者持己短長,因進其黨沈客卿以自代。未發間,二人共掌機密。時隋軍大舉,分道而進。

 ⑴晋熙王叔文…字は子才。宣帝(後主の父)の第十二子。母は袁昭容。軽率・陰険・見栄っ張りな性格だったが、非常な読書家という一面もあった。575年に晋熙王とされた。582年、宣恵将軍(四品)・丹陽尹とされた。583年正月~2月、軽車将軍(五品)・揚州刺史とされた。4月、江州(湓城。建康の西南)刺史とされた。584年、信威将軍(四品)・督湘衡武桂四州諸軍事・湘州刺史とされた。584年(2)参照。
 ⑵湘州刺史は584年に晋熙王叔文が、587年に岳陽王叔慎が任命されている。晋熙王叔文伝には叔文は翌年の禎明二年(588)に任期満了で中央に呼び戻されたとある。施文慶伝の話には叔慎が無視されており、齟齬がある。
 ⑶沈客卿…呉興郡武康県の人。美男で頭が良く、弁才があり読書家で、施文慶と幼馴染で仲が良かった。陳に仕え、次第に昇進して尚書儀曹郎とされた。非常に故事に通じ、人々が朝廷の制度や儀礼で判断に迷うことがあると自分の意見を押し通した。至徳年間(583~586)の初めに中書舍人・兼步兵校尉とされ、金帛局(中書省二十一局の一つ)を司った。後主が宮殿の造営を盛んに行なうなどして財政が悪化すると、そのつど臨時の税を作って人民から搾り取ることに血道を上げ、結果、税収がこれまでの数十倍になったため、帝に大いに気に入られて、左衛将軍とされ、舍人はそのままとされた。585年(3)参照。

┃建康評定
 この時、護軍将軍の樊毅は尚書僕射の袁憲にこう言った。
「都の下流の玄関口の京口(南徐州。広陵の対岸)と、上流の玄関口の采石(歴陽の対岸)におのおの五千の兵と金翅船二百を配し、防備を固めるべきです。さもないと我が国の勝ち目は無くなるでしょう。」
 驃騎将軍の蕭摩訶および文武群臣も賛同した。文慶は〔侵攻の報を帝に伝えると、京口・采石に兵が回る事になって〕自分が湘州に連れて行く兵がいなくなる事や、最悪の場合自分の湘州刺史就任が沙汰止みになる可能性があるのを危惧した。また、客卿も客卿で、文慶を早く湘州に赴任させて思う存分権力を振るいたいと考えていたので、こう答えて言った。
「各自意見はあると思いますが、全員が全員いちいち陛下に面と向かって言上する事はできません。ただ、上奏文を作ってくださいましたら、私たちが責任を持って全て陛下にお渡しいたしましょう。」
 憲らはこれに従った。当時、文慶・客卿の二人は共に重要事項を司り、上奏文はみな二人を経由してから帝のもとに渡っていた。二人は憲らが書いた上奏文を持って帝に会うとこう言った。
「このようなことは日常茶飯事の事であり、国境の守備隊だけで充分防ぐ事ができます。それに、もし無闇に兵や船を動かしますと、〔人々はすわ大事かと思い、〕きっといらぬ騒擾を引き起こす事になるでしょう。」

 隋軍が長江に到り、間諜が頻繁に姿を見せるようになると、袁憲らは熱心に再三に亘って上奏文を提出し〔、防備を整えるよう求め〕た。すると、施文慶らは後主にこう言った。
「元会の日が迫っておりますし、南郊の祭祀[1]の際には太子に多くの兵を従わせて警護せねばなりません。今もし出兵してしまうと、元会も南郊の祭祀もやめざるを得なくなります。」
 帝は言った。
「今もし出兵したとしても、北辺が無事ならすぐに引き返す事ができるゆえ、間に合うのではないか?」
 文慶は答えて言った。
「そのような気弱な事をなさっては、我が国が弱体である事を天下に喧伝してしまう事になります。」
 のち、文慶は江総に賄賂を贈り、帝を説得させた。帝は総の意に違いたくなかったが、群官の要請を拒み切れず、やむなく出兵について討議させる事にした。総がそこで憲らに圧力を加えると、討議は膠着状態に陥った。

○資治通鑑
 又抑憲等,由是議久不決。【陳仍梁制,以間歲正月上辛祀天地於南、北二郊,用特牛一。蓋來年正月當行此禮,故施文慶云然。】
○陳31樊毅伝
 入為侍中、護軍將軍。及隋兵濟江,毅謂僕射袁憲曰:「京口、採石,俱是要所,各須銳卒數千,金翅二百,都下江中,上下防捍。如其不然,大事去矣。」諸將咸從其議。會施文慶等寢隋兵消息,毅計不行。
○陳31施文慶伝
 有施文慶者,吳興烏程人,起自微賤,有吏用,後主拔為主書,遷中書舍人,俄擢為湘州刺史。未及之官,會隋軍來伐,四方州鎮,相繼以聞。文慶、客卿俱掌機密,外有表啟,皆由其呈奏。文慶心悅湘州重鎮,冀欲早行,遂與客卿共為表裏,抑而不言,後主弗之知也,遂以無備,至乎敗國,寔二人之罪。
○南77施文慶伝
 禎明三年,湘州刺史晉熙王叔文在職既久,大得人和,後主以其據有上流,陰忌之。自度素與羣臣少恩,恐不為用,無所任者,乃擢文慶為都督、湘州刺史,配以精兵,欲令西上,仍徵叔文還朝。文慶深喜其事,然懼居外,後執事者持己短長,因進其黨沈客卿以自代。未發間,二人共掌機密。時隋軍大舉,分道而進,尚書僕射袁憲、驃騎將軍蕭摩訶及文武羣臣共議,請於京口、采石各置兵五千,并出金翅二百,緣江上下,以為防備。文慶恐無兵從己,廢其述職,而客卿又利文慶之任己得專權,俱言於朝曰:「必有論議,不假面陳,但作文啟,即為通奏。」憲等以為然。二人齎啟入白後主曰:「此是常事,邊城將帥,足以當之。若出人船,必恐驚擾。」
 及隋軍臨江,間諜驟至,憲等慇懃奏請,至于再三。文慶等曰:「元會將逼,南郊之日,太子多從,今若出兵,事便廢闕。」後主曰:「今且出兵,若北邊無事,因以水軍從郊,何為不可。」又對曰:「如此,則聲聞鄰境,便謂國弱。」後又以貨動江總,總內為之游說,後主重違其意,而迫羣官之請,乃令付外詳議,又抑憲等,由是未決,而隋師濟江。
○南77孔範伝
 隋師將濟江,羣官請為備防,文慶沮壞之,後主未決。

 ⑴樊毅…字は智烈。樊文熾の子で、樊文皎の甥。武芸に優れ、弓技に長けた。陸納の乱の際には巴陵の防衛に活躍した。江陵が西魏に攻められると救援に赴いたが捕らえられ、後梁の臣下となった。556年に梁の武州を攻めて刺史の衡陽王護を殺害したが、王琳の討伐を受けて捕らえられた。その後は琳に従った。560年、王琳が敗れると陳に降った。のち荊州攻略に加わり、次第に昇進して武州刺史とされた。569年、豊州(福建省東部)刺史とされた。のち左衛将軍とされた。573年、北伐に参加し、大峴山にて高景安の軍を大破した。また、広陵の楚子城を陥とし、寿陽の救援に来た援軍も撃破した。また、済陰城を陥とした。575年、潼州・下邳・高柵など六城を陥とした。578年、朱沛清口上至荊山縁淮諸軍事とされ、淮東の地の軍事を任された。清口に城を築いて北周と戦ったが撃退された。のち中領軍とされた。北周が淮南に攻めてくると都督北討諸軍事とされた。のち都督荊郢巴武四州水陸諸軍事とされ、580年、司馬消難が帰順してくると督沔漢諸軍事とされた。581年、中護軍→護軍→荊州刺史とされた。後主が即位すると征西将軍とされた。585年、中央に呼ばれて侍中・護軍将軍とされた。585年(1)参照。
 ⑵袁憲…字は徳章。名門陳郡袁氏の出で、故・尚書左僕射の袁枢の弟。生年529、時に60歳。聡明・好学で度量があり、非常な神童ぶりを見せた。貴公子を以て梁の簡文帝の娘を娶った。548年に太子舍人とされ、侯景の乱が起こると呉郡に逃れ、父が亡くなると非常に嘆き悲しんだ。のち陳覇先に仕えて中書侍郎とされた。557年に北斉に派遣されたが抑留を受け、天嘉年間(560~566)の初めにようやく帰国を許された。564年、再び中書侍郎とされ、569年に給事黄門侍郎、570年に吏部侍郎とされた。間もなく太子叔宝に近侍した。571年、御史中丞とされると、皇子であろうと容赦無く弾劾し、人々の襟を正させた。また、法律に詳しかったため、非常に多くの者を冤罪から救った。のち南康内史とされ、577年、兼吏部尚書とされた。581年、尚書右僕射とされ、引き続き人事に関与した。582年、宣帝が死ぬと後事を託された。始興王叔陵の乱が起こるとその鎮圧の指揮を執った。この功により建安県伯・領太子中庶子とされた。重傷を負った後主に後事を託されたが、「人々はただただ聖躬(陛下)のご回復を祈っております。後事の旨はまだ受け入れられませぬ」と断った。間もなく領太子中庶子→太子詹事とされた。585年、引退を求めたが許されなかった。太子胤が訓戒を殆ど守らなかったため、十条に亘る諫言書を渡したが響く事は無かった。蔡徴が太子の廃立を持ち出すとこれを非難し、帝に「袁徳章(憲の字)はまことに硬骨の臣である。」と感嘆された。588年(1)参照。
 [1]陳制では、正月上辛(上旬の辛の付く日)に、隔年で南郊にて天を、北郊にて地を祀った。 大きな雄牛一頭を生贄に用いた。恐らく来年は南北郊祭祀がある年だったのだろう(陳書では南北郊祭祀は577年以降記述が無いが、この調子で続けていけば589年が南北郊祭祀のある年となる)。

┃長江天塹
 後主はある時、おもむろに言った。
「帝王の気は我が朝にある。昔、斉兵が三度、周兵が二度侵攻してきたが、敗北せぬものは無かった[1]。今、北虜どもが攻めてきても、きっと敗れることだろう。」
 都官(隋の刑部)尚書の孔範が上奏して言った。
「長江は天が創りたもうた堀であり、いにしえより南北を分断してきました[2]。その長江を、今どうして北虜が飛び越えてこれるでしょうか? 辺境の将軍たちが急を告げているのは、〔大敵を追い払ったという〕功を得ようとしてでまかせを言っているだけに過ぎません。かくいう臣も、常々自分の官位が低いのが不満でありました。〔彼らの言う通りに〕北虜どもが長江を渡ってきたら、〔臣はこれを撃破いたしますゆえ、その時は〕臣を太尉公にしてくださいませ。」[3]
 ある者が証拠も無く隋軍の馬が〔大量に〕死んだと報告した。範は言った。
「私の馬〔になる予定〕だったのに、どうして死んでしまったのだ。」[4]
 帝はこれを聞くと笑ってその通りだと考え、遂に〔安心しきって〕厳重な防備を敷くのをやめ、〔再びいつものように〕妓女に音楽を演奏させ、飲酒や作詩に明け暮れる日々を送るようになった。

○資治通鑑
 帝從容謂侍臣曰:「王氣在此。…」【齊師三來,謂梁敬帝紹泰元年徐嗣徽、任約以齊師襲建康,據石頭。太平元年,復襲破采石, 與齊蕭軌同入寇,逼建康。世祖元嘉元年,齊將劉伯球、慕容恃德助王琳下蕪湖,皆敗。周師再來,謂天嘉元年獨孤盛、賀若敦入湘川,臨海王光大元年,宇文直、 元定助華皎,皆敗。】【魏文帝伐吳,臨江,見江濤洶湧,歎曰:「固天所以限南北也。」】【孔範自謂兼資文武,故大言自詭立功。自晉、宋以來,率謂三公為太尉公、司徒公、司空公。】【言馬若渡江,必不能北歸,將悉為我有,亦大言也。】
○三国孫権伝
 吳錄曰:是冬魏文帝至廣陵,臨江觀兵,兵有十餘萬,旌旗彌數百里,有渡江之志。權嚴設固守。時大寒冰,舟不得入江。帝見波濤洶涌,歎曰:「嗟乎!固天所以隔南北也!」遂歸。
○南斉州郡志
 魏文帝伐吳出此,見江濤盛壯,歎云:「天所以限南北也。」
○隋五行志心腹之痾
 陳禎明三年,隋師臨江,後主從容而言曰:「齊兵三來,周師再來,無弗摧敗。彼何為者?」都官尚書孔範曰:「長江天塹,古以為限隔南北。今日北軍豈能飛渡耶?臣每患官卑,彼若渡來,臣為太尉矣。」後主大悅,因奏妓縱酒,賦詩不輟。心腹之痾也。存亡之機,定之俄頃,君臣旰食不暇,後主已不知懼,孔範從而蕩之,天奪其心,曷能不敗。陳國遂亡,範亦遠徙。
○南77孔範伝
 隋師將濟江,羣官請為備防,文慶沮壞之,後主未決。範奏曰:「長江天塹,古來限隔,虜軍豈能飛度?邊將欲作功勞,妄言事急。臣自恨位卑,虜若能來,定作太尉公矣。」或妄言北軍馬死,範曰:「此是我馬,何因死去。」後主笑以為然,故不深備。

 [1]斉師三来は紹泰元年(555)の徐嗣徽・任約〔・柳達摩〕の建康侵攻、太平元年(556)の蕭軌の建康侵攻、元嘉元年(560)の慕容儼の王琳援護の事であり、周師再来は天嘉元年(560)の賀若敦の湘州侵攻、光大元年(567)の衛公直・拓跋定の華皎援護の事である。
 ⑴孔範…字は法言。会稽山陰の人。読書家。宣帝の時に宣恵江夏王長史とされた。後主が即位すると都官尚書とされ、江総らと共に『狎客』の一員となった。立ち居振る舞いが上品で、作る文章も華麗で、五言詩を得意としたので、後主からもっとも親愛を受けた。帝が何か悪事を犯した時には美化した文章を書いてこれを誤魔化す役目を任された。孔貴嬪が帝から非常な寵愛を受けているのを知ると、義兄妹の関係を結び、それによっていよいよ帝から寵遇を受けるようになり、どのような意見でも聞き入れられるに至った。帝に将軍たちから兵を奪うよう進言して自分のもとに所属させ、武将たちの心を離れさせた。後主が「周左率(羅睺)は武将であるのに、いつも文士よりも先に詩を完成させる。文士たちはどうして左率の後になるのだ?」と聞くと、「周羅睺は作詩も戦闘も他者に引けを取りません」と答えた。588年(1)参照。
 [2]〔黄武四年(225)、〕曹魏の文帝は孫呉討伐に赴いた際、長江が荒れ狂っていたため渡ることができず、こう嘆息して言った。「もともと、天が〔長江を以て〕南北を分断しているのだ。」
 [3]孔範は文武両道を自認していたため、自分の実力を偽って功を立てる事ができると大言を吐いたのである。晋・宋以降、太尉公・司徒公・司空公が三公と呼ばれた。
 [4]隋軍の騎兵が長江を渡った場合、必ず自分に敗れて帰ることができず、馬は全て自分のものとなると大言を吐いたのである。

┃莫何可汗の死

 この年、東突厥の莫何可汗が西突厥を攻撃中、流れ矢に当たって死んだ。
 東突厥の人々は〔莫何の兄の沙鉢略可汗の子の〕雍虞閭を可汗とした。これが頡伽施多那都藍可汗である(以後都藍可汗と記す)。都藍可汗は隋に使者を送って即位した事を報告し、反物三千段を与えられた。
 隋は長孫晟を弔問の使者として東突厥に派遣し、陳が献上してきた宝物を都藍に与えた。

○資治通鑑
 突厥莫何可汗西擊鄰國,中流矢而卒。
○隋51長孫熾伝
 八年,處羅侯死,遣晟往弔,仍齎陳國所獻寶器以賜雍閭。
○隋84突厥伝
 其後處羅侯又西征,中流矢而卒。其眾奉雍虞閭為主,是為頡伽施多那都藍可汗。雍虞閭遣使詣闕,賜物三千段。

 ⑴莫何可汗…処羅侯。沙鉢略可汗の弟。顎が長く、背が曲がっていたが、眉目秀麗で、勇敢なうえ智謀も備えていた。突利設(テリス〈東面〉・シャド〈諸侯〉)→突利可汗?とされ、突厥を分割統治した。人々から最も人気があったので沙鉢略から危険視された。そのため、北周の使者として突厥に来ていた長孫晟と友好関係を結び、その偵察活動を支援した。晟に『野心は大きいものの兵力が微弱なので、人気取りに努め、人々から愛されるようになりましたが、そのため兄から警戒を受けるようになり、表面上は平静を装ってはいるものの、内心は非常な不安を抱いている。我ら(隋)が処羅侯と結んで彼に奚・霫族と連合させれば、摂図(沙鉢略)は兵を分けて東方の防衛に追われる』と評された。のち隋の使者としてやってきた晟の訪問を受け、味方に付くよう誘いをかけられた。587年、兄が死ぬと可汗となり、阿波可汗を大破した。587年(1)参照。
 ⑵雍虞閭…沙鉢略可汗の子。父が死ぬと弟の処羅侯を後継に立て、葉護(副可汗)とされた。587年(1)参照。
 ⑶長孫晟…字は季晟。生年552、時に37歳。上儀同の長孫熾の弟で、上柱国・薛国公の長孫覧の甥。聡明で、大の読書家だった。また、弾弓と通常の弓の扱いに長け、当時の北周の貴族の子弟の中で一番の騎前を誇った。早くに楊堅に才能を認められ、「長孫郎の武芸が抜群の腕前だというのは知っていたが、今話してみると頭脳も明晰なのが分かった。未来の名将は、この子ではないか?」と絶賛を受けた。580年、千金公主が突厥に赴く際、その副使とされた。摂図(のちの沙鉢略可汗)に気に入られ、突厥領内で年を越した。その地勢や部落の強弱を全て知ることに成功し、北周に帰ると宰相の普六茹堅(のちの隋の文帝)に仔細に報告した。隋が建国されると離間策を進言し、車騎将軍とされて奚・霫・契丹経由で突利可汗(処羅侯)のもとに赴き、説得を行なった。582年、沙鉢略可汗が侵攻してくると沙鉢略の子の染干を説得し、「鉄勒らが叛乱を起こし、本拠を襲おうとしております」と嘘をつかせて撤退させた。583年、竇栄定軍の一部将として高越原の戦いに参加し、阿波可汗に対し離間の計を行なった。584~5年頃に沙鉢略のもとに赴き、臣と称させる事に成功した。587年、莫何可汗が即位すると鼓吹と幡や旗を贈る使者とされた。莫何が阿波可汗の処遇をどうするか隋に尋ねてくると殺さないよう進言した。587年(1)参照。

┃吐谷渾亡命者への対応
 この年、吐谷渾の名王(部落の王)の拓抜木弥が千余家を連れて帰順を求めてきた。文帝は言った。
「天下の人々はみな朕の臣であり、たとえ僻地に住む未開の民であっても仁・孝の精神を以て撫育するのを旨としている。渾賊(夸呂可汗)は無軌道で凶暴であるため、その妻子は共に身の安全を図るため亡命を打診してきた。ただ、夫や父に叛いた者を受け入れるのは孝の道義上宜しくない。しかし、命の危険から逃れようとしてきた者を受け入れないのも仁の精神に藩する。そこで、以後もし再び亡命を打診してきた場合は、こちらからは慰撫の言葉を伝えるだけにとどめ、脱出は自力で行なわせ、応接の兵は出さない事とする。その妹の夫や甥についても同じように対応し、自分の意志で決定させ、こちらから勧誘はしない事とする。」[1]

 また、隋の河南王の慕容移茲裒が死んだ。帝はその弟の慕容樹帰に遺衆を統治させた。

○資治通鑑
 吐谷渾裨王拓跋木彌。【所謂「叛夫背父」、「妹夫及甥」,當時必皆有主名,而史不詳紀。《隋書》作「名王拓跋木彌」,「裨王」亦用《漢書》語。
○隋83吐谷渾伝
 八年,其名王拓拔木彌請以千餘家歸化。上曰:「溥天之下,皆曰朕臣,雖復荒遐,未識風教,朕之撫育,俱以仁孝為本。渾賊惛狂,妻子懷怖,並思歸化,自救危亡。然叛夫背父,不可收納。又其本意,正自避死,若今遣拒,又復不仁。若更有意信,但宜慰撫,任其自拔,不須出兵馬應接之。其妹夫及甥欲來,亦任其意,不勞勸誘也。」是歲河南王移茲裒死,高祖令其弟樹歸襲統其眾。

 ⑴夸呂可汗…慕容夸呂。吐谷渾可汗。初めて可汗を名乗って伏俟城を本拠とし、王・公・僕射・尚書・郎中・将軍などの中国風の官名を用いた。556年、突厥・西魏連合軍が攻めてくると賀真に避難し、妻子を捕虜とされた。559年、北周の涼州を攻めたが、討伐を受けて洮陽・洪和の地を失った。以降は使者を派遣して北周と友好関係を結んだが、576年に国内が乱れると討伐を受けて再び都を捨てて避難した。581年、隋の涼州・弘州に侵攻し、隋の討伐を受けるとまた都を捨てて避難した。583年、臨洮(旭州)に侵攻した。586年(2)参照。
 ⑵586年に吐谷渾の太子の嵬王訶が誅殺されるのを恐れ、隋に亡命する事を図り、迎えの軍を出してくれるよう求めたが断られている。
 [1]妻子・妹の夫・甥の名前を史書は記していない。また、《通鑑》では《漢書》の語を使用し、名王』を『裨王』と記している(顔師古曰く、『裨王とは、小王の事である)。
 ⑶移茲裒…もと吐谷渾の高寧王。581年の隋の吐谷渾討伐の際に投降した。この時、投降してきた吐谷渾の王侯の中で一番人気があるのを評価され、大将軍・河南王とされ、投降者たちの統治を任された。581年(4)参照。


 589年(1)に続く