┃尉景との対立
 これより前、〔高歓の姉の夫の〕尉景は果下馬(三尺の高さしか無く、果樹の下でも乗ることができた。珍しい)を持っていた。高澄がこれを求めると、景は断ってこう言った。
「土塀は土を時間をかけて盛って初めてできる。王の位は人と時間をかけて協力し合って初めて得ることができる。この馬も、この二者と同じく、時間をかけて養育して初めて得ることができるのだ。求めれば得られるものではない!」
 歓は景からこの事を聞くと、景と常山君歓の姉)の前で澄を杖打ちの刑に処させた。常山君が泣いてこれをかばうと、景はこう言った。
「この小僧っ子はこうでもしないとますますつけ上がる! それなのに、なんでお前は泣いてまでして止めだてするのだ!」

 その景が、現在(542年)、逃亡者を匿った罪で〔使持節・侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司・大行台(京畿?山東?)尚書令・摂吏部尚書・領左右・京畿大都督・勃海王世子の〕高澄時に22歳)により拘禁とされた。景は大行台左丞・吏部郎の崔暹に澄へこう言伝を頼んだ。
「阿恵(高澄の字は子恵。恵坊と言っているようなもの)よ、お前が富貴でいるのは誰のおかげか! 恩人のわしを殺すつもりか!」
 高歓は景が命の危険に晒されているのを聞くや、孝静帝に涙ながらにこう言った。
尉景がいなければ、臣は死んでおりました!」
 かくて歓が三たび助命を求めると、帝はこれを許した。

興和四年(542)5月丁亥(22日)、景は助命はされたものの、驃騎大将軍・開府儀同三司のみに降格された。
 歓が景のもとに訪れると、景はふて寝をして起き上がらず、こう叫んだ。
「わしを殺しに来たのか!」
 常山君は歓にこう言った。
「老い先短い年寄りを、そう急いて殺すことは無いでしょう!」
 それから歓に自分の掌を見せてこう言った
「私の手のタコは、むかしお前のために水を汲んだからできたのですよ。〔お前はその夫を殺そうというのですか?〕」
 歓は景のもとに行くと、膝を曲げてその体を撫で、謝った。

10月、己亥(6日)高歓が西魏の玉壁を囲み、宇文泰が救いに来るのを待ち受けたが、泰はその手には乗らなかった。玉壁も王思政の抵抗に遭って陥とせなかった。
 11月、癸未(21日)、歓軍はおよそ九日に渡って大雪に遭い、多くが飢えや凍えによって死んだ。歓はそこで囲みを解いて撤退した。〕

○魏孝静紀
 夏四月…丁亥,太傅尉景坐事降為驃騎大將軍、開府儀同三司。
○北斉15尉景伝
 改長樂郡公。歷位太保、太傅,坐匿亡人見禁止。使崔暹謂文襄曰:「語阿惠兒,富貴欲殺我耶!」神武聞之泣,詣闕曰:「臣非尉景 ,無以至今日。」三請,帝乃許之。於是黜為驃騎大將軍、開府儀同三司。神武造之,景恚臥不動,叫曰:「殺我時趣耶!」常山君謂神武曰:「老人去死近,何忍煎迫至此。」又曰:「我為爾汲水胝生。」因出其掌。神武撫景,為之屈膝。先是,景有果下馬,文襄求之,景不與,曰:「土相扶為牆,人相扶為王,一馬亦不得畜而索也。」神武對景及常山君責文襄而杖之。常山君泣救之。景曰:「小兒慣去,放使作心腹,何須乾啼濕哭不聽打耶!」

 ⑴尉景…字は士真。もと尉遅氏。高歓の姉の夫。歓が幼くして母を喪うと引き取って養育した。歓が爾朱氏に対して兵を挙げるとこれに従い、鄴の留守を任されるなどした。親族であることから重用されたが、金に汚かったためよく叱責された。太保→太傅を歴任したが、罪人を匿った罪で高澄の勘気を蒙り、開府に官位を落とされた。青州刺史とされると操行を改めて善政を行なった。のち大司馬とされたが、鄴に行く前に州で死去した。
 ⑵高歓は幼くして母と死別すると、姉の夫の尉景の家で育てられた。つまり、景がいなければ歓は生きるを得ず、その子の澄も生きて富貴の身分を謳歌することができなかったのである。

┃高仲密の乱
 東魏の高仲密慎。高敖曹の兄)は御史中尉とされた時、御史の多くを親戚や同郷の者から選び、名望のある者を用いなかったので、澄に改選を命じられた。
 また、仲密は澄の腹心で吏部郎中の崔暹の妹を妻としていたが、これを離縁してしまい、新たに趙郡の李徽伯の娘の李昌儀を妻に迎えた。
 昌儀は才色兼備であり、文書の作成(書記)や乗馬を得意とした。仲密は滄州刺史だった時、顕公という僧侶を非常に尊重し、毎夜これと談義を行なってなかなか寝床に就こうとしなかった。昌儀はこれを不満に思い、仲密に顕公の悪口を吹き込んでとうとう殺させてしまった。
 澄は昌儀の美しさを耳にすると関係を迫った。昌儀はこれに抵抗し、着衣がボロボロの状態で仲密のもとに逃れ、澄に襲われたことを告げた。仲密はこれ以降、澄への憎しみが募った。また仲密は狷介な性格だったため、暹が〔妹のために〕自分を陥れようと画策しているのではないかと疑い(北斉21高慎伝)、〔暹が望む〕弾劾をほとんど行わなくなり、人が法を犯しても殆ど見てみぬふりをするようになった。高歓がこれを叱責すると、仲密はいよいよ自らの身を案ずるようになり、遂に西魏に投じようと考えるまでになった。

武定元年(543)2月、壬申(12日)、仲密が北豫州(虎牢)にて叛乱を起こし、西魏に付いた。〕


○北斉21高慎伝
 尋徵為御史中尉,選用御史,多其親戚鄉閭,不稱朝望,世宗奏令改選焉。慎前妻吏部郎中崔暹妹,為慎所棄。暹時為世宗委任,〔乃為暹高嫁其妹,禮夕,親臨之。慎後妻趙郡李徽伯女也,豔且慧,兼善書記,工騎乘。慎之為滄州【[三二]慎之為滄州甚重沙門顯公 按下云顯公為慎妻李氏所構,被殺。李氏為慎後妻,必在崔氏被出之後。據本書卷三二崔暹傳云:「避地渤海,依高乾,以妹妻其弟慎。慎後為滄、光二州,啟暹為長史,委以職事。」則當慎為滄州刺史時,與暹相處甚洽,豈得遽棄其妹?且慎為滄州,在中興初見北齊書卷二一高慎傳,為時甚早。此「滄州」當為「兗州」之誤。據北齊書,慎於元象初出為兗州刺史,後方入為御史中尉。與崔暹受高澄重用之時間,正相符合。】,甚重沙門顯公,夜常語,久不寢。李氏患之,構之於慎,遂被拉殺。文襄聞其美,挑之,不從,衣盡破裂。李以告慎,慎由是積憾,且〕慎謂其搆己,性既狷急,積懷憤恨,因是罕有糾劾,多所縱舍。高祖嫌責之,彌不自安。出為北豫州刺史,遂據武牢降西魏。
○北斉30崔暹伝
 暹少為書生,避地渤海,依高乾,以妹妻乾弟慎。慎後臨光州,啟暹為長史。
○北斉34楊愔伝
 有宮人李昌儀者,北豫州刺史高仲密之妻,坐仲密事入宮。
 
┃崔暹を守れ
 高歓は仲密が叛した理由が崔暹にあることを知ると、これを殺そうとした。しかし澄(時に23歳)が暹を匿って助命を何度も願ってくると、歓はこう言った。
「お前に免じて命は許してやるが、杖打ちにだけは遭ってもらうぞ。」
 澄はそこで暹を歓に引き渡したが、一方で大行台都官郎の陳元康孫搴が死ぬとこれに代わって歓の片腕となった。533年参照)にこう言いつけた。
崔暹への杖打ちを絶対に阻止せよ。失敗したら二度と顔を合わせるな。」
 元康が歓のもとに駆けつけたとき、暹は歓の前に引き立てられ、服を脱がされて今にも杖打ちを受ける所だった。元康はまず兵士に声をかけて杖打ちをやめさせてから、階段を上って歓にこう言った。
「大王殿下は天下を世子(澄。元康伝では『大将軍』。澄が大将軍に任じられたのは武定二年〈544〉)に託されたはず。その世子が崔暹の杖打ちすら撤回できぬなら、群臣はみな殿下に何も言えなくなるでしょう!」
 歓はこれを聞くと暹への杖打ちをやめ、こう言った。
「元康がいなければ、暹は今頃百回の杖打ちに遭っていただろう。」

○北斉24・北55陳元康伝
 高仲密之叛,高祖知其由崔暹故也,將殺暹。世宗匿而為之諫請。高祖曰:「我為舍(不殺)其命,〔然〕須與苦手。」世宗乃出暹而謂元康曰:「卿若使崔得杖,無相見也(不須見我)。」〔及〕暹在廷〔見神武〕,解衣將受罰。元康趨入,〔止伍伯,因〕歷階而昇,且言曰:「王方以天下付大將軍(世子),〔世子〕有一崔暹不能容忍(免其杖)〔,父子尚爾,況世間人〕耶?」高祖從(意解曰:「不由元康,崔暹得一百。」)而宥(乃捨之)焉。

 ⑴陳元康…字は長猷。507~549。広宗の人。父は済陰内史の陳終徳。非常な読書家で、物事を手際よく処理した。また、分かりやすい文章を書き、無闇に飾り立てることをしなかった。正光年間(520〜524)に李崇の北伐に従軍し、軍功を挙げて臨清男の爵位を授かった。のち主書となり、次第に昇進して司徒の高敖曹の記室となった。536年、高季式に「夜陰の中でも文章を書くことができる快吏」と推薦されて高歓の大丞相府功曹参軍とされ、機密事項に携わる事を許された。のち大行台都官郎に昇進し、安平子に封じられた。当時、国家の事務は複雑多岐に渡ったが、どれを聞かれても答えることができた。また、歓に九十余に渡る指令を発されても、その全てを記憶することができた。大丞相府功曹参軍の趙彦深と共に『陳・趙』と並び称されたが、決して驕ることなく、穏やかで謙虚な性格を変えなかったため、歓に「かような者は滅多におらぬ。上天からの授かりものである」 と絶賛された。ただ好色で、祖珽らと共に乱交した事があった。

┃父からの暴行
 これより前、高歓高澄に怒り、口汚く罵りながら殴る蹴るの暴行を加えたことがあった。歓がこの事を陳元康に伝えると、元康は地面に泣き伏してこう言った。
「王は世子へのしつけが厳しすぎます!」
 すると歓はこう言った。
「わしはせっかちだから、いつもこういう風に阿恵()に怒ってしまうのだ。」
 それを聞くと元康は号泣してこう言った。
「ひとたび度を過ぎたことをなされましたら、以降ずっとそのようになさるようになるでしょう!」
 また、こう言った。
「王が世子をしつける方法にも作法というものがございます。人々の手本となられるべきお方が、このようなことをしていいものでしょうか。」
 歓はこれを聞き入れ、以後怒りを極力抑えるようになった。それでも我慢できずに鞭打ってしまった時は、澄にこう口止めをした。
「元康には言うでないぞ。」
 歓が元康を敬い憚ることはこのようであった。
 また、歓は左右の者にこう言ったことがあった。
「元康は誠実の塊だから、必ず我が子と生死を共にしてくれるだろう。」

○北斉24・北55陳元康伝
 高祖嘗怒世宗,於內親加毆蹋,極口〔肆〕罵之,出以告元康。元康〔俯伏泣下霑地〕諫曰:「王教訓世子,自有禮法,儀刑式瞻,豈宜至是。」言辭懇懇,至于流涕。〔神武曰:「我性急,瞋阿惠,常如此。」元康大啼曰:「一度為甚,況常然邪!」〕高祖從此為之懲忿。時或恚撻,輒曰:「勿使元康知之。」其敬憚如此。〔又謂左右曰:「元康用心誠實,必與我兒相抱死。」〕

┃高仲密の余塵
3月、歓が仲密の乱に呼応して洛陽に攻め込んできた西魏軍を大破した。仲密は西魏に亡命した。〕

 これより前、仲密は叛乱を起こす前に密かに人を故郷の冀州に遣り、豪族たちを扇動して内応をさせていた。しかし、東魏が尚書右僕射の封隆之冀州の名族出身。高歓の決起成功の立役者の一人)に駅馬を使わせて直ちに慰撫に赴かせると、動揺は終息に向かった。
 この時、高澄は隆之に密書を送って言った。
「仲密と共に西に出奔した者たちの家族を全て捕らえ、見せしめとせよ。」
 隆之はこれを見て歓にこう上申した。
「寛容の方針を理由なく改め、一転して弾圧を行なえば、民は国に不信を抱いて叛乱を起こします。その損失は大きいでしょう。」
 高歓はこれに頷き、家族の逮捕を中止させた。

○北斉21封隆之伝
 徵拜尚書右僕射。武定初,北豫州刺史高仲密將叛,遣使陰通消息於冀州豪望,使為內應,輕薄之徒,頗相扇動。詔隆之馳驛慰撫,遂得安靜。世宗密書與隆之云:「仲密枝黨同惡向西者,宜悉收其家累,以懲將來。」隆之以為恩旨既行,理無追改,今若收治,示民不信,脫或驚擾,所虧處大。乃啟高祖,事遂得停。

┃李昌儀、乱世の定めに従う
 この時、仲密の妻の李昌儀や子どもたちも西魏に亡命しようとしたが、中途にて追いつかれ、捕らえられた。
 澄は処刑される運命に在った仲密の妻の李昌儀の前に盛装をして現れ、こう問いかけた。
「今日は誘いを受けてくれるな?」
 昌儀ははいともいいえとも言わずにただ黙っていたが、澄はこれを了承と受け取って彼女を側室とした(北斉21高慎伝では『慎妻子…配没而已(奴隷にするに留めた)』とある)。

 11月、澄が侍中の辞職を申し出た。東魏は澄の弟で并州刺史・太原公の高洋時に18歳)にこれを代わらせた。

○資治通鑑
 五月壬辰,東魏以克復虎牢,降死罪已下囚,唯不赦高仲密家。丞相歡以高乾有義勳【謂起兵於信都以奉歡也】、高昂死王事【謂戰死于河陽也】、季式先自告【謂先自永安戍奔告歡也】,皆為之請免其從坐。仲密妻李氏李昌儀當死,高澄盛服見之,曰:「今日何如?」李氏默然,遂納之【高澄以漁色,使宗勳外叛,其父幾死于兵,長惡不悛,衒服以誘納之,他日楊燕之禍,叔姪相屠,釁由李氏,豈天也邪!】。…冬十一月甲午,東魏主狩于西山。乙巳,還宮。高澄啟解侍中,東魏主以其弟并州刺史太原公洋代之。
○北斉21・北31高慎伝
 高祖破之於邙山。慎妻子將西度,於路盡禽之。高祖以其勳家,啟慎一房配沒而已。〔仲密妻逆口行中,文襄盛服見之,乃從焉。

┃四貴と高澄の確執
武定二年(544)、3月、〕壬子(28日)、東魏が尚書令の高澄時に24歳)を大将軍・領中書監(魏孝静紀では侍中)とした。
 当時、殆ど晋陽にいる歓に代わって鄴の朝政を取り仕切っていたのは、孫騰歓に早くから従い、懐刀として活躍した。542年参照)・司馬子如歓の親友。歓が婁昭君・澄母子と仲違いした時、その間を取り持った)・高岳歓の従父弟。韓陵山の戦いに非常な活躍をした)・高隆之歓に可愛がられ、義弟とされた。542年参照)の四人だった。彼らはみな歓の親党(腹心)であり、鄴中から『四貴』と呼ばれた。彼らは絶大な権力を持ち、それを笠に専横・強欲の限りを尽くした。
 歓はその四貴の権力を弱めるために、澄を武の長官である大将軍と文の長官である中書監とし、更に門下省が司る機密事務を全て中書に移管して、文武官の賞罰を行なう際は必ず澄に報告してから実施するようにさせたのだった。

 ある時、孫騰は澄に会った際、充分な敬意を払わなかった事があった。すると高澄は騰を叱責し、左右に命じて自分の座っている牀(座具・寝具)の下にまで引っ張ってこさせ、刀環(刀の柄にある輪。刀の柄)で殴打したのち、門外に立たせた。
 また、高洋が澄の前で高隆之に拝礼し、これを叔父と呼んだ事があった。すると澄は怒って洋を罵倒した。
 高歓は諸公にこう言った。
「我が息子は段々と成長してきた。公らはこれと争ってはならぬ。」
 これ以降、公卿以下は澄に会うと恐れおののくようになった。
 高澄は叔母の夫〔で定州刺史〕の厙狄干歓の妹の夫。歓に信頼され大軍の指揮を任された)が定州より会いにやってきた時でさえも、門外に三日も立たせたのち、ようやく会うことを許した。

○資治通鑑
 丞相歡多在晉陽,孫騰、司馬子如、高岳、高隆之,皆歡之親黨也,委以朝政,鄴中謂之四貴,其權勢熏灼中外,率多專恣驕貪。歡欲損奪其權,故以澄為大將軍、領中書監,移門下機事總歸中書【門下省眾事,侍中、給事中等掌之;今高歡移而總歸中書,所以重澄之權】,文武賞罰皆稟於澄。
 孫騰見澄,不肯盡敬,澄叱左右牽下於牀,築以刀環,立之門外。太原公洋於澄前拜高隆之,呼為叔父【隆之本洛陽人,歡命為弟,故洋以叔父呼之】;澄怒,罵之。歡謂群公曰:「兒子浸長,公宜避之。」於是公卿以下,見澄無不聳懼。狄干,澄姑之壻也【干娶歡妹】,自定州來謁,立於門外,三日乃得見。
○魏孝静紀
 壬子,以齊文襄王為大將軍,領侍中,其文武職事、賞罰眾典,詢稟之。
○北斉文襄紀
 興和【[三]魏書卷一二、北史卷五孝靜帝紀,高澄為大將軍在武定二年五四四,距興和二年五四0四年。觀下文說高澄「奏吏部郎崔暹為御史中尉」,檢本書卷三0崔暹傳稱「武定初,遷御史中尉」,則這裏「興和」為「武定」之誤無疑。】二年,加大將軍,領中書監,仍攝吏部尚書。
○北斉18孫騰伝
 在鄴,與高岳、高隆之、司馬子如號為四貴,非法專恣,騰為甚焉。高祖屢加譴讓,終不悛改,朝野深非笑之。
○北斉39崔季舒伝
 文襄為中書監,移門下機事總歸中書。

 ⑴高隆之は高歓に義弟とされていた。故に洋は隆之の事を叔父(父の弟)と呼んだのである。

┃文辞繁雑
 澄は孝静帝の左右に己の腹心を置くことを目論見、大将軍中兵参軍の崔季舒を中書侍郎とした。澄が帝に送る諫言や請願の上書は、ごちゃごちゃとして意図が分かりにくくなっていることがあったが、季舒がこれを分かりやすく書き直したので、帝は澄の言いたい事を察して対応する事が出来た。帝は澄父子へ返事を返す際、季舒と相談してから行なうのが常となった。帝はこう言った。
「崔中書は朕の乳母である。」

○北斉31崔季舒伝
 文襄每進書魏帝,有所諫請,或文辭繁雜,季舒輙修飾通之,得申勸戒而已。靜帝報答霸朝,恒與季舒論之,云:「崔中書是我妳母。」


┃崔暹、御史中尉となる
 北魏は正光年間(520~524)以降、政刑が弛緩し、官職に就いている者の多くが汚職に走っていた。そこで高歓が司州中従事の宋遊道元淵、爾朱世隆に仕えた。526年〈2〉・531年〈3〉参照)を御史中尉(御史台次官)としてその取り締まりを図ると、高澄は何度も請願してこれを吏部郎中の崔暹に代え、遊道を尚書左丞とした(武定元年〈543〉の事)。澄は暹と游道にこう言った。
「卿らの片方が南台(御史台)を統べ、もう片方が北省(尚書省)を統べれば[1]、天下は全く粛然となるだろう。」
 
 澄は暹の権威を高めようとして、ひと芝居を打った。ある時、澄が諸公(王公大臣)を呼び集めて酒宴を開いた際に、暹だけが遅れてやってきた。〔召し使いが〕姓名を伝えると、澄は特別待遇をもってこれを迎えた。暹は〔召し使い〕二人に服の両裾を持たせたのち、顎を上げた姿で一座の中をゆっくりと歩いた。澄が拱手の礼を行なって傍の席を空けると、暹は遠慮せずにその席に座ったが、酒を二度酌み交わしただけですぐに暇を告げて去ろうとした。澄は言った。
「少しばかりだが粗餐があるのだ。ちょっとでもいいから食べていったらどうか。」
 暹は答えて言った。
「陛下から役所の監査に行けと言われているのです。」
 かくて食事が運ばれてくるのを待たずに場を去った。澄は階段を降りてこれを見送った。
 後日、澄が諸公とともに東山に赴こうとしたところ、その中途にて市中の見回りをしている暹の行列に出くわした。澄の行列の先頭が暹の先払いの者の赤棒に打たれると、澄は馬首を返してその行列を避けた。〔諸公はこれらを見て暹を恐れはばかるようになった。〕

○資治通鑑
 魏自正光以後,政刑弛縱,在位多貪汙。丞相歡啟以司州中從事【五代志:後齊司州置牧,屬官有別駕從事史、治中從事史】宋遊道為御史中尉,澄固請以吏部郎崔暹為之,以游道為尚書左丞。澄謂暹、游道曰:「卿一人處南臺,一人處北省【御史臺謂之南臺,尚書省謂之北省。杜佑曰:御史臺在宮闕西南,故名南臺。尚書省在北,故曰北省】,當使天下肅然。」
○北斉30崔暹伝
 武定初,遷御史中尉,選畢義雲、盧潛、宋欽道、李愔、崔瞻、杜蕤、嵇曄、酈伯偉、崔子武、李廣皆為御史,世稱其知人。世宗欲假暹威勢。諸公在坐,令暹〔後通名,因待以殊禮。暹乃〕高視徐步,兩人掣(擎)裾而入,世宗分庭對揖,暹不讓席而坐,觴再行,便辭退。世宗曰:「下官薄有蔬食,願公少留。」暹曰:「適受勑在臺檢校。」遂不待食而去,世宗降階送之。旬日後,世宗與諸公出之東山,遇暹於道,前驅為赤棒所擊,世宗回馬避之。
○北斉47宋游道伝
 及還晉陽,百官辭於紫陌。神武執遊道手曰:「甚知朝貴中有憎忌卿者,但用心,莫懷畏慮,當使卿位與之相似。」於是啟以遊道為中尉。文襄執請,乃以吏部郎中崔暹為御史中尉,以遊道為尚書左丞。文襄謂暹、遊道曰:「卿一人處南臺,一人處北省,當使天下肅然。」

 [1]杜佑曰く、御史台は宮廷の西南に遭ったので、南台と呼ばれた。尚書省は北にあったので北省と呼ばれた。

┃粛正
 尚書令の司馬子如は歓の挙兵に参加しなかったにも関わらず、歓の親友であったことから重任を任されていたが、それを鼻にかけて思い上がること甚だしく、太師・司州牧の咸陽王坦らと共に不正な蓄財を行なってやまなかった。高澄はこれを嫌悪し、暹に子如・坦及び、尚書の元羨・殷州刺史の慕容献・并州刺史の可朱渾道元・冀州刺史の韓軌らの罪を事細かにあげつらって弾劾させた。
 また、宋游道も子如・坦及び太保の孫騰・司徒の高隆之・司空の侯景・録尚書の元弼らを、賄賂を受け取って官爵を勝手に与えたり、判決を曲げたりした罪で弾劾した。
 これらの弾劾は収賄の事実を明らかにしたわけではなかったが、澄はこれを事実だと見なして子如を獄に入れた。子如は〔処刑への恐怖の余り〕髪を一夜にしてみな白髪に変えてしまった。子如は罪を認めて言った。
「私めは、夏州よりやっとのことで相王(歓のこと。歓は大丞相・渤海王だった)のもとにたどり着いた際[1]、相王から露車(ほろの無い車?)一台と、角の曲がった母牛・子牛を賜りましたが、子牛は道中にて死に、ただ母牛だけが残りました。それ以外の財産はみな人から手に入れた物であります。」
 歓は書簡を澄に送って言った。
「司馬令(子如は尚書令)はわしの旧友だ。寛大な処置をせよ。」
 澄は馬車を市中に停め、檻の中から子如を出してその鎖を解いた(澄は子如の性根を叩き直すため、これを檻車で連れ出し、わざと刑場の市場で足を止めて、すわ処刑かと怖がらせたのであろう)。子如はびくびくしながら言った。
「処刑するのではないのですか?」(澄はむかし子如に救ってもらった恩を忘れていなかったのかもしれない。そもそも処刑は単なるポーズだったのかもしれないが
 8月、癸酉(21日)、子如の官爵を削った。
 9月、甲申(3日)、太師の咸陽王坦を免官したが、王爵はそのままとした。
 元羨らはみな免官となり、それ以外にも死刑に遭った者、降格された者が非常な数に上った。

○資治通鑑
 辭曰:「司馬子如從夏州策杖投相王【中大通四年,歡破爾朱氏,召子如於南岐州,蓋雍、華路阻,取道夏州東歸也】,…賜酒百缾,羊五百口,米五百石【澄繩之以公法,歡接之以舊恩,此其父子駕御勳貴之術也】。
○魏孝静紀
 秋八月癸酉,尚書令司馬子如坐事免。九月甲申,以開府儀同三司、濟陰王暉業為太尉。太師、咸陽王坦坐事免,以王還第。
○北斉18・北54司馬子如伝
 轉尚書令。子如義旗之始,身不參預,直以高祖故舊,遂當委重,意氣甚高,聚斂不息。時世宗入輔朝政,內稍嫌之,尋以贓賄為御史中尉崔暹所劾,禁止於尚書省。〔在獄一宿而髮皆白。辭曰:「司馬子如本從夏州策一杖投相王,王給露車一乘,觠牸牛犢。犢在道死,唯觠角存。此外,皆人上取得。」神武書敕文襄曰:「馬令是吾故舊,汝宜寬之。」文襄駐馬行街,以出子如,脫其鎖。子如懼曰:「非作事邪?」於是〕詔免其大罪,削官爵。
○北斉30崔暹伝
 暹前後表彈尚書令司馬子如及尚書元羨、雍(殷)州刺史慕容獻,又彈太師咸陽王坦、并州刺史可朱渾道元〔、冀州刺史韓軌〕,罪狀極筆,並免官。其餘死黜者甚眾。
○北斉47宋游道伝
 遊道入省,劾太師咸陽王坦、太保孫騰、司徒高隆之,司空侯景、錄尚書元弼、尚書令司馬子如官賚金銀,催徵酬價,雖非指事贓賄,終是不避權豪。
○北19元坦伝
 後歷司徒、太尉、太傅,加侍中、太師、錄尚書事、宗師、司州牧。雖祿厚位尊,貪求滋甚,賣獄鬻官,不知紀極。為御史劾奏,免官,以王歸第。

 [1]高歓は爾朱氏を韓陵山にて大破したのち、南岐州刺史の子如を自分のもとに呼び寄せた。思うに、このとき雍・華の道は爾朱氏によって塞がれており、子如は夏州から歓のもとに赴かざるを得なかったのだろう(532年〈2〉参照)。
 [2]澄は法律を以て、歓は寛容を以て勲貴を統御したのである。

┃勲貴の反撃
 尚書左丞の宋游道が、尚書省内の不正行為を数百ヶ条にわたって列記し、孝静帝に提出して省内で権勢を振るっていた王儒の一派を叩き出した。また、先例に拠って尚書省の門前に省吏の名前を掲示し、出勤の遅い者や退勤の早い者を明記した。これに令(長官)・僕(次官)以下の吏員はみな反発した(原文『側目』。或いは恐れおののいた)。
 司徒の高隆之が、游道を不臣の言を吐いたと誣告し、死罪に処すべきだと言った。澄は

給事黄門侍郎の楊愔名門楊氏の貴公子。爾朱氏に一族を殺されて歓のもとに逃れ、大行台右丞とされていた。のち、537年〈2〉参照)にこう言った。

「これこそ誠に『剛直大剛悪人』というものだな。」
 愔は言った。
「犬を飼うのは吠えてくれるのを期待するからです。いま遊道を殺せば、以降誰も不正を糾弾せぬようになるでしょう。」
 かくて游道は死を免じられ、除名処分とされた。しかし、澄は元景康を派して游道にこう伝えさせた。
「卿は早く私と共に并州に向かうべきである。でなければ、卿はいずれ殺されることになるだろう。」
 11月、甲申(4日)、游道はこれに従い、澄と共に晋陽に赴いて大行台吏部郎とされた。

○魏孝静紀
 齊文襄王如晉陽。庚子,車駕有事於圓丘。辛丑,蕭衍遣使朝貢。
○北斉47宋游道伝
 又奏駁尚書違失數百條,省中豪吏王儒之徒並鞭斥之。始依故事,於尚書省立門名,以記出入早晚,令僕已下皆側目。…遊道判下廷尉科罪,高隆之不同。於是反誣遊道厲色挫辱己,遂枉考羣令史證成之,與左僕射襄城王旭、尚書鄭述祖等上言曰:「…況遊道吐不臣之言…今依禮據律處遊道死罪。」是時朝士皆分為遊道不濟。而文襄聞其與隆之相抗之言,謂楊遵彥曰:「此真是鯁直大剛惡人。」遵彥曰:「譬之畜狗,本取其吠,今以數吠殺之,恐將來無復吠狗。」詔付廷尉,遊道坐除名。文襄使元景康謂曰:「卿早逐我向并州,不爾,他經略殺卿。」遊道從至晉陽,以為大行臺吏部,又以為太原公開府諮議。
 
┃山胡討伐

 壬寅(11月22日)高歓高澄を従えて山胡(汾州山中の稽胡)討伐に向かった。
 歓は山胡を二道から攻めることにし、赤洪嶺を通る北道軍は自らが率い、黄櫨嶺を通る南道軍は南道軍司とした大司馬の斛律金に任せた。
 二軍は烏突戍にて合流して山胡を撃破し、一万余戸を虜とした。歓はこれを諸州に分配した。
 晋陽に帰還すると、金を冀州刺史とした。
 
 進軍の途中、高澄は伏兵の存在を疑い、親信副都督の皮景和に五・六騎を付けて谷の中を偵察させた。すると、果たして百余の敵兵に出くわした。景和は即座にこれと戦い、百発百中の腕前を以て数十人を射殺した。

○魏孝静紀
 壬寅,齊文襄王從獻武王討山胡,破之,俘獲一萬餘戶,分配諸州。
○北斉神武紀
 十一月,神武討山胡,破平之,俘獲一萬餘戶口,分配諸州。
○北斉17斛律金伝
 三年,高祖出軍襲山胡【[四]三年高祖出軍襲山胡 按本書卷二神武紀補、魏書卷一二孝靜紀,事在武定二年五四四十一月。「三年」當作「二年」】,分為二道。以金為南道軍司,由黃櫨嶺出。高祖自出北道,度赤谼嶺,會金於烏突戍,合擊破之。軍還,出為冀州刺史。
○北斉19薛孤延伝
 又頻從高祖討破山胡。
○北斉41皮景和伝
 初以親信事高祖,後補親信副都督。武定二年,征步落稽。世宗疑賊有伏兵,令景和將五六騎深入一谷中,值賊百餘人,便共格戰,景和射數十人,莫不應弦而倒。

 ⑴赤洪嶺…《読史方輿紀要》曰く、『永寧州(離石)の東北三十里にある。或いは州の北百八十里にある』。532年に爾朱兆を追撃した場所。
 ⑵黄櫨嶺…《読史方輿紀要》曰く、『永寧州の西北(東南?)八十里にある』
 ⑶斛律金…字は阿六敦。488~567。朔州勅勒部の人。父は第一領民酋長の斛律大那瓌。質実剛健、誠実で実直な人柄で、騎射が上手く、匈奴の兵法を戦いに用い、敵が巻き上げた土煙でその多寡を知ることができ、風が運ぶ臭いでその位置を測ることができた。漢字が苦手で、本名は敦といったが、敦の字を書くのが難しかったので簡単に書ける金に改名した。それでもまだ苦戦したが、司馬子如に金の字を家に見立てるよう教えられるとようやく書けるようになった。初め懐朔鎮将の楊鈞の軍主となり、柔然主の阿那瑰を故地に送った時、射術の巧みさを感嘆された。のち阿那瑰が高陸に侵攻するとこれを撃破した。破六韓抜陵が叛乱を起こすと部衆を率いてこれに付き、王とされた。のち部衆一万戸と共に抜陵に背いて北魏に付き、第二領民酋長とされた。間もなく杜洛周に敗れて爾朱栄のもとに逃れると別将とされた。のち都督とされた。孝荘帝が即位すると阜城県男とされた。のち葛栄・元顥戦に功を立てて鎮南大将軍とされた。高歓が爾朱氏に叛く際賛同し、歓が鄴を攻める際は恒雲燕朔顕蔚六州大都督とされて信都の留守を任された。のち韓陵の決戦では歓を救う大功を立てた。のち爾朱兆討平に加わった。532年、汾州刺史・当州大都督・侯とされた。のち紇豆陵伊利討伐に加わった。534年の鄴遷都の際には三万を率いて風陵渡を鎮守し、西魏の攻撃に備えた。沙苑の敗北の際には歓の馬を鞭で叩いて歓を無理矢理撤退させた。敗北後は東雍州の奪還に活躍した。河橋の決戦の際には河東に進軍し、晋州に到った所で西魏軍が撤退したのを知ると喬山の賊を討平し、南絳・邵郡などを陥とした。邙山の決戦の際には数万を率いて河陽城を守備した。間もなく大司馬・石城郡公・第一領民酋長とされた。545年、南道軍司とされて歓と共に山胡を討った。帰還すると冀州刺史とされた。546年、歓と共に玉壁を攻め、歓が病床に臥すと勅勒歌を歌って慰めた。歓の臨終の際、「勅勒の長老で剛直な人柄ゆえ、最後までお前(高澄)に背かぬ」「お前(澄)は漢人を多く用いているが、彼らが金を讒言してきても信じるでないぞ」と評された。高澄が跡を継ぎ侯景が叛乱を起こすと河陽を守備した。帰還すると肆州刺史とされた。のち宜陽に楊志・百家・呼延の三戍を築いた。西魏の王思政が潁川に拠ると再び河陽を鎮守し、最短援路を遮断した。のち更に潁川攻めに加わった。のち宜陽に兵糧を運び込み、西魏の九曲戍将の馬紹隆を撃破した。北斉が建国されると咸陽王とされ、刺史はそのままとされた。病気になると手厚い看護を受けた。552年、太師とされた。文宣帝の奚討伐に加わり、553年に刺史を解かれて晋陽に呼び戻された。554年、顕州道より石楼の稽胡を討伐した。のち柔然が突厥に敗れると二万を率いて白道を鎮守し、柔然を撃破した。555年、帝と共に柔然を大破した。文宣帝が凶暴化すると胸に三度矟を突きつけられたが動じなかった。557年、右丞相・食斉州幹とされた。559年、左丞相とされた。560年、孝昭帝が即位すると孫娘が皇太子妃とされた。561年に武成帝が即位する際、百官を引き連れて勧進する役目を努めた。また、再び孫娘が太子妃とされたが、驕ることは無かった。567年に死去し、武と諡された。  
 ⑷烏突戍…《読史方輿紀要》曰く、『汾州(西河郡)の西北二百里にある。』今の臨県にある。

┃高歓暗殺計画
 東魏の開府儀同三司の爾朱文暢爾朱栄の第四子。歓の側室の爾朱氏の弟)・丞相府司馬の任胄任祥〈勲貴の一人。徐州刺史。538年秋に亡くなった〉の子)・都督の鄭仲礼歓の側室の鄭大車〈高澄に迫られ、関係を持った。535年(1)参照〉の弟。歓の弓矢の管理を任され、常にその外出に付き従った)・中府主簿の李世林・前開府参軍の房子遠房謨の前妻の子)らが酒盛りと称して集まり、密かに丞相の高歓の暗殺計画を練った。
 しかし任氏の食客の薛季孝なる者がこれを歓に密告した。歓がそこで文暢らを捕らえて厳しく尋問した所、みな罪を白状した。
 武定三年(545)、春、正月、甲午(15日)、歓はそこで文暢らを死刑に処した(文暢、享年18)。

 鄭仲礼の姉で歓の側室の鄭大車は、家族へ連座を及ぼすのを歓にやめさせようとしたが、避けられて会うことができなかった。そこで正室の婁昭君と息子の高澄時に25歳)が大車の代わりに訴えると、歓はとうとうこれを了承した[→545年⑴参照]。

○北斉神武紀
 三年正月甲午,開府儀同三司尒朱文暢、開府司馬任冑、都督鄭仲禮、中府主簿李世林、前開府參軍房子遠等謀賊神武,因十五日夜打簇,懷刃而入,其黨薛季孝以告,並伏誅。
○北35鄭仲礼伝
 庶子仲禮,少輕險,有膂力。齊神武嬖寵其姊火車,以親戚被昵,擢為帳內都督。掌神武弓矢,出入隨從。與任冑俱好酒,不憂公事,神武責之。冑懼,潛通西魏,為人糾告,懼,遂謀逆。事發,火車欲乞哀,神武避不見。賴武明皇后及文襄爭為言,故仲禮死而不及其家。

┃崔暹顕彰
 3月、乙未(16日)、歓が鄴の朝廷に赴いた。百官は鄴から五百里西北の紫陌にてこれを出迎えた。歓は御史中尉の崔暹の手を握り、労をねぎらって言った。
「これまでにも朝廷に法官はいたが、天下に汚職がはびこっても何もしようとしなかった。しかし中尉は国のために心を尽くし、どんなに権勢の盛んな者でも恐れることなく弾劾したので、天下は全く粛然となり、百官はみな法を遵守するようになった。わしは先頭に立って敵陣を陥とす者はいくらでも見てきたが、百官の風紀を一変させた者は初めて見た。愚息(高澄)は重大な任務を任されながら才能はこれに見合わず、中尉がいなければ今日の成功は成し得なかったに違いない。我ら父子ではこれにどう報いていいものか分からぬゆえ、褒賞は中尉の取るに任せる。」
 孝静帝が華林園にて宴を開くと、歓にこう言った。
「近ごろ朝貴・牧守令長・下級役人に至るまで、貪汚の風がはびこり、人民を搾取すること甚だしい。王よ、〔ここはその風紀を改めるためにも〕朝廷の中で心配りが公平で、直言弾劾を行ない、王族や重臣ですら憚らぬ者に酒を勧めるがよい。」
 歓は階段から降り、跪いてこう言った。
「それに当てはまる者は、御史中尉の崔暹ただ一人であります! 謹んで御旨を承りまするが、敢えてここは酒だけでなく、臣が先ほど宴射で賜った千段の絹も暹に転じてお与えになるよう願い申し上げます。」
 帝はこれを許した。ここにおいて高澄が暹に酒を勧め、歓は彼のために抃舞(ベンブ、手を打って踊る舞)を舞った。帝は暹にこう言った。
「崔中尉が法を執行すると、僧俗ともに粛然となった。」
 暹は拝謝して言った。
「これは全て、陛下の教化と、これを押し広めた大将軍臣澄の努力の賜物であります。」
 澄は退出すると、暹にこう言った。
「私ですら敬服しているのだから、他の者なら尚更そうであろう!」

○北斉神武紀
 三月乙未,神武朝鄴。
○北斉30・北32崔暹伝
 高祖如京師,羣官迎於紫陌。高祖握暹手而勞之曰:「往前朝廷豈無法官,而天下貪婪,莫肯糾劾。中尉盡心為國,不避豪強,遂使遠邇肅清,羣公奉法。衝鋒陷陣,大有其人,當官正色,今始見之。〔小兒任重才輕,非中尉何有今日?〕今榮華富貴,直是中尉自取,高歡父子,無以相報。」賜暹良馬,使騎之以從,且行且語。暹下拜,馬驚走,高祖為擁之而授轡。魏帝宴於華林園,謂高祖曰:「自頃朝貴、牧守令長、所在百司多有貪暴,侵削下人。朝廷之中有用心公平,直言彈劾,不避親戚者,王可勸酒。」高祖降階,跪而言曰:「唯御史中尉崔暹一人。謹奉明旨,敢以酒勸,並(并)臣所射賜物千疋(段),乞回賜之。」〔於是文襄亦催暹酒,神武親為之抃。文襄退,〕帝曰:「崔中尉為法,道俗齊整。」暹謝曰:「此自陛下風化所加,大將軍臣澄勸奬之力。」世宗退謂暹曰:「我尚畏羨,何況餘人。」〔神武將還晉陽,又以所乘馬加綵物賜暹。〕由是威名日盛,內外莫不畏服。

┃妖艶、元玉儀
 しかし、暹は真面目一辺倒ではなく、悪賢い部分も多く持ち合わせていた。
 これより前、東魏の高陽王斌字は善集。高陽王雍〈北魏の丞相。河陰の変にて爾朱栄に殺された。528年(3)参照〉の孫。眉目秀麗で、謙虚で穏やかな性格をしており、慎み深く仕事に当たったので、澄にいたく気に入られた)の庶妹の元玉儀は、〔妾の子ゆえに〕一族から排斥され、孫騰の妓女とされたが、そこでも見捨てられてしまっていた。
 高澄は道中にて彼女と出会って一目惚れし、側室とした。澄は彼女にひどく熱を上げたが、そのぞっこんぶりは、帝に無理を言って琅邪公主に封ぜさせるほどだった[1]。澄は崔季舒にこう言った。
「お前はいつも私のために美女を探してくれていたが(538年〈2〉参照)、結局、私自身が見つけた絶世の美女が一番だったな。崔暹はきっと諌めてくる()だろうが、なに、対処の方法は考えてある。」
 果たして暹が諌めに来ると、澄は不快な表情や態度を見せ〔てその機先を制し〕た。三日後、暹はわざと自分の名刺を澄の前に落とした。澄はこれを訝しく思って言った。
「何用のものだ?」
 暹は驚いた振りをして言った。
「〔絶世の美女と噂の〕公主に一目会いたいと思いまして。」
 澄はこれを聞くや相好を崩し、その手を取って玉儀と引き合わせ〔て自慢し〕た。季舒は人にこう言った。
「暹はいつもわしをおべっか使いだと怒って、大将軍の前で事あるごとに『叔父を殺すべきだ』と言っているが、おべっかなら暹の方が凄いではないか!」

 澄はのち(547〜549)、玉儀(王昭儀とあるが、恐らく玉儀のことであろう)を愛するあまり、孝静帝の妹の馮翊長公主541年参照)に代えて彼女を正室にしようとまで考えた。暹はこれを諫めて言った。
「天命(人心)はまだ魏にありますし、馮翊長公主も何か過ちを犯したわけではございませぬゆえ、受け入れないかと思います。」
 澄はなかなか聞き入れようとしなかったが、暹が食い下がると、とうとう事を諦めた。

 玉儀の同母姉の元静儀は黄門郎の崔括に嫁いでいたが、澄はこれとも関係を持ち、公主とした。括の父子はこれと引き換えに異例の出世をし、非常に多くの賞賜を賜った。

○資治通鑑
 然暹中懷頗挾巧詐。初,魏高陽王斌有庶妹玉儀,不為其家所齒,為孫騰妓,騰又棄之;高澄遇諸塗,悅而納之,遂有殊寵【白居易詩云:天下無正色,悅目卽為姝。誠有是事。蓋玉儀所乏者非色,必妖媚善蠱惑,故所如衆女謠諑而不見容】,封琅邪公主。澄謂崔季舒曰:「崔暹必造直諫,我亦有以待之。」及暹諮事,澄不復假以顏色。居三日,暹懷刺墜之於前【《續世說》:古者未有紙,削竹木以書姓名,謂之刺。後以紙書,謂之名紙。唐李德裕貴盛,人務加禮,改具銜候起居之狀,謂之門狀】。澄問:「何用此為?」暹悚然曰:「未得通公主。」澄大悅,把暹臂,入見之。季舒語人曰:「崔暹常忿吾佞,在大將軍前,每言叔父可殺;及其自作,乃過於吾。」
○北14琅邪公主伝
 琅邪公主名玉儀,魏高陽王斌庶生妹也。初不見齒,為孫騰妓,騰又放棄。文襄遇諸途,悅而納之,遂被殊寵,奏魏帝封焉。文襄謂崔季舒曰:「爾由來為我求色,不如我自得一絕異者。崔暹必當造直諫,我亦有以待之。」及暹諮事,文襄不復假以顏色。居三日,暹懷刺,墜之於前。文襄問:「何用此為?」暹悚然曰:「未得通公主。」文襄大悅,把暹臂入見焉。季舒語人曰:「崔暹常忿吾佞,在大將軍前,每言叔父合殺。及其自作體佞,乃體過於吾。」玉儀同產姊靜儀,先適黃門郎崔括,文襄亦幸之,皆封公主。括父子由是超授,賞賜甚厚焉。
○北32崔暹伝
 文襄盛寵王昭儀【[四六]按「 王昭儀」當是玉儀之誤,見本書卷十四齊文襄敬皇后傳。高澄未曾為帝,其妾不得有昭儀之號】,欲立為正室,暹諫曰:「天命未改,魏室尚存,公主無罪,不容棄辱。」文襄意不悅,苦請乃從之。

 [1]白居易の詩(議婚)にある『人間無正色(人に本当の美人などいない)、悦目即為姝(見た目が良ければそれは美人となる)。』とは、まことにこの事を指している。玉儀は容色に乏しい者ではなく、美人で、妖しい色香を以て人の心を惑わした者だった。だからこそ女たちに妬まれ、中傷を受けて排斥されたのであろう。


 

 ⑶に続く